(4)2011・3・21「黒い白鳥」

 
 ムラーの「今この世界を生きているあなたのためのサイエンス(1)には「チェルノブイリから住民を避難させたことは、正しかったのでしょうか?」という疑問が提示されている。当時のソ連政府は、生涯の被曝線量が35レム以上になると予想されるすべての地域から住民を避難させたのだという、これは一時的避難ではなく、恒久的な移住らしい。最近の報道で使われるシーベルト(SV)で表すと、350mSVである。
 発電所付近の3万人の住民の被曝線量は一人あたり平均450mSVで、これは広島の原爆の生存者の平均被曝量とほぼ同じなのだそうである。この被曝量では被爆者の将来の発癌確率は約2%増えるのだそうである。つまり3万人のうちの約500人が放射線のために癌になる計算になる。
 今、チェルノブイリのあたりでは放射線量は年間に10mSVよりも低くなっているという。
 ムラーの本では、この辺りの記述でよくわからないところがある。住民は事故の後のかなり短い時期に平均450mSVの放射線量を被曝したのではないかと思うのだが、避難が正しかったかどうかの議論の前提が生涯の被曝量が450mSVであると想定されていることである。もし被曝したあとでこの地に住み続けたとすれば、450+α(相当大きい)になるのではないかと思うのだが、これは広島の原爆の生存者がずっと広島に住み続けた場合と同じとあるのから、チュルノブイリに事件後もそのまま住み続けた場合に450mSVになるということなのであろうか?
 このあたりに疑問があるのであるが、著者の論をそのまま提示すれば、「2%の発癌リスクを考えて自分の家を捨てて逃げるか、増大するリスクは小さいと判断し家を捨てる犠牲の方が大きいと判断してそのまま留まるかという選択をどう考えるか」という問題である。この問題に対して著者は答えを出すことができないという。これは科学の問題ではなく、科学ができるのは選択の結果がどうなるのかを示すことだけだから、と。
 まだ事態は進行中で、どのような範囲で今回の原発事故が収束するのかまったく予想できない。しかし、これはそう遠くない時期にわれわれが選択をせまられる問題である。相当に将来の発癌率が高くなるとしても、自分は今まで住んできたところでこれからも生きていきたいというひともいるであろう。もちろん、現在すでに関東に住む富裕層は関西に逃れあるいは海外に脱出しているひとも多いという話が聞こえてくるのであるから、いくらかでも危険が高くなるのであれば、今まで住んできたところから離れるというひともまた沢山でるであろう。それなら、これは各人の判断に委ねられる問題なのだろうか? それとも行政が強制する問題なのだろうか?
 地球の外の移住することはまだできない。チェルノブイリの汚染は世界の遠い地域まで広がった。その推定総被曝量はIAEAの推定では10万SVで、それによる発癌者は約4千人と推定されるのだそうである。これは因果関係が比較的特定しやすい甲状腺癌をのぞけば、個々のケースで関連をいうことはできない。事故の場所から遠ざかれば遠ざかるほどリスクが減るのは間違いないとしても、完全にそれから逃げることはできない。
 ムラーは、チェルノブイリの住民がかかっている多くの疾患は、放射線に由来する疾患よりもずっと多くの死者をだしているという。それは大量の喫煙と飲酒による癌と心臓病である。地域からの避難というストレスからこれらを濫用することとなり、健康に非常に大きな影響を及ぼしたかもしれない、という。そうなのかもしれないが、他の地域よりも放射線量が高いとわかっている地域に住み続けることもまた非常に大きなストレスであるかもしれない。
 チェルノブイリ事故は1986年で、ソ連の崩壊が1991年である。1986年ごろからソ連人の平均寿命が著しく低下したことはよく知られている。(男性で、1986年で50歳ちょっと、1994年では45歳以下。(マーモット「ステータス症候群」)) 国家の崩壊は途轍もない影響を人の健康にあたえるものらしい。チェルノブイリ事故の影響はそれに較べれば微々たるものなのかもしれない。
 今回のことも、直接の放射線の影響ばかりでなく、この地震とそれがもたらした災害のストレスが、これからの非常に大きな問題なってくることは間違いないと思う。
 
 タリブはいう。「後から見れば物事はいつだって明らかだ」(「まぐれ」) 「すでに起きたことはいつだって実際ほどには偶然には思えないものだから」「過去を振り返ると、いつも過去は決まっている」と。これを「後知恵バイアス」と呼ぶのだそうで、「最初からわかっていたよ」ということになる。関東近辺にいづれ大きな地震がくることは前からいわれていた。だからいわれていたことが起こっただけである。しかし、われわれはほんの10日前までは、地震のことも津波のことも原発事故のこともまるで考えていなかった。わたくしなどはiーPODを少しいい音できく方法についての本を買ってきたりインターネットで調べたりしていた。ヨーロッパの人たちは第一次大戦がはじまる前、その安定が未来永劫続くと思っていたのだそうである。そしてわれわれが今第一次世界大戦と呼んでいるものがはじまった時も、それはほんの一週間か十日で終わるに違いないと思ったのだそうである。未来のことはわからない。
 タリブによれば、「確率とは、私たちの知識が不足していて、確実なことはわからないと認めることで、自分の無知を相手にするためにつくられた方法」ということになる。衝撃をもたらす予期しない事件を、タリブは「黒い白鳥」と呼ぶ。9・11リーマン・ショックも黒い白鳥だった。3・11もまたこの数十年で何羽目かの黒い白鳥なのであろう。個人的にはわたくしにとっての最大の黒い白鳥は「大学闘争・紛争」なのであるが、歴史を見ていて予期しないことが起きた最大のものはソ連・東欧圏の崩壊であったように思う。国家というものがあんなにもあっけなく倒れてしまうということは本当に衝撃であった。
 最近の思想は人の捉え方で真っ二つに分かれていて、中道派はほとんどないとタリブはいう。理性と合理性を信じる「楽観派」と、人類の考えや行動にはもともと限界や欠陥があるとする「悲観派」。
 「悲観派」の代表としてタリブが挙げるのがポパーである。わたくしはずっとポパーの信者できたから「悲観派」なのであろうが、ポパーを「悲観派」というのは何となく違和感がある。ポパーは「楽観的な悲観派」なのではないかと思う(そんなものがあるとすればだが)。未来のことがわからないことをポパーは「未来は開かれている」という。黒い白鳥は悪いことを運んでくるとは限らないので、いいことをもたらすかもしれないのである。「悲観派」の総師はヒュームなのではないだろうか? しかしヒュームは上機嫌な「悲観派」であって、le bon David であった。理性と合理性を過信はしないが、人間に絶望するわけではなく、絶望していても今よりも少しはよくなることはありうると考えた。ヒュームによれば「人間というものの大半は二種類に、つまり、ものごとを浅薄にしか考えることができぬために真理までは到達できぬひとびとと、ものごとを深淵に考え過ぎてしまい真理を通り越してしまうひとびとに、二分できるようです」ということになるのだが、竹内靖雄氏によれば、マルクスは後者なのであり、ヒュームやアダム・スミスはこの二種類のいずれでもない、中庸を得たひとであったという。
 これから地震津波の被害について、あるいは原発の事故について、いろいろな対策がおこなわれ説明がなされていくものと思われる。しかし人間は決して合理的に行動する存在ではないので、それらの対策や説明が思わぬ陥穽に落ち込むことが多々あるのではないかと想像される。そして人間の非合理な行動という分野でが最近「行動経済学」といわれる分野ができていてその創始者がカーネマンというひとでるということを「まぐれ」で知った。人間は合理的経済人として行動するのではなく、「いい加減で手っ取り早い」経験則で行動しているのがという。そこにはたっぷりといろいろなバイアスがかかってくることになる。おそらく「行動経済学」、あるいはタリブもいうように「進化心理学」といった分野が、これからとても大事になってくるのではないかと思う。
 現在の原発事故がどの程度の危険性を持つかという合理的説明は、容易にはひとびとに受け入れられないだろうと思う。将来の2%の発癌危険性の増加などという数値が意味するものをどのように受け取るかは、ムラーもいうように科学の問題ではない。しかしそれぞれの人間が持つ価値観や人生観によって選択が合理的にきまるというものでもないように思う。自分でわからない何かがそれを選ばせるということの方が多いのではないだろうか。「科学ができるのは選択の結果がどうなるのかを示すことだけ」なのかもしれないが、科学の側はそのような説明によってひとが合理的な選択することを期待するはずである。しかし、科学の側から見て、どう見ても合理的とは思えない選択が多くおこなわれるとしたら、これから非常な混乱がおきてくることになるのではないだろうか?
 

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