M・ミッチェル「風と共に去りぬ」河出世界文学全集・別巻

 
 実はこの本はなくしてしまってもう手許にはない。読んだのは1960年、中学一年のころで、その頃刊行されていた河出の世界文学全集の別巻。全集はグリーンの表紙のものだったが、別巻(確か、この「風・・・」だけの3冊であったように記憶している)だけがクリーム色の表紙だった。これは読み物であって文学ではないけれども一応入れてあげる。けれども別扱いというような感じだったのだろうか? 芥川賞全集の中に一冊直木賞受賞作がまじるとでもいったような。
 鮮烈に記憶しているのが、それで完結だと思って1・2巻を買い、あっという間に読んでしまい、それで未完でまだ3巻があることに気づき、その第3巻はまだ刊行されていないことがわかって、それが刊行されるまでまっていた時間の長さである。人生であれほど何かを鮮烈に待った時間というのはないかもしれない(あるいは全2巻で上巻だけ買って、下巻がでていなかった? 3巻だったように思うのだが・・)。なんでそんなに面白かったのかというと、主人公の一人レット・バトラーがもう好きで好きで、これはもう俺のことを描いているのかと思ったくらいであった。ひょっとすると今まで読んだ小説の中で主人公の気持ちが本当にわかったような気になれたものの筆頭かもしれない。それで少なくとも3回は読み返したと思うので、その内容のあらかたは頭にはいっていると思っている。それで、以下に書くことは手許に本がない状態で書くので、あるいは記憶違い思い違いがあるかもしれない。何しろ最後に読んだのがもう半世紀近く前であるので(なお、Wikipediaにきわめて詳細なまとめがあったので参照した)。
 これを思い出したのは塩野七生氏の「男たちへ」を最近偶然読み返す機会があり、その中の「『風と共に去りぬ』に見る男の形」という文章を読んで、こんなにも違う見方があるのかと思ったのが直接のきっかけである。
 この小説の舞台は南北戦争前後の南部アトランタジョージア。「風と共に去った」のはいうまでもなく、南部の貴族的白人文化である。時代が1860年代であるから、イギリスではヴィクトリア朝のまっ直中であり、歴史のない国アメリカでは当然イギリスを模倣するので、南部の貴族的白人文化もヴィクトリア朝的な偽善で彩られている。貴族といってもイギリスのジェントリーのような歴史はもたない成り上がりがほとんどである。
 そういう偽善なんか馬鹿みたいと思っている女として主人公のスカーレット・オハラが登場してくる。アイルランド系の移民から成り上がった大農園主の娘である。彼女はアシュレーという青年に恋している。この青年はスカーレットと同じ階級であるが、どういうわけは成り上がり的ではない教養の持ち主として描かれている。アシュレーは「違いがわかる男」であり、南部の文明も大部分は偽善的であるが一部には本物も混じっていることを理解している。しかしこの青年、老成した人物でもあって「かのように」哲学を信奉していて、偽善的な道徳も本当の道徳であるかのようにあつかうべきで、その方が世は安泰という生き方をしている。
 アシュレーは、南部貴族社会のなかでもまれな本当の美徳を体現している女性である従姉妹のメラニーと結婚する。メラニーはあらゆる人間の中に善をみてしまう、人間の中にひそむどす黒いもの、醜いもの、狂的なものをどうしても理解できない一種の聖女として描かれている。
 アシュレーがメラニーと結婚することを知り、スカーレットは怒り狂う。「あんな醜い偽善女のどこかいいの!」というわけである。なにしろ彼女は「違いがわからない女」なので、味噌も糞も一緒、道徳なんて建前は馬鹿みたいとしか思えない困ったひとなのである。
 そういうスカーレットを「おもしろい女だなあ!」と思う男としてレット・バトラーという男が登場してくる。この男も名家出身らしいのだが、貴族のしきたりに従わず親からは勘当され、自分の腕一つで戦争前後の世の混乱に乗じて巨万の富を築いた。レットからみればスカーレットは我が同類である。レットはスカーレットをみて、「よし、この女をおれ好みの女に育ててみよう!」と決意する。
 というわけで、この小説はレットがスカーレットを教育していく「ピグマリオン=マイ・ファア・レディ」の物語でもある。ところでレット・バトラーは「違いのわかる男」でもあるので、貴族のしきたりなんか糞くらえではあっても、本当の貴族の前では頭を垂れる。そういうところは自分の弱点でもあると思っていて、本物と偽物の違いもわからない、本物さえも平気で馬鹿にするスカーレットをいっそ潔いと思うのである。
 さてこの4人の主要人物たちは、そうしてみると実にきれいに図式的に分類できる。男2人(レットとアシュレー)はともに「違いのわかる男」である。女2人(スカーレットとメラニー)は「違いのわからない女」である(なにしろ、メラニーにとってすべての人間は本質的に善なのであるから)。さてそうではありながら、レットはやりたい放題であるのに対して、アシュレーは「かのように」である。また、スカーレットがやりたい放題であるのに対して、メラニー貞淑な妻である。この(+、+)(+、ー)(ー、+)(ー、ー)に4つの象限に区分される主人公たちが、くっついたり反発したりして、小説が進行していく。
 ここで塩野氏に話が戻る。塩野氏は「ずっとアシュレーが好きだった」というのである。「レットは一匹狼、それに対してアシュレーは故郷を持つ男、自分が属する社会を持つ男」なのである、と。塩野氏は根なし草は信用できないというか、唐様で書く三代目のほうがいいとする人らしい。またいう「レットはスカーレットを愛していない」。これはその通りだと思う。レットはヒギンス博士であって、スカーレット=イライザという自分の自由になる綺麗なおもちゃが欲しかっただけなのであるから、それを愛情という言葉でいうことはできないであろう。
 そこまではいいが、氏は「アシュレーもスカーレットを愛していない」ともいう。そうだろうか? アシュレーはスカーレットを愛していたのだろうと思う。その肉体だけを。精神の愛はメラニーに、肉体の愛はスカーレットに!、というようなとことでうじうじしているのがアシュレーさんの実に困ったところで、この分裂はまさしく南部貴族社会に露呈するヴィクトリア朝的偽善なのである。アシュレーの魅力のなさはそれによるとわたくしは思う。
 塩野氏の主張とは異なり、この小説の後半になって、レットは故郷を持とう、自分が属する社会を持とうとしはじめる。一匹狼であることをやめようとするのである。自分のためにではなく、自分の娘のために。根をもたない不幸をよくわかっているし、自分はそれを甘受するが、娘にはそれを味あわせたくないと思うからである。ところがスカーレットにはそれを理解できない。彼女は本質的に文明というものを理解できない人間なのである。したがってスカーレットを南部アメリカ社会に属する根を持つ人間、帰っていく場所をもつ人間であるとする塩野氏の見解には、どうしても同感できない。
 「風・・」は大衆小説、通俗小説と思われているためなのだろうが、まともに論じた文をほとんど見たことがない(少なくともわたくしが見た範囲では)。例外が「貞女への道」に収められた橋本治氏の「男の貞女/純情篇」である。こちらのほうが、塩野氏のものより、わたくしの理解にずっと近いように思う。それで、そちらも少し見てみる。
 いくつかひろってみる。「レット・バトラーは、多分“遊び人”という種類の男、金持ちの不良息子、”旅から帰って来た男」「スカーレットもレットも上流階級のはみ出し者」「スカーレットの思考パターンは挫折を知らない子供のそれと同じ」「(当時の南部社会は)ヨーロッパの上流階級の様式をせっせと真似したという、典型的な“成金社会”、そこには贅沢はあってもあまり知的な深みというのはない」その中で「アシュレの一族というのは本とか芸術が好きな、非常に内省的な一族という変わり者、はみ出し者」「レットには大人のユーモアというようなものがある」
 橋本氏によれば、4人の主人公はみなはみ出し者である。スカーレットは自由奔放であることで、レットは不良息子として、そしてアシュレとメラニーは内省的であることで。しかし、スカーレットは「自分ははみ出していない!」と思い、レットは「俺はみ出しているが、おまえ(スカーレット)もはみ出している!」といい、アシュレは「僕ははみ出してはいるが、みんなと折り合いをつけていく」とし、メラニーはなにもいわずに黙ってアシュレと一緒にいる。
 レット・バトラーは南部が負けそうになると、あれほど馬鹿にしていたのに、南部のために負け戦に参加していく。このあたりのセンチメンタルな行動を塩野氏は激しく非難しているのだが、これは東映やくざ映画の美学であるし、衒学的にいえば林達夫が敗戦にしめした態度でもある(「私は決してその戦争を是認しているわけではないが、あの八月十五日全面降伏の報をきいたとき文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった。嫌悪に充ち満ちた古い日本ではあったが、さてこれが永遠の訣別となると、惻隠の情やみ難きもののあることは、コスモポリタンの我ながら驚いた人情の自然である」)。レットという人間はコスモポリタンでありながら南部の人なのである。
 スカーレットはメンドクサイ理屈なんか大嫌いである。それこそが彼女の魅力でもあるのに、そのスカーレットに自分のメンドクサイ理屈、細かい気持ちの襞までもわからせたいと思うレットの可哀そうな純情、ということを橋本氏はいう。最初こそは、「自分好みの女に育てる!」であったものが、どこからか「俺のことをわかって欲しい!」になってしまうのである。とすればこれをもまた愛情と呼ぶことも可能なのかもしれない。
 橋本氏はアシュレにとってメラニーは母親なのだという。そしてこの小説にでてくるなかなか重要な役回りをする人物である、娼館の女主人でレットの愛人であるベル・ワットリングという女もまたレットの母親なのだという。その人の前では武装解除できるという存在。
 塩野氏自身もみとめているように、塩野氏のようなアシュレー派はやはり少数派で、レットびいきのほうが多数派なのだろう。だがそれは、塩野氏がいうようにレットがイイ男でありオトナであるからなのだろうか?
 それで、なんでわたくしがあれほどレット・バトラーという人物に惹かれたのだろうと考えてみると、わたくしがはじめてであった偽悪家の像だったということが一番大きいのかなと思う。わたくしは一貫して偽善的なことが嫌いで偽悪的なことが好きであることは間違いない。橋本氏がレットを評して「オトナのユーモア」があるというようなことをいっていたが、偽善的なひとからは決してユーモアが生まれることはない。ユーモアが成立するためには自己批評が不可欠であるが、スカーレットはユーモアをまったく解さない人間である。自分が正しいと思っている人間からはユーモアは生まれない。レットはわたくしがはじめて知った自分のことを笑える人、自己批評をおこなう人間でもあったのだろう。人から笑われる前に自分で自分を笑ってみせるという高等な芸ができるひとに、おそらく初めて出会ったのである。それも自分で自分を笑いながら、それでもその自分にプライドを持てているというなかなか複雑な芸である。敗色濃厚になってからあえて南軍に参加するという行動はその典型で、それは自分でも笑ってしまうような愚かな行為なのだが、しかしそれをしないと自分のプライドを保てなくなるのである。
 だから塩野氏もいうようにここでのレットの行動は自分のことしか考えていないまことに利己的な行動なのであるが、それでも自分にプライドを持てるということは人間にとって一番根幹的なことの一つではあるのである。だが、スカーレットというのはそういうことが少しもわからない人間なのである。
 ということで、自己批評というのはなによりも自分を守るために必要とされるところがある。それが厄介な点である。自分のことを他人よりよく知っていなければ、自分を守れない。後年、太宰治から吉行淳之介、さらには三島由紀夫あるいは福田章二「喪失」(または庄司薫の「赤頭巾ちゃん・・」の薫くん)にある時期いかれたのは、今から思うと、そういう問題が関係していたのだと思う。
 レットとスカーレットの関係は、レットはスカーレットを理解しているが、スカーレットはレットを理解していないという非対称の関係である。こういう関係がいいなあとある時期、心底思ったのである。自分は相手をわかっているが、相手は自分をわかっていないという安全な関係に憧れたのである。そういう関係なら、相手が自分の自我の中に侵入してくる気遣いはない。吉行淳之介は徹底的にそういう関係を希求したひとだと思うし、橋本治が描く三島由紀夫の像もそういう像だった。
 もちろん中学1年生が以上のようなことを考えるわけもないので、ここに書いていることはすべて後知恵である。しかし、そのころにもうレット・バトラーという人間が好きで好きでと思ったことは、わたくしの問題はそのころすでに萌芽したのだなあと思う。そして不思議なのはマーガレット・ミッチェルという女性が、女性でありながらなんでこんなに男の気持ちがわかるのかなあということである。ユーモアというのは基本的に男性の資質なのにというのはすでに男の偏見であろうか?
 

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