村上龍「心はあなたのもとに」

   文芸春秋社 2011年3月
 
 最近刊行された「歌うクジラ」と平行して書かれていた恋愛小説である。ではあるが、「あとがき」にはひたすら1型の糖尿病のことが書かれていて、「この物語が、1型糖尿病という病気への理解の一助となれば、作者としてこれほどうれしいことはない」などとある。村上氏は小説は情報を盛るための容器であるというようなことをときどき言っている。それなら、これは1型糖尿病とはどのようなものであるかを啓蒙するために書かれた小説なのだろうか?
 わたくしの個人的な印象を記せば、本書が1型糖尿病についての情報をえるための有用な情報源とは思えない。むしろ誤解をあたえる部分もあるように思う。作中の主人公が苦しんでいる胃腸症状は1型糖尿病によるとは思えない(事実、作中での医者もそのようにいっている)。また最後の主人公の死も低血糖による昏睡を示唆するような書き方になっているが、これも1型糖尿病の避けがたい帰結の一つであると読者に思われるとまずいのではないと思う。
 この主人公は調子が悪くなるとしばしば入院するのだが、普段は、外来通院しているはずであり、そこでの管理がどのようになっているかが一切書かれていない。その死が厳密な治療をしても避けられないものであったのかについて、情報があたえられていない。むしろこの死が、主人公が一人で生活していたために生じたものであり、主人公とともに誰かがいてサポートしていれば避けられてものではないかと示唆するような書き方がされている。主人公はインスリンの頻回注射からインスリン・ポンプへの治療へと治療が強化されていくのだが、血糖の自己測定をしているようにはまったく見えない。きちっと自己測定をしていればほとんどの低血糖症状は避けられるはずである。本書は1型糖尿病と2型糖尿病はまったく異なる病気であり、1型糖尿病はきわめて重篤な疾患であるであるという情報をつたえるものとはなっているが、同時にその病気が何か神秘的な理解できない症状をともなう致死的なものという誤った印象をあたえてしまうのではないかとも思う。
 などというのは小説の評としては野暮なこときわまりなしであるので、話をかえると、上で主人公と書いたのは香奈子という女性である。この小説の語り手はその香奈子の恋人であるケンジという男性である。この男性は一時のヒルズ族を連想させるような投資組合を主催する月の小遣いが何百万というようなリッチであり、バツ一だが現在は妻と娘二人がいて、離婚の経験から家庭をとても大事にしているという設定になっている。だから、家庭は非常に平穏でうまくいっていることになっているのだが、同時に恋人というのか愛人というのかも何人もいて、その一人が香奈子という女性なのである。
 これでわかるように、なかなかとんでもない話であるのだが、こういう話が成立するためには奥さんと子供がいたってものわかりがよくかつ従順である必要があって、事実そのように描かれている。しかし、現実味がない。著者によれば(あるいは語り手のケンジによれば)家庭が修羅場になったりするのは家庭への細やかな手入れが足りないためであって、しっかりとケアをするならばそのようなことにはならないのだそうである。
 しかしやはりこれは小説なのだから、妻は嫉妬に狂い娘は父に反抗して家出しというようなことにならなければ面白くない。「死の刺」(中途で投げてしまったが)のミホさんのように怖いのが妻の本質である。ケンジさんがこれだけ好きなことをしていて、何にも感じないとしたら奥さんは単なるバカである。あるいは知っていても自分の掌の上で遊ばせているお釈迦様なのかもしれないが、本書にちらっとでてくるケンジの妻と子供はおよそ厚みも奥行きもない単なる記号のような存在である。
 などとまたまた見当違いなことを書いているが、このケンジさんの恋人?の香奈子さんは元風俗嬢なのである。たまたまホテルに呼んだ風俗嬢が愛人から恋人へと昇格?していくというこれまた、なんだか信じられない話である。最初は「サクラ」という源氏名だった女性が香奈子という固有名詞をもった女性になっていく。と書いても何のことやらであろうから、詳しいことは本書を読んでいただくとして、風俗業界というのがどうなっているのか、あるいは風俗で働くのはどのような女性なのかということについての情報を提供する小説とも本書はなっている(そして語り手であるケンジの職業から、投資についての蘊蓄が語られる小説でもある)。
 ちょっと困ったなと思うのが、トラウマだとか依存だとか関与だとか甘えだとか愛情だとか信頼だとかという言葉が連発されて、幼少時の父親との関係が女性のその後の男性関係を決定するというようなことが臆面もなく書かれていることである。さらに、ケンジさんはケンジさんで自分の幼少時の母親との関係についてくどくどくよくよ考えている。
 同じ村上の春樹さんは父親との関係についていろいろと言っているし、龍さんは龍さんで母親との関係である。どうもこのような俗流フロイト的あるいは疑似精神分析的な解釈がいろいろな小説の中でいまだに絶対的な真理であるように書かれていることが多いのは困ったことである。龍さんは非常な勉強家だし、「歌うクジラ」を読めば脳科学についても半端でない勉強をしていることは明らかなので、ピンカーなどの本だって読んでいるのではないかと思うのだが。吉本隆明もしばしばフロイト的なことを書く。
 精神分析的な見方というのは不思議に人文系のひとを引きつけるらしい。フロイトがいったことは間違っていたが、それでも臨床の場では有効なことがあるというだけである(臨床の場は、真理よりも有効性が尊重される世界である)。
 われわれは物語の形をした説明をもとめる存在らしい。物語は科学の世界での因果関係とは無縁の、まったく別の説明体系である。それは正しいか否かではなく、もっともらしいかどうかが命となる。われわれは自分が偶然の存在であると思うことに耐えられないらしく、なんらか自分の存在が必然であると思いたがる。そのための装置が物語なのである。そして物語の枠組みとして一番多用されるのが恋愛である。恋愛は任意の人間関係ではなく、必然の人間関係というものがあると信じたがるわれわれの性向に叶う。
 「香奈子は誰にも知られることなく、一人で自分の部屋で倒れたまま人生を終えた」とケンジは思う。それでケンジは「香奈子が生きたことの証し」をつくろうと思う。それは一個の公園のベンチなのだが、しかし実はケンジが語るこの「心はあなたのもとに」という小説こそが「誰にも知られることなく、一人で自分の部屋で倒れたまま人生を終えた」平凡な女性を顕彰する碑銘となっている。そもそも小説というのがそういうもので、市井の名もない人間のなかに物語がありドラマがあるという信念が成立の前提となっている。とすれば、この小説が魅力的なものとなるか否かは、香奈子という女、それを語るケンジという男が、平凡な存在でありながらもある瞬間それを越える何かになる場面がこの小説の中に立ち現れるか否かにかかっている。残念ながらそれはおきていないように思う。香奈子もケンジもともに魅力がない。恋愛というのは当事者が真剣であっても、あるいは真剣であればあるほど、端からは滑稽でばかばかしく見えるもので、語り手が読者にむかってあなたには滑稽に思えるかもしれないけれどもという留保なしに語ると、読まされるほうはどこかで白けてしまう。
 ということで、村上龍がなぜこのような大部な小説を書いたのかという根本のところがどうしても解らなかった。だから、ひょっとしてこれは村上氏の私小説なのではないかとも思ったくらいで(「あとがき」の最初に、「この物語はフィクションである」とわざわざあるのがあやしいといえばあやしい)、そうであるなら、これは氏が自分のためだけに書いた小説で他人がどう読もうとどうでもいいのかもしれない。だがそれでも、書籍という公共のものとして刊行される以上、自ずから氏の公的な主張があちこちに書かれることになり、たとえば、「人生には目標が必要で、自立すること、一人でも生きられるようになることが、結果的に大切な人を救う、わたしは物心ついたころから、そう思って生きてきたし、その価値観は今も変わらない。だが、それは普遍的なのだろうか。病とともに生きる人に、目標や自立の必要性を言うのは、健康な人間のエゴではないのか」とケンジさんは悩むのだが、このあたり村上氏の生の声がそのままでているところでもあるように思う。
 村上氏は日本の村落共同体的なべたべたした依存関係が大嫌いな「狩猟民族礼賛」派なので、自立した個人であることが何よりも大事であるとする。ケンジはいうまでもなく自立した人間として描かれる(すくなくとも自分ではそう思っている)。しかし香奈子の像は弱者が自立を強いられる悲劇なのだろうか? 香奈子は1型糖尿病という宿痾をもっていなければ自立できた人間がたまたま罹患した病の故に依存的になったのだろうか? しかし本書によれば、父親との関係が香奈子を依存的な人間にしたとされている。西欧の恋愛小説はしばしば自立した個人の間の決闘というような趣を呈するが、本書の恋愛は吉行淳之介永井荷風の描くものに近い。「狩猟民族派」の村上氏にはやはり肉食動物同士の死闘のような恋愛小説を書いてもらいたいものだと思う。
 (本書にはケンジが医療方面への新規事業の立ち上げに奔走する姿も描かれている。わたくしには、ケンジが支援している医療方面のいろいろな企画はあまりうまくいくようには思えなかった。どうも村上氏がつきあっているひとというのはかなり日本人の平均とはかけはなれた人ばかりであり、氏の視点にはかなりのバイアスがかかっているのではないだろうか?)
 

心はあなたのもとに

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歌うクジラ 上

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