猪飼周平「病院の世紀の理論」(1) 序章「病院の世紀という構想について」 第一章「病院の世紀の理論」

  有斐閣 2010年3月
 
 著者の猪飼氏は一橋大学社会学の准教授。偶然、医療者に配布される刊行物で知るまで、まったく知らなかった方である。本書の内容は医療の世界にかかわっていない方にとってはあまり関心のないものであろう。したがって以下に書くことは、わたくし自身のための備忘のためがほとんどである。医療の世界の内部にいる人間であるわたくしから見ると、ところどころちょっと違うのではないかと思えるところも散見するが、本書のようにきわめて骨太な仮説の提示をしている書としてはやむをえないものであろう。
 本書のタイトルである「病院の世紀の理論」というのがわかりにくいが、『「病院の世紀」の理論』であり、「病院の世紀」とは20世紀のことである。19世紀は有効な治療がほとんどなく、その当時病院といわれていたものも治療のための施設というよりも貧民のための食事、休息の場としての色彩が強かったのであり、したがって病院はまだ医療の中心ではなかった。
 それに対して、20世紀は医療の提供する治療行為が有効であることをほとんどの人が認めるようになった世紀であり、その有効な治療を提供する場としての病院が医療の中心となった世紀であり、20世紀において医者がもった権威もその治療の有効性に起因し、患者が医者に従属し、治療にともなう苦痛や不便を受忍したのも、それによるのだと氏は論じる。それに対して、21世紀は(前世紀から続く治療技術の進歩はこれからも依然として続いていくであろうが、それにもかかわらず)治療に対する有効性への疑問が生じてきている世紀であり、「疾病の治癒=健康」という信仰が崩れていく時代、「健康→罹患→治癒→健康回復」という経路への疑念が生じ、「治療」と「健康」の間に断絶があることが認識されてくる時代、治癒後の障害の残存や長寿の価値への疑問が生じてくるなどの問題が前面にでてきて、リハビリやターミナルケア、疼痛管理、介護、あるいは予防医学といったことが大きな問題となってくる世紀となる。当然、病院も大きな包括的な医療体制の中の一部に過ぎなくなることを著者は予想している。つまり21世紀はもはや「病院の世紀」ではなくなる。
 少し前に論じた岩田健太郎氏の「「患者様」が医療を壊す」で、岩田氏は『昔の医者は本当に威張っていた。そんなことではいけないもっと謙虚にならなければいけない。しかしそれでも患者さんは医者は偉いという「ごっこ」を演じたほうが治療はうまくいきますよ』ということを述べていた。しかしこれは猪飼氏に論からすれば、20世紀は医者が「俺様は治せるんだ、偉いのだ」と本気で思っていた時代なのであり、21世紀は患者さんのほうが「お前ら大したこともできないくせに偉そうな顔をしやがって」と思うようになる時代ということなのかもしれない。
 現在、患者さんの側が医療をどうみているのかは本当にわからないない。20世紀的な感覚、あらゆることには治療法・対策があるはずであるという過剰な期待と、医療が狭い範囲の治療に自己を限定していて、もっと本来なすべきであるはずのことをしてくれない(たとえば、もっと元気になるまで、きちんと責任をもって対応してくれない。ちょっとよくなったら、後は自分の任務ではないと知らん顔である、といったこと)という不満がないまぜになっているのではないかと思う。もちろん、治癒が健康を意味しなくなったということも大きいであろうが。
 猪飼氏の論を敷衍すると、20世紀は急性期疾患の治療をめざした世紀、21世紀は慢性疾患あるいは疾患ともいえない不調、障害、老化といったものの管理をしていく時代ということになるのかもしれない。「キュアの世紀」から「ケアの世紀」へ、あるいは「医者の時代」から「ナースの時代」へ。
 本書ではあまりその点には触れらていないが、上の論点からいえば、現在の医学教育が20世紀的な視点、すなわち「キュア」の方にばかり目がむいていて、医療の世界で起きようとしている地すべり的な変動にほとんど気がついてもいないということは大問題であるはずである。
 その点にかんして本書で問題にされるのがプライマリ・ケアとセカンダリ・ケアの区別である。つまり病院とはセカンダリ・ケアの場であるのであり、医学教育とはセカンダリ・ケアの教育であったということである。そこから『「病院の世紀」の理論』の「理論」の部分がかかわってくる。プライマリ・ケアとセカンダリ・ケアあるいは一般医と専門医といった医療供給のシステムが国々の間でどのような違いがあるのかということへの「理論」である。ここで議論されるのは先進国においての体制の違いのみであるが、米国型・英国型・日本型の3型の区分が提示される。
 問題となるのが、現在の日本の医療政策において、日本の病院の体制をアメリカ型に転換させようという大きな方向が存在しているように見えることである。日本の医療体制の特徴は、小さな病院がたくさんあること、その病院の多くが公的なものではないこと(開業医などが設立した個人立の病院が多い)、病院が大きな外来部門を有していること、などである。アメリカ型というのは、病院はきわめて大きな病床をもち、その多くは公的なものであり(個人立などはきわめて少ない)、病院は入院機能に特化する傾向を持ち大きな外来は持たない、などといったものである。現在の医療技術の高度化の趨勢を見るならば、小さい病院が林立している状態が非効率であることは論を俟たない。大きな病院に資源を集中させたほうが効率的である。小病院がたくさんあるというような日本の医療体制の現状は、医療がまだそれほど高度化していなかった時代においてはそれでもなんとか対応できたかもしれないが、これから医療がさらに高度化してく時代においては、もはや対応困難である。また病院の使命がセカンダリ・ケアへの対応であるならば、外来などというプライマリ・ケアの部分まで病院がかかえているのも非効率である。病院の医師はセカンダリ・ケアに注力すべきであり、外来機能は診療所にまかせていけばいい。また多くの開業医立の小病院は高度の医療(つまりセカンダリ・ケア)をおこなう場所とはなっておらず単なる老人収容施設に過ぎないものが多いのだから、そういうものは医療の場からは撤退してナーシングホームのようなものに転換していけばいいのであり、それらが浪費している医療資源を高度先端医療のほうにふりむけていけばいいというようなものである。
 まことにもっとな議論にきこえるのであるが、著者によれば、米国・英国・日本のそれぞれの医療体制は19世紀から20世紀にかけての時期にできあがったが、多分に偶然の要素もふくみ決して必然的にできがったとは言えないとしても、一度できがってしまうと堅固であり、20世紀中を通じて大きな変更が生じなかった。というのは、それがそれぞれの国の医療供給体制と強く結びついているからであり、そういう基礎的な部分をそのままにしておいて、医療体制のほうだけを変えていくことは困難なのである。
 英国型とは、プライマリ・ケアを担当する医師とセカンダリ・ケアを担当する医師が身分的に異なっていて(医者になって3年位の間に、どちらになるかを決める仕組みなのだそうで、それを一度決めたあとはもはや変更ができないのだそうである)、相互に交流がおきず、また臨床経験に大きな差ができるため、プライマリ・ケア担当の医師には病院で医療をおこなう技量が備わっていない、そういう体制である。英国型では、プライマリ・ケアとセカンダリ・ケアを担当する医師の教育体制がことなっている。それに対して、米国と日本では、専門医教育だけがあって、プライマリ・ケア担当の医者とセカンダリ・ケアを担当する医師の間に身分差はない(アメリカでは、家庭医もまた専門教育によって認定される専門医である)。日本では一般医あるいは家庭医を育成する専門的な過程はまったく存在しない。したがって全員が専門医である。わたくしが医者になった当時は、卒業と同時に専門分野を決めて、研修もその分野のみで開始する体制であった。内科を選べば内科のみを研修する。そして内科研修2年が終わった後に内科の中でのさらに専門分野をえらび循環器とか呼吸器の勉強をはじめる。つまりわたくしは外科も産婦人科も耳鼻科も眼科も一切臨床の経験をしていない。米国の家庭医は「穴という穴をすべて診察できる」というような話を聞いたことがある。鼓膜もみられ、眼底もみられて、婦人科の内診も、肛門診もできるということである。医者になった当時は眼底をみる努力をしたこともあるが、今はそれもずべて眼科の先生まかせである。さすがにそういう医師養成体制はまずいということになって、数年前からの新臨床研修制度では、研修2年の間に内科、外科、婦人科、小児科、麻酔科、救急、精神科、地域医療などを勉強してから、その後に専門分野を決める体制になった。つまり昔から日本の臨床教育は専門教育に偏っていて、一般医やプライマリ・ケアの医師の育成という視点を欠いている。
 米国では日本と同様に専門医を養成するといっても、多くの医者は医者になって数年で自分の診療所を開業するらしい。ただ、それらの医師は契約した病院を利用できる権利を持っていて、そこで自分の患者を入院させ治療をしたり、手術をしたりすることができるらしい。米国では病院専従の医師というのは10%くらいであり、大部分が診療所の医師でそれが契約病院でも診療するということのようである。なんだかイメージしづらい体制であるが、日本で医者が午前には外来をやって、午後は病棟で受け持ち患者を診察したりするのと似ているのかもしれない。日本では開業する場合でも、平均して10年くらいは病院で勤務してからのことが多い。ということは診療所の医師と病院の医師の間に臨床能力には基本的に差がないということであり、その点でプライマリ・ケア医とセカンダリ・ケア医の間に臨床能力が存在する英国型とは明確に異なる。そして医師に平均して10年くらい病院での臨床経験をつませることを保障してきたのが「医局制度」なのであるという。そして開業医がセカンダリ・ケアを担当する能力を持っていることが、開業医立の病院が日本で多い理由なのであるという。米国では自分の専門性(あるいはセカンダリ・ケア能力)を活かすために病院での診療の権利を獲得するという方向を医師が選んだ。日本では病院を自分で持つという方向を選択した。日本の医療体制はそのような医師養成・医師供給体制と深く結びついているのだから、病院から外来診療をなくすとか、開業医立の病院を老人施設に転換させるというようなことが容易にできることではないことになる。たとえば、日本の医療体制の中に英国型のプライマリ・ケア医とセカンダリ・ケア医の間の身分差を導入するなどということはとてもできることとは思えないし、自身のセカンダリ・ケア能力を活かすために自分の病院を持ったというのに、それをプライマリ・ケアあるいは単なるケアのための施設に転換させるというのも容易なことではないであろう。そしてもっと大きな問題としては、「病院の世紀」から「包括ケアシステムの世紀」に大きな転換期にたっているというのに、すべての医者が専門医を目指すという日本の医師養成体制が時代錯誤なものになっていているかもしれないということがある。
 岩田氏の本では、「スペシャリスト兼ジェネラリスト」が多くいる日本の医療はとても好ましいとされてたが、これは「セカンダリ・ケアの経験を十分に持つプライマリ・ケア医」が多くいるという方が正確かもしれない。
 以上、第一章までであるが、企業立の中小規模の急性期病院というかなり特殊な病院に勤めるものとしては、身につまされ考えされられることが多くあった。自分のことを振り返ってみても、病院の「純化?」という大きな流れのなかで生きてきたということを感じる。病院に勤めて30年くらいであるが、勤めた当座は様々な患者さんが混在していた病院が次第に「急性期」疾患を診る病院へと移行し、それがさらに「高度先端医療」は大病院にまかせ(普通の?)急性期患者を診るという方向となり、そうこうしているうちに岩田氏のいう「長らえてどうする?」の「わかりにくくなった医療の目標」の時代へといつの間にか入り込んでしまっていて、「純化」した医療といういままでの方向ではとても対応してはいけないことになってしまっていることを感じる。「不純な?」医療(猪飼氏のいう「包括的」?、要するに何でもありの多様で雑多な目標のはっきりしない医療)へといかざるをえないことを感じる。しかし医療政策の方向は、相変わらず「純化」の方向のままである。
 いろいろと考えされられることが多い本であるので、少しづつ感想を書いていきたい。
 

病院の世紀の理論

病院の世紀の理論

「患者様」が医療を壊す (新潮選書)

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