岩田健太郎「「患者様」が医療を壊す」(1)

  新潮選書 2011年1月
 
 著者は感染症の臨床家であり、本書は現代の日本の医療についての著者の見解を述べたもの。とはいっても、本書でも書かれているように、述べられていることの多くには内田樹さんの著書からの影響が強くうかがわれる。ということで、岩田氏の見解について見ていくが、あわせて内田氏の論についても考えていくことになると思う
 タイトルは「患者中心の医療」という言葉が結果として医療を蝕んでいるのではないかということをいっている。患者中心の医療というのは、パターナリズムにもとづく医療、家父長的・父権主義的な医療に対するアンチとしてでてきたもので、こういう思潮がでてきたときに岩田氏は諸手を挙げて賛成したという。なにしろ、医者は本当に威張っていたから、と。こんな医療じゃ、だめだ。医者がふんぞり返って威張っている時代じゃないぞ、と。
 1990年代、アメリカの医療は医療の理想とされていた。医者は優秀で患者さんに丁寧である。それに対して、日本の医者は質が低い上に態度が悪いとされていた。しかし、アメリカに留学してアメリカの医療をみていくうちに、氏は疑問をもつようになった。それは表面的なものではないのか? 日本の医者は態度は今一つかもしれないが、真剣に患者さんをみているのではないか? 患者さんが急変して、夜に連絡があれば病院に戻るし、亡くなれば「お見送りの儀式」をする。そんなことはアメリカの医者はしない。自分の担当の時間が過ぎれば、急変しても関係なし、亡くなったら、それで終わりである。
 わたくしの経験でも、受け持ちの患者さんが亡くなったときにはどのような時間帯でもすべて立ち会ったと思う。それが当たり前だと思っていて、そのことに何の疑問ももたなかった。しかし最近では、日本もアメリカ的なシフト制になってきていると思う。たとえば、その患者さんにはもう積極的な医療はしない選択になっていて、あとは亡くなるのがいつかというだけというような場合には、死亡診断書に死亡日時だけを空欄にしてあとは記入しておき、当直の先生に亡くなったらよろしくとお願いするということは多くおこなわれているのではないだろうか?
 しかし、患者さんが予想外の急変をした場合などには、今でも受け持ち医がでてくるのではないかだろうか?(病院の体制にもよるだろうが) だが、その場合には厳密には労働基準法違反になるのかもしれず、労働基準監督所から指導される可能性がある。わたくしが以前病棟を担当していた時代には、当直をした翌日にも普通に仕事をしていた。最近はこれは間違いなく労基法違反である。しかしただでさえ病院は医師不足である。当直の翌日に休ませるとさらに医者の数が足りなくなる。当直翌日働けば当人の過労、休めば周囲の過労である。根本は病院にいる医師の絶対数の不足にある。わたくしが若いころは夜呼ばれたらでていくのが当たり前、当直の翌日も働くのが当たり前であり、それが病院の人員不足を補っていた。しかしそのようなモラルに期待するやりかたはもう通用しない時代になり、過重労働の現場である病院から医者が消えていく「立ち去り型サボタージュ」がおきることによって、医療崩壊・病院崩壊がおきてきている。
 日本でも氏が期待した「患者中心の医療」が普及してきたが、しかし、医者も患者さんも少しもハッピーになったようにはみえない。ではどうすればいいのか? ということで、著者が提案するのが「お医者さんごっこ」である。岩田氏は現在、医者と患者は対立関係にあるとみている。それが不幸の源泉なのであるから、その対立関係を少しでも解消していくためとして、氏が提案するのが「お医者さんごっこ」なのである。
 なぜ対立がおきるのか? それは医者、患者双方が「俺は正しいのにあの人は間違っている」という考えに凝り固まってしまっているからである。しかし「絶対に正しい」などということは「絶対に」ないというのが氏の主張である。「絶対に」正しいということはなく、ある状況において正しいということがあるだけである、と。
 ここで疑問が生じる。1)本当に「絶対に正しい」ということが「絶対に」ないのか? 氏は「「正しい」振る舞いとは、その与えられたシチュエーションでベストのアウトカム(結果)を出せるということをいう」とするが、2)そのアウトカムがベストであるということを誰が判定するのかということである。
 一方は、物理法則が、あるシチュエーションにおいてのみ正しいなどということがあるだろうか?ということであり、他方は アウトカムがベストであるかどうかは立場が違えば判断が違ってくるのであって、アウトカムがベストであるかどうかを決める絶対的な基準などはどこにもないということである。
 そう考えると、ここで岩田氏が述べていることは、サイエンス・ウォーズ以来の科学の陣営とポストモダン思想の対立という問題と深くかかわっていることがわかる。岩田氏は「ある単独、単一の「正しさ」なんて存在しない」「ある正しさは、時間や空間を超えて普遍的に正しいとは限らない」という。これはポストモダンの主張そのものである。「世界は相対的なもので、絶対的な正しさは存在しません」と氏はいう。だが、「科学」という営為は「絶対的な正しさ」が存在するという信念のもとにおこなわれてきた。医療もかすかにでも「科学」につらなるものとしておこなわれてきたが、同時に医療は科学なの?という疑念も医療の世界では深く静かに潜行している(そういう人たちは「医療はアートである」などということをいう)。最近では「統合医療」という看板がそういう方向とどこかでつながるものとして出てきていると、わたくしは感じている。
 氏は言葉は道具であり、言葉の身体性に敏感になるとことが大事である、という。マニュアル化した言葉使いへの批判なのであるが、医療の場であれば「分裂症→統合失調症」であり、「痴呆症→認知症」である。これはアメリカ流の「ポリティカリー・コレクト」が起源であるが、「患者さま」という言い方もまたその路線の中からでてきた身体性のない身に沁みない言葉であると、氏は批判する。しかし日本の場合は「ポリティカリー・コレクト」の方向からばかりでなく、井沢元彦氏のいう「言霊信仰」というのもまた大きいのではないかと思っている。あることについて議論していて誰かが、こんなことが起きると困るな、という。実際にそうなった。するとおまえがあんなことを言ったからそうなったのだという批判がおきる、そういうことは日本ではきわめてありがちである。口にすることで、そのことが存在してきてしまう。とすれば、その言葉を世界から抹消してしまえば、そのこともまた世界からなくなってしまう、そういう発想である。(いま、井沢氏の「日本史の授業」のなかの「言霊信仰」の部分を読んでみたら、日本で癌の告知が進まないのは「言霊信仰」のせいであるとと書いてあった。そうなのだろうか?)
 岩田氏は、絶対に正しいことはなく、正しいかどうかは文脈に依存するとするのであるが(このあたりの主張はG・ベイトソンの「精神と自然」を想起させる。「あるコンテキストの中に置いて見なくては、何事も意味を持ちえない。」「ホウレンソウが嫌いな子供にホウレンソウを食べたらチョコレートをあげる母親がいる。その子はホウレンソウが好きになるか、嫌いになるか? チョコレートが好きになるか、嫌いになるか? 親子関係による。」、その文脈を読みとるのは身体性であるという。そこででてくるのが「レトリック」対「ダイアレクティク」という問題である。レトリックは説得であり雄弁、理屈、相手を言い負かすこと。ダイアレクティクは辞書的には弁証法だけれども、要するに対話。しかし、レトリックも対話ではないのだろうか?という疑問には、自分が正しいと思ってするのがレトリック、自分の正しさに疑念を持っておこなうのがダイアレクティクであるとする。
 口にしていることを文字通りに受け取るのではなく、相手の真意に触れなければいけない。そのためには相手の表情、身振り、口調などなどあらゆることにアンテナを張っていなくてはいけない。だから身体性が大事である、という。ヴィトゲンシュタインの思想は前期と後期に分かれるとされるが、それを分けたものはヴットゲンシュタインがボディ・ランゲージというものに気がついたことにあるのだという。論理から身体へ。
 相手を論破するためでなく、自分の正しさに疑念をもち、それを検証していくのが対話である、などといわれてはいるが、こういう議論をみると、どうしても内田樹さんの「日本辺境論」で紹介されていた「調停かるた」を思いだしてしまう。「論よりは義理と人情の話し合い」「権利義務などと四角にもの言わず」「なまなかの法律論はぬきにして」「白黒を決めぬところに味がある」。あるいは「日暮硯」で恩田木工がいう「斯く言ふは、皆これ理屈と言ふものなり」である。現在は、理屈=論が横行し、権利義務などが声高に叫ばれ、法律論が万能となって、何事にも白黒をつけたがる時代であるが、そういうのは不幸だよという文脈の中で、医療の問題が語られことになるわけである。岩田氏が想定しているのは、個人対個人の争いであるが、内田氏が思いうかべているのは集団のなかでの争いである。そこにはいささか違いがあるかもしれない。
 さて、ここからの展開がややシュールになる。医者と患者の関係において、患者の側は「私の主治医の先生は私なんかよりもずっと偉大な人なんだ。この人についていけば大丈夫だ」と強く信じるべきだというのである。こう考えたほうが患者側にとっても得なのである、と。それを氏は経験則であるというのだが、心理学的な裏づけについては知らないという。しかし、医者と患者の関係も一般的な人間関係の延長にあり、なんら特殊な関係ではないのだから、まず一般的な人間関係について考えればいいのだとして、その例として、「学校の先生は偉い」という方向に話がすすんでいく。
 先生が生徒を肯定的にみると生徒が伸びるという「ピグマリオン効果」のことをいい、そうであるならば、逆もまた真で、生徒が先生を肯定的にとらえたほうが先生も伸びるのではないとする。そこで話は内田樹さんの「先生はえらい」にと進んでいく。内田さんの「先生はえらい」は文字通りに学校の先生は偉い、武芸のお師匠さんは偉いという話で、内田氏は学校の先生であり合気道か何かの師範かなにかであるので、要するに俺は偉い!というなかなかとんでもない本ではある。さて、内田氏によれば、「あなたが『えらい』と思った人、それがあなたの先生である」というのであるから、論理学的に「先生はえらい」。これは「恋人」と同じなのである、と。恋愛というのは客観的な判断を停止した場所でしか起こらない。それは「誤解」であり「妄想」でもある。ここにも例によって「張良」の沓を落とす話がでてくる。この話を内田さんはいたるところで書いていて、いまだにわたくしはそれがよく理解できないのだが(そういうと「うむ、免許皆伝じゃ」ということになるのだそうだが)、わたくしの理解によれば、こちらが勝手に「カトリックの詐術」と呼んでいるものの、それは変奏である。神という存在は人間の理解を絶対に超えているもので、それが示すものをわれわれは決して理解できないのだが、その理解できないということを理解したときにわれわれには人間の限界を知った謙虚さが生まれるというようなものではないかと思う。そういう人間の限界を示しわれわれに謙虚であることをもとめるというのはまことに魅力的な説なのであるが、問題はこれが現状の肯定ということをもたらすのではないかということである。内田さんはユダヤ教徒レヴィナスの弟子の弟子であるから、そういう方向にいくことは理解できる。
 岩田氏は時にそういう宗教的な方にいくようには見えず、「先生は偉い」から、お父さんは偉い、お母さんは偉い、夫は偉い、という方向に進んでいく。妻は偉いという方向が今一つみえないような気がするのだが、それは置いておくとして、とにかく家父長制、父権制への逆もどりのような議論ではある。「しかし、違う!」と、岩田氏はいう。むかしは本当に偉いと思っていたのだ、と。そんな時代に戻れるはずはない。そうではなく、フィクションとして「偉い」ことにしよう!というのである。「かのうように」である。フィクションだからいつでも降りていい。あくまで自分の選択である。それが違いである、と。しかし、宗教の本態というのは神がわれわれを襲い、一方的に掴んでしまうということにあるのであり、われわれがフィクションとして選ぶなどというのはおよそ宗教とは縁のない態度である。
 本当に偉いのか?と問うのは子供、偉いことにしようというのが大人、という。大人という言葉がでてきたので、内田さんの「「おじさん」的思考」の中の「「大人」になること - 漱石の場合」を読み返してみる。そこでは「虞美人草」のなかの宗近青年が大人になる契機を備えた人間であるとして論じられている。それと対比されている大人になれない青年が小野くんと甲野さんである。内田さんの言い方では「内面」をもつ青年。宗近くんは「内面」をもたない。「内面」をもつというのは理屈を持つこと、頭で考えることであり、どちらかといえば頭が空っぽに近い宗近青年は身体で考えるひと、「私の身体は頭がいい」の系統のひとである。小野さんも甲野さんもレトリックのひと、宗近くんはダイアレクティクのひとである。つまり大人とはダイアレクティクに通じる開かれたひとのことなのである。岩田氏のいう「大人」と内田氏の大人がどの程度重なるのかはよくわからない。なにしろ内田氏は「「おじさん」的思考の「あとがき」で「不在の神になお信を置きうるとき、そのときこそ人間はみずからの弱さを熟知した成熟した大人になったと言いうるのである」などという言葉をひくなのである。これはレヴィナスの言葉なのであるが。こういう似ても焼いてもくえない確信犯的に内田氏に比べると岩田氏はずっとナイーブであると思う。内田さんは「ごっこ」の世界などは「子供」のすることであるというかもしれない。
 とにかく人物評価なんてまじめにやっちゃだめ。そんなことをすると人のパフォーマンスは落ちる一方である、と岩田氏はいう。この辺り、高橋伸夫さんの「虚妄の成果主義」を思い出した。ということで、成果主義による評価などということをやめれば、社員のパフォーマンスはよくなるし、医者を偉いことにすれば、医療現場の雰囲気はよくなる。そうすれば医療のアウトカムもよくなる。医者もおだてれば木に登って、みんなハッピーになる。朗らかで活発で前向きで活力のある患者さんは回復が早い。後ろ向きで元気のない患者さんは遅い。そうであるならば、医療現場のあら探しをして不愉快な気分で医療を受けていることは、患者さんにとっても得なことはないよ、と。
 では、医者の側は「お医者さんごっこ」でどうすればいいのか? 患者さんの側がお医者さんは偉いというフィクションに参加するとすれば、医者は威張ってふんぞり返っていればいいのか? とんでもない、必要なのは「自分のしていることは正しいのか」という懐疑的な態度である、と岩田氏はいう。懐疑的であれば謙虚になる。
 さて、「ごっこ」であるからその場その場でのふさわしい役割というものがある。マニュアル的に確定した行動指針などというのができるわけがない。一人一人の患者さん毎に役割を変えなくてはいけない。患者さんの話をよくきき、相手の態度と反応をみて対応を変えていかなくてはいけない。患者さんが何を求めているかにつねに敏感でなければならない。とすれば、「医者は患者に正直でなければならない」ということは自明ではなくなる。「先生、僕の病気は治るんでしょうか」「そうですね、治る確率が70%、重篤な後遺症を残す確率が20%、死ぬ確率が10%ってとこでしょうか」なんて言ったら駄目。ここは「ええ、ちゃんと治ると思いますよ」と答えるきである。なぜなら患者さんが「治りますか?」と訊いてくるときにはたいてい「治りますよ」と医者が答えることを期待しているのだから。医療の目的は患者さんと円滑な人間関係を築き、楽しく有効な医療を提供するのが目的であって、本当か嘘かという二項対立は不適切である、という。
 現在は、「先生、僕の病気は治るんでしょうか」に対して、「残念でした。一年生きられる可能性は10%以下です。その一年をなるべく充実して過ごせるように今から人生の計画を設計してください。どのように生きるかはあなたの自由な選択であって、こちらの関知するところではありません。健闘を祈ります。じゃあ。」などというのが多いのかもしれない。いくらなんでもであるが、「先生なんで私はこんな病気になったのでしょうか」という質問がでたとき、「それはだいぶ以前にあなたの体の中に癌細胞ができて、それが身体にそなわった自然防御機構を乗り越えて・・、とか○○菌という菌が肺で増殖して、とか答えたのではピントはずれであって、患者さんが訊いているのは因果関係であり、「今まで、真面目一筋に生きてきた。人様に後ろ指指されるようなことは何一つしていないのに、なぜ」ということなのである。それに対する答えは、「前世の報い」であるとか「あなたがお嫁さんをいびったから」とかいうような方向の何かなのである。わたしは何も悪いことはしていないのに何でこんな目にということなのであるから、何かそれに対する腑に落ちる説明がないと納得できない。「罰が当たった」という表現はいまだに日本人の中で生きていると、計見一雄氏はいう。その場合、因果応報の説明は患者さんを納得させ精神の安定に寄与するとしても、医者がそのような説明に荷担すべきなのかどうか? わたくしには、わからない。
 さて、正しいか間違っているかの二項対立の世界、それが法曹界なのだから、医療の世界と法曹界が噛み合うはずがない、と岩田氏はいう。氏は感染症の専門家であるから、Aという菌の感染症によって死んだ患者さんの家族がBという薬を使っていれば治ったかもしれないのに、Cという薬しか使ってくれなかったのでこうなった、という裁判での意見書を書くことを求められることがあるという。たしかにAという菌の感染にCは効かない。しかし、Bを使っていれば助かったということも言えない、という。患者さんが亡くなったことには様々な要因が関係しているのであって、単一の事象で説明できるような簡単なものではない、という。それであるのに、法曹界はシロかクロかの世界である。それが医療の裁くことには問題がある、と。
 たとえば、こういう場合はどうだろうか? ある時、呼吸器症状で医者にいった。レントゲンをとって問題ないですねといわれた。一年後、ほかの病院で肺癌が発見され、前の病院でとったレントゲンがあるなら持ってきてくださいといわれ、そうしたら、ほら一年前にもちゃんと映ってますよ、といわれた。不幸にして、その患者さんは発見時にすでに転移がおきていて手術ができない状態になっていた。一年前に発見されていれば!・・。最初の先生は肺炎を疑ってレントゲンをとった。肺炎はなかった。後の先生は肺癌がある場所をすでに知っていて、そこに以前にも影がないかを探したら、あった。見えるのではなく、われわれは見るのだから、最初の医師は肺炎を探し、それは無いという正解をし、後の医師は肺癌を探し、それがあるという正解をする。どちらも正解をしてるのだが、最初の医師は“誤診”している。最初のレントゲンに肺癌の影はあるのだから。しかし、最初のレントゲンに本当に影はあるのだろうか? 呼吸器の専門医にとってはそれは存在し、プライマリ・ケアの医師にとっては存在しないというようなことがあるのではないだろうか? それはひょっとして、「絶対に正しい」などということは「絶対に」ないという氏の主張の一つの系なのではないだろうか?
 これは医療の専門分化と医療機器の驚異的な進歩によって生じてきた問題なのである。以前の胸のレントゲン写真は今であれば描出されて当然の陰影さえまったく映っていなかった。だからわたくしと専門家の読影力の差は今ほどは大きくなかった。超音波やCT、MRなどすべてにおいて解像力は日進月歩である。そうすると専門家とそうでない医師の映像を判断する力は乖離していく一方である。専門家から見ると、非専門家のしていることは日々誤診の山であろう。わたくしの抗生物質の使い方など岩田氏からみれば慨嘆にたえないものであろう。現在の医学の最高の水準にてらしてみれば、多くの医師のしていることは、そのほとんどが誤診であろう。
 岩田氏はいう。世間で医者の誤診が報道される。これは医者がしょっちゅう誤診しているということではなく、たまにしか誤診しないからこそ誤診がニュースになるのだという。誤診報道こそは、日本の医者の診断がほとんど正しいということを逆説的に証明しているのだ、と。これはどうかなと思う。非常に多くの誤診をしているにもかかわらず、それでも患者さんが治っていっている場合がほとんどだからなのではないだろうか? 少々の誤診など問題にならない場合がほとんどなのである。現在の医療の現場でおこなわれていることのほとんどは本来は必要のないことなのであって、玉子酒でも飲んで寝ていればいいものが大半で、ただ現在は医療が科学の装いのもとで玉子酒の代用となっているということなのではないだろうか? 患者さんが「大丈夫ですよね?」と訊いてくるときにはたいてい「大丈夫ですよ」という答えを期待しているのだから、その「大丈夫ですよ」を提供するのが医療機関の最大の役割になっているのではないだろうか?
 このごろの患者さんはインターネットなどでいろいろと勉強をしてくるが、それでも患者さんというアマチュアと医者というプロとでは知識の量が圧倒的に違うのだから、ほとんどの場合医者のいうことが正しいと思っていいという。口蹄疫流行の時、一応人間の感染症の専門家として「病気の牛を殺すなんて本当に必要なの?」と思っていた。しかし口蹄疫の専門家と話す機会があり、同じ感染症であっても動物の感染症と人間の感染症の対策がいかに異なるかを知り、プロとアマチュアでは知識の構造や知識の質、知識のレベルが差がいかに大きいかを痛感したという。そこからの類推でいえば、アマチュアである患者さんとプロである医者は知識のレベルが違うというのはその通りなのであろうが、同時にジュネラルな医者と専門分化をした医者とのレベルの差もまた歴然たるものがあり、専門家からみればたいていのジェネラルな医者のしていることは問題外になるかもしれないわけで、もしも法曹界が専門家レベルの医療を基準にして判断をするならば、医療の世界でおこなわれていることのほとんどはアウトになってしまうであろうと思う。医療がほとんど何もできない時代であれば、「ときに癒し、しばしば和らげ、つねに慰む」でもよかった。しかしとにかくも医療が何事かをできる時代になると、何かできる患者を見落としてしまうことの危険は増加する一方なのである。
 「病気を診ず、患者を診る」という言葉がある。岩田氏はこの言葉が大嫌いであるという。まったく同感である。なんかこの言葉偉そうである。パターナリズムの匂いがぷんぷんする。「全人的に患者を診る」というも嫌い、と、これまた同感である。岩田氏はできもしないことをいうなといって怒っているのだが、そもそも全人的なんてわけのわからない言葉を使って平気であるという鈍感さが耐えられない。「患者さんに共感的な態度」というのも同様、と。わたくしもそうなのだが、ただ「この患者さんはこういう人」という漠然としたイメージができてこないと診療がうまくいかないような気がする。月にたかだか5分か10分の付きあいで「こういう人」などというのはまことにおこがましいのだが、「高血圧の患者さん」というのではなく、「高血圧を非常に気にしているひと」「血圧ノイローゼに近いひと」「血圧で通ってきているが、実は本当に欲しいのは睡眠剤のほうであるひと」「血圧などよりも嫁さんの悪口をいいにくるひと」「一人暮らしで、病院にくる以外にほとんどひとと口をきく機会さえなく、人恋しさが来院の最大の理由であるひと(こういうお年寄り、特に女性が最近とても多い)」などといった程度のごく大雑把ななんとなくの印象である。こういうどの範疇にもはいらず、ただの高血圧の患者さんと思っていたひとがリストカットとして睡眠剤を多量に飲んで緊急入院してきたりするから(あとでカルテをみたら、睡眠剤がずっと前から出ていた。そのことさえまったく印象に残っていなかった)、こちらの人間観察は本当に節穴だらけのいい加減なものなのだが。
 さて、最初に戻って、患者さんが「私の主治医の先生は私なんかよりもずっと偉大な人なんだ。この人についていけば大丈夫だ」と強く信じれば、医療はうまくいくようになるものだろうか? とてもそうは思えない。そもそも患者さんの側がそのようなかのようにを演じてくれるだろうか?
 こういうことを考えてみる。「管首相は私なんかよりもずっと偉大な人なんだ。この人についていけば大丈夫だ」と国民が思うようになれば日本の政治はうまくいくだろうか? うまくいくだろうと思う。しかし、そのように思えるだろうか? 情報がこれだけ氾濫している時代で、ムバラク政権がFACEBOOKとかのために倒されてしまったといわれる時代である。大相撲だって「あそこでは八百長なんかなく、とても綺麗で神聖で無垢な世界なのだ」というフィクションを信じてるふりをしたほうが何かとうまくいくであろう。しかし親書の自由さえ危うい時代なのである。
 「赤頭巾ちゃん気をつけて」で薫くんが、かつての日比谷高校について「ああいうキザでいやったらしい大芝居というのは、それを続けるにはそれこそ全員が意地を張って見栄を張って無理をして大騒ぎしなければならないのだけれど、壊すだんになればそれこそ刃物はいらない。誰かほんの一にぎりの生徒が、この受験競争のさ中になりふりかまっていられるか、と一言言い出せばもうそれで終り」なのだと大演説をしているが、「民主政治をふくめたすべての知的フィクションは、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない」のであるから、誰かが王様は裸だと言い出せばそれで終わりなのである。
 現在はそのような暴きあいの情報公開の時代なのであり、医療だってその一部として実態があばかれてきているのであり、そこでだけ「お医者さんは偉い」などという神話を復活させることは(たとえフィクションであると岩田氏が強調するにしても)到底無理であろうとと思う。
 しかし、それ以上に問題だと思うのは、岩田氏の提案する「お医者さんごっこ」は、患者さんの方が「私の主治医の先生は私なんかよりもずっと偉大な人なんだ。この人についていけば大丈夫だ」と強く信じることとペアになって、医者の側も「自分のしていることは正しいのか」という懐疑的な態度となり、謙虚になることが要求されていることである。これは患者さんが変わること以上に難しい要求なのではないかと思う。今の医者の世界に渦巻く気分は、医療のことなどわかりもしない患者が無理難題をいいやがるし、マスコミもまたなにも知りもしないくせに偉そうにわれわれのことを説教するし、司法の奴らも何も理解していないのに医者を一方的に悪者あつかりするし、もうどうつもこいつもみんな許せん、一体どうしてくれようか、というような一方的な被害者の気分であるように思わる。「自分のしていることは正しいのか」という懐疑的で謙虚な態度というのはあまり見られないようなのであるし、これからそれが醸成されてくるとも思えない。
 岩田氏の見解は、氏自身がパターナリズム的な医療、家父長的・父権主義的な医療を嫌い、こんな医療じゃ、だめだ。医者がふんぞり返って威張っている時代じゃないぞ、と思ったひとだからこそ成り立つのである。昔はよかった、あの父権的世界にもう一度戻りたいなどと思っている医者がまだまだ多いのだとしたら、岩田氏の「お医者さんごっこ」はまったく機能しないことになるだろうと思う。とにかくも医者の側が「自分のしていることは正しいのか」という懐疑的な態度となり、謙虚になることが先決で、それができないうちは何もはじまらないだろうと思う。今の日本の医療界は岩田氏の描くアメリカ医療の世界そのもので、周囲がうるさいから仕方がないからおとなしくしていようではあっても、父権主義的医療ではだめ、そんな時代ではないと思っているひとが大部分になってきているとは、わたくしにはとても思えないのである。
 

「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

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「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

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学校では教えてくれない日本史の授業

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倫理学ノート (講談社学術文庫)

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赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

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