岩田健太郎「「患者様」が医療を壊す」(2)

  新潮選書 2011年1月
 
 第一章では医者と患者の対立がテーマであったが、第二章は医療の場におけるそれ以外の対立がとりあげられる。基礎医学者対臨床研究者、量的研究と質的研究、EBM対経験主義、内科医対外科医、ジェネラリスト対スペシャリスト、開業医対勤務医、日本対欧米、西洋医学東洋医学霞ヶ関対医療現場、などなど。わたくしも医療の場にいる人間であるので、ここでいわれていることについては、それほど目新しいことはなかった。それでここでは主として日本における臨床医の教育という点について考えてみたい。
 岩田氏は、日本のようなスペシャリスト兼ジェネラリストという医師が多くいるのは、日本の医療の一つの利点なのではないかといっている。どういうことかというと、日本では若い時に病院である程度専門家として働き、そのあと開業していろいろな患者さんをみるという形の医師が多く、ある程度自分の専門分野をもっているものが専門分野以外のいろいろな患者さんをみるという形は好ましいものであるということである。一方、米国では、専門医と一般医は最初の教育過程から完全に分かれているわけで、これは医療にとっては必ずしも望ましい体制ではないと氏はいう。岩田氏はアメリカにおける医学教育の要諦は「パフォーマンスの悪い学生や研修医はいざとなったら切ってしまえばよい」というものであるという。アメリカの医学教育が外部から一見よくみえるのはそのせいで、優秀なひとだけ残していけば、そうなるのは当然であるという。
 日本の臨床医教育は、ちょうどその逆なのではないかと思う(以下に書くことはわたくしが知っているのがほとんど東大医学部だけであるので、一般論とはいえないであろうし、またわたくしが大学にいたころと現在では東大も随分と変わってきているとも思うが、それでもまったくの見当違いではないと思う)。そこでの基本姿勢は、パフォーマンスの良し悪しにかかわりなく「臨床医には誰でもなれる」というものなのではないかと思う。アメリカにはともかくも優秀な臨床医を育てようという志向があるだろうと思う。優秀な臨床医というもののイメージがあり、それを育成するためのメソッドも存在しているはずである。日本ではおそらくそのようなものは何もない。誰でもなれるのであるから、実地教育があるのみ。卒業後のOJTがすべてである。
 教育機関である大学は臨床医教育については自己の使命であるとはほとんど考えておらず、大学が自己の役割と考えているのは研究者の育成である。一般論としても、大学教育の使命は学問にあるのであり、職業教育ではない。大学の法学部や経済学部で学んだことがサラリーマンになってから少しも役に立たないと企業の側からいわれても、大学は困るばかりである。それに、そもそもが学問の主流派は人文学なのであって、工学などというのが大学教育の末席を汚すようになったのは随分と最近のことであるはずである。学問というのは実用に背を向けるところがあるものだから、理科系の学というのは、大学という組織にはなじみにくいところがあるのかもしれない。文学部の使命は語学教育であるなどと言われたら多くの文学部の教員は怒るであろう(国文学部の使命は日本語教育?)。つまり医者の養成ということだけであれば、大学教育は必要なく、専門学校で十分であるということである。それで日本の大学の医学部にあるのは、まず研究者を育てることももっぱらとしその過程での「パフォーマンスの悪い研究者は臨床医になればいい」という思想?ではないかと思う。なんしろ臨床など誰でもできることなのだから、特別な教育などは必要ないのである。
 岩田氏は大学卒業後、沖縄県立中部病院で研修、そのあと米国で臨床に従事したあと、亀田総合病院から現在の神戸大学感染症内科の教授になっている。いわゆる医局制度から外れたところで生きてきている。日本の大学の医学部教授としてはかなり例外的な経歴であり、ずっと臨床をしていたひとがいきなり大学教授になっている。岩田氏のような優秀な臨床家が大学の教授になる事例はようやく日本でも増えてはきてはいるが、まだまだ少数派である。岩田氏のような人が増えてくれば日本の大学も臨床教育の機関としても機能していくことになると思うが、岩田氏の経歴を見ても、「厳しい」研修で有名だった沖縄県立中部病院で経歴をスタートしているわけで、日本の臨床家を育てているのは現状では市中の病院である。そしてそこでの教育というのも、経験から学ぶ、とにかくたくさんの患者さんを見て実地に経験するということであって、系統だった教育システムがあるわけではない。市中の病院に臨床教育担当の専従の人間がいるわけではなく、それぞれの医師が自分の臨床の空いた時間に指導し相談に乗るというのがほとんどである。
 大学の医学部で医者の卒後教育としてしていることといえば、臨床研究である。他の学部であれば、大学を卒業してからの研究といえば通常は修士から博士というコースであろう。そういうところでは、オーヴァードクターのことが大変な問題になっているわけであるが、医学部の場合にはそうではない。臨床家になるという「つぶし」がきくからである。医師免許という資格をもっているので、大学で研究をしていても、いざとなれば医者として働く道が残されている。そして臨床研究というのが、たとえば外科の医者であれば、手術で得た切除標本の腫瘍部分で癌遺伝子の解析をおこなうというようなものが主であって、岩田氏のしているような臨床疫学研究さえ主流ではない。いずれにしても将来の臨床医としての技量に資するようなものはほとんどない。
 今読んでいる猪飼周平氏の「病院の世紀の理論」によれば、日本の医局制度が今日までなんとか続いてきたのは、通常いわれているような学位授与権をそれがもっているからではなく、医局が多くの市中病院を支配下においているので、臨床経験をつめる病院に勤務するためには医局に所属する以外の選択肢がほとんどなかったからであるという。つまり日本の臨床教育を支えていたのが医局制度なのである、と。岩田氏は最初は臨床医になるつもりはなく、基礎研究者になるつもりで、その前の数年だけ臨床を勉強しておこうと思い沖縄の病院で研修をはじめたのだという。将来も臨床をしていくつもりであったとすると、そのような選択はしなかったかもしれない。沖縄の後の臨床研鑽の勉強の場はアメリカである。
 岩田氏がいう日本の臨床家の多くが、専門分野で研鑽した後でジェネラリストに転ずるというのは、大学の医局はジェネラリストを養成する部門をもっていないので(医局は循環器の内科であったり、呼吸器の内科であったりであるし、その以前のナンバー内科といわれていた時代には、第一内科の中にさらに循環器研究室があったり呼吸器研究室があったりした)、そういうところで学んだ人間が開業すれば、必然的にスペシャリストの経験をつんだ医者がジェネラリストに転じるという経歴をたどることになるからである。しかしそれはそのような経歴が好ましいからということではなくて、医局制度というものがもたらした結果に過ぎない。
 問題はその医局制度が以前ほどの統制力をもたなくなっていることである。岩田氏のような経歴の医者が今後は増えていくであろう。自分で病院を選んでそこで臨床経験をつんでいくのが当たり前になっていくと、従来の医者の供給体制が崩壊し、新たな医師の供給を調整するところはどこにも存在しないという事態になっていくことが予想される。すでに現状はそのようになりつつある。日本には臨床医を教育養成するきちっとしたシステムはなく、医局制度による関連病院支配といわれるものがその不備を補っていたのであるが、それが崩れてしまうと臨床医養成のシステムがどこにもなくなってしまう。それはひたすら個々人それぞれにまかされることになり、包丁(聴診器?)一本を晒に巻いて板場の修行の旅を続ける医者がこれから陸続とでてくることになるのであろう。しかも、そのような中で、困ったことに、疾病構造が大きく変わろうとしている。
 「病院の世紀の理論」はまだ十分に読み込んでいないけれども、19世紀は病気を治せなかった世紀、20世紀は病気を治せるようになった世紀、21世紀はふたたび治せない病気が主流になる世紀という展望をしめしたもののようである。私見によれば、専門医すなわちスペシャリストとは治せる病気をあつかう医者である。21世紀になるとそういう医者の出番はなくなるのだろうか? そんなことはないので21世紀に入っても治せる病気はさらに増え、今まで対応法がなかった病気に対する治療法の開発はこれからも進んでいくであろう。そして大学が研究の対象として自己の使命としていくのはそのような分野である。治せない病気をどうしたらいいのかなどというのは教育のしようもないことかもしれない。
 おそらく大学は猪飼氏のいうような疾病構造の変化に対応していこうという意思をもっていないのではないだろうか? 相変わらずの急性期疾患(猪飼氏のいうセカンダリ・ケア)が守備範囲なのであり、むしろ今まで以上に専門分化が進行していく中で、今まで以上に狭い専門分野を極めていくことに向かっていくのではないだろうか?
 魔法の弾丸で完全に治癒させるというようなまざましい治療上の進歩はめったにはおきないかもしれないが、余命半年であった病気の予後が3年に延びれば画期的なことである。本書でも紹介されているように岩田氏の専門の一つであるエイズという病気についても、以前は致死的な病気であったものが、現在では天寿の全うが期待できる病気になってきている。まさに治療法の進歩である。しかし実をいえば、これは薬剤の進歩によるのである、それはひたすら製薬会社の努力のたまものであって、医者の研究課程でそのような薬が出来てくることはほとんどない(多くの患者さんは、医者がしている研究というと、新しい治療法の開発であると思っているようであるが)。医者のしている研究はエイズの場合であれば、その病態の解明である。病態がわかれば、どこをどのように攻撃する薬を開発すれば治療の可能性に結びつくかがわかる。そうなれば、あとは物量作戦である。何億、何十億という金をかけての試行錯誤である。一臨床研究者のできることではない。アメリカではエイズ治療薬の開発に国家的に莫大な費用が投下されたらしい。その直接の成果がエイズの予後の改善である。実はわたくしの関係する肝臓病の分野でも肝炎ウイルスの治療に次々と有効な薬ででてきているが、これもエイズ治療薬開発過程の副産物らしい。エイズには効かないが(あるいはエイズにもある程度きくが)B型やC型肝炎ウイルスの治療として使える薬ができてきた。
 そのような治療法の開発はこれからも続けられていく。しかしその結果、寿命がいくら延びたとしても、老化という如何ともしがたい現象は残る。その結果、生活能力の低下と認知症がこれからの医療の最大の問題となってくるとすると、医療は今までとは同じ行き方では通用しなくなってくる。もちろん、認知症の治療薬の開発はこれからも進み、不老の研究?という方向も続けられていくのであろうが。
 さて岩田氏は日本の臨床の教授も基礎研究が評価されて教授になったものが多いという。これはドイツから医療を輸入したため、ドイツ観念論的な演繹法アプローチが好まれたからだという。イギリスやアメリカは「理屈はいいから治ればいいじゃん」という気楽な帰納法的医療なのだという。だから日本では臨床の大学教授でも臨床ができるとは限らないよ、という。しかし「臨床なんか誰でもできる」のであるから、その大学教授も自分でもできると思っている可能性はある。最近流行のEBM(Evidence Based Medicine)が日本では今一つ普及しない理由も、EBMが典型的な帰納法思考の産物だからなのであると氏はいう。そこで氏が強調するのは帰納法に依拠する医療は謙虚でなればいけないということである。今までの経験ではこの治療法が最善とされているとしても、それが今目の前にいる患者さんにとってもまた最善であるのかということは決して自明ではないのだから、と。それを「科学的に正しい医療」だとか「エビデンスが確率している医療」などと偉そうに傲慢にいうのはよくないのだ、と。

 第3章は「医療は何を目指すべきなのか」と題されていて、岩田氏の現代の日本医療に対する見解が述べられている。
 岩田氏は、92歳で肺炎で入院し、呼吸困難で人工呼吸器につながれ、血圧が下がっているので昇圧剤を試用されている症例について「長らえてどうする?」と問い、88歳の女性に高コレステロールがみつかった場合について「予防してどうする?」と問うて、医療には簡単に答えが出ない命題が増えてきていて、煮えきらない悩ましい問題が増えてきているとし、こういう問題については簡単に答えをださないことが大事であるとする。それにもかかわらず簡単に答えを出したがるものがあり、それがマスコミであって、それが医療の現場に大きな混乱をもたらしているのだという。それは事実なのであると思うが、しかしその根はもっと深いのではないだろうか。それは養老孟司さんのいう「都市化」「脳化」の問題、「ああすればこうなる」の問題であり、あらゆることは操作可能であり、あらゆる問題には対策があるはずであるという思考がわれわれ現代の人間を深くとらえているという問題である。
 昔々、福田恆存氏の「平和論に対する疑問」を読んでいたとき、1954年の洞爺丸事故(青函連絡船の転覆事故で、水上勉氏の「飢餓海峡」や中井英夫氏の「虚無への供物」の物語の骨子となった)について著名な「文化人」たちが「海の事故は船長の指揮にしたがっていれば助かる」などという意見を状況もよくわからないうちから新聞紙上に開陳しているのを、天気晴朗な伊豆の海ではあるまいしと批判し、そこには誰一人「運がなかった」といっているものがなかったことを指摘して、「文化人」なら運のせいにはしないのであり、どこかに適当な原因を見いだせる人間を「文化人」と呼ぶのだ、という厭味をいっていた。「運のせゐにしたのでは意見がないのとおなじことであり、なにか意見をいはなくてはならないとすれば、眼にみえる原因を指摘してみせなければならない」のだ、と。「あらゆる問題にあらゆる解決策が提供されてゐる」というのは変なのであり、「自分にはよくわからない」とか「その問題には関心がない」とかなぜ言えないのか、と。
 マスコミというのはそのようなあらゆることに意見がある「文化人」が蝟集する場所なのであるから、そこで簡単で安直な答えが出てくるのは当然なのであり、マスコミを批判してもどうにもならないのではないかと思う。あらゆることには対策があるはずであるという思考の最大のものがマルクス主義ではなかったかと思うのだが、文化人にはその信奉者が多かったはずで、マルクス主義の威信が失われたあとも、世の中にあまたある問題についてはそれぞれにしかるべき対策があるはずであるという思考法は決して消えたわけではなくて、何か問題があると反射的にどうすればいいのかという問いとそれに対する答えが自動的に提示されてきてしまう。「どうしようもないのでは?」という答えは最初から排除されてしまっている。だから医療においても、正しい医療のありかたというのがどこかに存在すると想定されてしまう。薬害があればそれはあってはならないであり、一方ワクチン接種しないことで問題がおきれば、それもまた解決しなければならない問題であることになってしまう。
 われわれの周りに存在する困った事態については常に何らかの対策なければならないのであるが、困ったことにわれわれ生き物がすべて死ぬということだけはどうしようもない。さすがのマスコミも、どのような対策をすれば死なないようにできるかということは問わないが、それで死の直前まで頭脳明晰で元気溌剌でいるためにはどうしたらいいのかといったことが真面目に問われることになる。死についてはどうしようもないとしても、それ以外のことについてはなんらかの対策がどこかにかならずあるはずであるという思考法は消えていない。
 岩田氏は医療の場におけるあらゆる問題について正解が存在するわけではないという立場から、具体的な問題については、患者さん本人の価値観により決定することが望ましいとする。だから「長生きしなくてもいいから酒を楽しみたい」とか「たばこは止めたくない」とか「おいしいものをたっぷりと食べたい」とかは大いに尊重されるべきである、とする。まったく同感なのであるが、患者さんの価値観というのも年齢によっても変わっていくのではないかと思う。若い時には「おいしいものをたっぷり食べるのは幸せ」であったひとが、60歳をすぎて糖尿病で透析寸前になって「先生、なんでもっと早く糖尿病の怖さを教えてくれて、厳重な管理を勧めてくれなかったんだ」というようなこともあるかもしれない。
 禁煙運動について、他人を糾弾する独善的な態度がいけないのであり、正義の味方であるような「俺が正しく、他人は間違っている」という行き方が困る。自分は正義の話をしているのではなく「自分の好みの話として、煙草はやめたほうがいいと思っているのだけれど」という方向でいけばいいのだという。わたくしもまた禁煙運動(というか禁煙運動家)が嫌いだけれども、それはわたくしが清教徒的なもの一般が嫌いであり、偉そうなひと、威張っているひと一般が嫌いであることの一つの系に過ぎないと思っている。岩田氏もまた威張ったひと、偉そうなひとが嫌いらしい。それが本書の論調を決めている。そうであるならここで岩田氏が書いていることも、それが正しいということではなくて、岩田氏の価値観に共鳴できるひとにとっては受容できるものということになるのかもしれない。
 本書で岩田氏が述べていることにはいささか矛盾があって、「お医者さんごっこ」というのは疑似「パターナリズム」の薦めであるが、「患者さんの価値観」が医療行為を決めるというのは「パターナリズム」とは反対の「自己決定権」の方向である。つまり狭い意味の医療ということについては何といっても医療者のほうが専門家であるのだから、それを偉いことにしておいたほうがうまくいくよ、ということであり、一方、どのように生きるかということについては、医者も患者もまったく平等対等なのであるから、それは医療者が介入すべき場所ではない、という方向である。その議論の前提は「医者は決して偉い存在ではないのだけれど」ということにある。医者がふんぞりかえって威張りくさっていた時代は悪い時代であったのであり、そうでなくなった今は医療の世界がよくなったのではあるが、それによって医療のパフォーマンスが悪くなった部分もあるよ、それは「お医者さんごっこ」でよくできるかもしれないということである。
 しかし私見によれば(ひとのことはいえないけれど)威張った医者や態度の悪い医者などというのはまだまだゴマンといて、そうでないものも、穏やかな態度は世を忍ぶ仮の姿であって、「何もわからない患者がいいたいことをいいやがって、何も知らないマスコミも勝手なことをほざきやがって、それにたいしてへいこらしていなくてはならないとは世も末だ、昔はよかった」と思っている医者はまだまだ多いのではないかと思う。禁煙に熱心な医者が多いのは公然とパターナリズムを発揮できる数少ない場所であるからなのではないだろうか? 昔、河合隼雄さんが、患者に説教しても患者の役にはまったく立たないけれども、医者の精神衛生にはいいというようなことをいっていた。
 価値観とは「私の見解」であり、「必ずしも他人に押しつけてはいけない」見解です、と氏はいい、主張するのであれば「あくまで僕の価値観なんだけど」と少し躊躇した、ためらいを含んだ主張にならなくてはいけないのだが、多くのひとが「価値観の問題」を絶対善、絶対悪の問題と勘違いして声高に自説の正統性を主張する、と氏はいう。しかし声高に叫んでいるひとは「価値観の問題」ではなく「科学からの事実の主張」であると思っているのだろうと思う。煙草がいけないことは「わたくしの個人的見解」ではなく「科学的な証拠の積み重ねから導かれた客観的な事実」であるというだろうと思う。医療は科学の問題であって価値観の問題ではないとする医者は非常に多いのではないだろうか?
 ベイトソンは「あるコンテキストの中に置いて見なくては、何事も意味を持ち得ない」といい、「前提がまちがっていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノーハウしか学ぶことができない」ともいう。これは「ある価値観の中に置いて見なくては、どんな病気の治療法も決められない」ということであり、「価値観の違いということが念頭にない人間にとっては、すべての医療行為がマニュアル化する」ということである。しかし、今、目の前にいるひとが急性心筋梗塞であると診断された場合、価値観などを問うていることができるだろうか? 医療にもいろいろな場面があるということと思う。純粋に機械の修繕に近い場面から、一人暮らしへの不安への対応まで。ここで岩田氏がいいう「ためらい」というのが内田樹さんの著作からの直接の反映なのだと思う。正義の側に立たないこと、躊躇すること・・。
 「あとがき」に内田さんからのパクリであることを述べたあと、レヴィナスラカンソシュールレヴィ=ストロースロラン・バルトの影響も大きいとして、あと西條剛央というひと(このひとは知らない)やフッサールヘーゲル竹田青嗣などというひとの著作も参照したとある。さらには小林秀雄多田富雄といった名前もあがっている。わたくしが苦手な人が多く面喰った。レヴィナスラカンやバルト、フッサールヘーゲルなどみな苦手である。というか何をいっているのかほどんどわからない。小林秀雄多田富雄あたりもどちらかというと苦手である。なんだかみんな偉そうなのである。謙虚とかためらいなどということからは随分と遠いひとが多い。この辺りはどうもよくわからないところであった。
 

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