(22)2011・5・7「被災地へ」

 
 5月3日から6日まで、福島県の新地町にいってきた。新地町は福島県北端の宮城県に接する海沿いの人口約8千人の町で、今回の地震津波で100名以上の死者と行方不明者をだす大きな被害をうけた。現在まだ5ヶ所の避難所に300名以上の避難者がおり(ただし、仮設住宅の建設が進んでおり、この数は流動的で、減少傾向にある)、主としてそこでの医療支援が目的であった。
 M病院のJMAT(日本医師会災害医療援助チーム)に加えていただいた。M病院から医師2名(外科医、2年目の研修医)、助産師1名、薬剤師1名の4名、わたくしの所属する病院からからわたくしのほかに病棟勤務の保健師の2名で、計6名のチームであった。新地町には常磐線の駅があるが、海岸にあるため、駅が建物ごと流され、そこにいた車両も横転した(報道写真集などにその写真が載っている)。常磐線はいまだに不通のため、東京からM病院所有のワゴンで現地にいった。5月3日はゴールデンウィークのためか、被災地の身内を訪ねるひとのためか、ヴォランティアの参加のためか、東北道は非常に混雑しており、通常6時間前後でつく経路が結局10時間ほどかかり、朝の8時にでてついたのが夕方の6時前になってしまい、前のチームとは口頭での引き継ぎができず、電話での引き継ぎとなってしまい、不安な出発になった。
 町役場内に臨時に設置された診療所で仕事をした。
 地震からすでに二か月弱の時間が経過しており、新地町では、ガス・電気・水道は回復し、下水道のみが問題を残している状態であり、インフラは相当程度回復していた。役場近くのコンビニにいけば何でもある状態で、モノ不足という印象もなかった。われわれは自衛隊のひとの炊き出しによる食事の提供をうけ、毎日入浴もできた(役場の近くの施設に風呂があり、夜9時くらいにそこを利用できた)。寝る場所も役所内に確保され、寝具もあり、食糧寝袋持参で床に雑魚寝というような初期の報道の状態ではまったくなくなっていた。下水道に問題はあるということであったがトイレも利用できる状態で、被災当初の状態に比べれば、非常に回復しているのだろうと思われた。
 役場内の仮設の診療所は現在までのあいだに整備されて大量の薬剤も備蓄されており、われわれの前にいた九州からの医療チームの努力により、参加した病院間で情報を共通できるクラウド上に設置された電子カルテシステムまで設営されていた。後述のように昼間は受診する患者さんは多くはなく、この電子カルテシステムを理解し使いこなすことにむしろ多くの時間を割くことになった。さいわいM病院からの若い研修の先生がその電子カルテシステムをすばやく理解し(前病院との引き継ぎが口頭ではなかったので、文書のみでは理解できない部分が多かった)われわれにうまく伝授してくれたことが、今回非常にありがたかった。また薬剤師さんも空いた時間に電子カルテ上に登録してある薬と現実に現場にある薬剤の照合に奮闘してくれた。新規の患者さんの登録は本来は事務のかたの仕事であるが、今回は事務方の参加がなかったため、看護師さんがそれを担当した。この電子カルテシステムは将来どのように運用されるかがわからないため、電子カルテ上で入力するとともにプリントアウトして紙のカルテもあわせて作るという二重の作業が必要であり、多くの空いた時間は、電子カルテ対応で費やされることになった。おそらくJMATが派遣されているところで、そのために作成された電子カルテシステムが動いているところはあまりないだろうと思われる。短期間で医師が交代するJMATのシステムでは、情報の共有が大きな課題となるので、このような電子カルテシステムはその克服のためのよい手段となるかもしれない。
 日中は避難所にいるひとも被災した自宅のかたずけにいったりするひとが多く、昼の人口は少ないとのことで、昼は役場の臨時診療所にいて、夕食後に避難所をまわるというスケジュールで行動した。今回は連休中であり、避難所のかたで親戚や知り合いのところにいっているひともあり、また仮設住宅への移動がすでに一部おこなわており、5月3日にも移動があったなどのこともありさらに人が少ないということであった。
 そのためか昼、診療所で待機していても、患者さんはあまりこず、数名から10名くらいまでであった。糖尿病がありインスリンを打っているかたが応援にきて急性胃腸炎症状があり、下痢・嘔吐があり食事がとれなくなったために血糖を測定したり、別の応援のかたが、足に釘をさして念のために破傷風の予防をしたというケースはあったが、軽微な感冒症状とか現在の薬剤継続投与希望といったかたが多く、昼間の診療については、現地の医療機関での対応が可能なのではないかという印象をもった。町にある二か所の診療所はすでに再開しており(ただしわれわれがいった連休中は休診)、また町の薬局では無料の薬剤が臨時診療所に大量に供給されてきていて困っているという話もあった。現地の医療機関にどのようにひきついていくかは今度の大きな問題であると思われた。ただし、昼の診療を現地の医療機関にまかせると、遠方から来た医療チーム(九州からは飛行機で東京へ、新幹線で仙台へ、そこからレンタカー)は昼にはほとんど仕事がなくなって、開店休業の状態となり、人員の有効利用という点では無駄になってしまう。
 この地域には今医療者が余剰にいる、一方ここでは足りないという情報が共有でき、臨機応変にひとを配置できるシステムができればいいのだが、まだそこまでは難しいのであろうか?
 一方、夕食後の避難所訪問では、医師一人では十分な対応は困難な数の避難者がいるので、看護師さんがまず話をきいて、問題があるひとを医師につなぐというやりかたになることが多いようだが、人数が多くいれば医師が直接話をきき、看護師さんが血圧を測り、薬剤師さんが服薬の仕方の説明をするという対応が可能になるので、避難所の訪問にかんしては人数が多いほうがいいことも間違いない。昼に余剰になる医療者をいかに有効に活用するかが、今後のJMATシステムの一番の問題点となるように思えた。
 新地町の仮設住宅の建設は非常に順調に進んでいるようで、(4月末に最初の38軒が完成し130人が移動、5月3日に70軒が完成し160人が移動)早ければ6月の半ばまでにはすべての避難所にいるかたが移動できる予定とのことだった。仮設住宅の完成までは現在のJMATがこの地域をカバーしていく予定とのことであるが、われわれが申し送りした九州のK大学のチームは医師3名、看護師2名、薬剤師1名、事務1名の計7名で、さらに大所帯であった。これだけの大部隊であれば、もっと緊急に医療を必要としている場所で活動したほうが効率的なように思えるが、新地町としてはなるべく派遣を継続してほしいという希望があるようで(今までは夜間は町内に医師不在に近い状態であったが、現在は1〜3名の医師が待機している状態)、このあたりが難しい問題であろうと思われた。
 応援にきている自衛隊員のメンタル面について質問したが、時々、精神科医師が巡回診療にきていてコンサルトをしているということであり、また現地の役場で働く人々などの健康状況も尋ねたが、すでに交代勤務体制が確立し、24時間不眠不休というような体制ではなくなっている、とのことであった。
 新地町はそこに火力発電所があることも関係するのか、印象として裕福な町で、とても立派でモダンな町役場と保険センターがあり、津波の被害を逃れた場所では、一見したところではほぼ日常の生活がもどっているように思えた。町役場は海から1kmくらいのところにあるが、津波はすぐそこまで来たとのことで、町役場を境に津波被害のあったところとなかったところが境界線を引かれているようで、役所の山側にはのどかな光景があり、海側にはわれわれがしばしばテレビでみた瓦礫のおおわれた原が依然として残されているという町が二分された状態になっていた。
 意外だったのが、原発の問題自体がほどんと話題にでなかったことで、避難所のテレビのニュースで管首相が映っていても誰もまったく無関心な様子であった。
 5月4日は朝から、町役場の前の広場で、ライオンズクラブなどが主催する縁日?のようなイヴェントが盛大に行われ多数のひとでにぎわっていた。たくさんの食べ物や遊びが無料で提供されていた。広場には支援にきた自衛隊の車輛も多数展示され、それに乗ったりして子供たちが遊んでいた。これは町の山側の象徴で、ここだけ見れば(自衛隊の『災害支援』の車輛さえなければ)、被災地とはだれも思わないかもしれない光景だった。ライオンズ・クラブは全国から支援のひとがきているようで、明日は大槌町でもまた同様のイヴェントをおこなう予定とのことであった。その動員力に感心した。
 5月5日には子供の日ということで静岡県警のひとたちが各避難所などで紙の鯉のぼりを配ってまわっていた。看護師さんたちも、昼は時間があまるので、子供たちと遊んだりしていた。
 印象としては、昼と夜の落差というか、山側と海側の落差というか、津波の被害をうけたものとそうでないものの落差というか、光と影の落差が目立ち、現在、本当に医療を必要としているのは、避難所にいる人たちに限られるのではないかという感想をもった。そしてその人たちにしても、第一に必要としているのは、医療ではなく、仮設住宅が建設されることであり、お金であり、仕事であり、要するに衣食住であって、医療の優先順位は決して高くはないのではないかと思われた。だからわれわれが避難所を訪問しても本当に歓迎されているのか何ともいえないところもあるように思われ、「もう寝ようと思っていたら、お客さんがきたので相手をしなければいけない、やれやれ」ということだってないとはいえないと思う。
 もちろん、精神的ケアということもある。ごく短い接触で軽軽なことはいえないが、ウツ的なひとは多くはない印象であった。無理に陽気にふるまっているというという印象のひとが多かったが、これもお客さんへの礼儀ということかもしれない。
 現在、5ヶ所の避難所があるが、その避難所ごとの印象が強烈に異なるということがあった。地域ごとで避難所に集まっているということがあるのかしれないが、ブルーカラー、ホワイトカラー、漁業関係など地域ごとに職種が違うということがあるらしい。このように地域ごとに集まって生活してところをみると、被災したかたがたが東京など遠方への避難を希望しない理由が少しわかったような気がした。
 避難所での集団の生活から仮設住宅という一応の「個的」な生活に移ったときに何等かの精神的な危機が生じてくるかもしれないが、それへの対応は現在よりも一層難しくなるであろうと思われる。3泊4日程度で交代で訪れる医療団がそれに対応していくということは至難のことであろう。
 新地町は医療としては過疎に近い町であったようである。そこに交代でではあっても、つねに医療部隊が訪れていることは現地のかたにある種の安心感をあたえてはいるようである(これも現地の方の外交辞令であるのかもしれないが、素直にそれを信じることにしたい)。
 津波のあとをみると一見外観は残っていても、中は空洞となっているような建物が多い。福島の原発の建物もよく無事に残ったものであると思う。
 3・11の後からつねに何となくもやもやしたものがあって、一度現地をみてこないと落ち着かないような気分があった。今回、現地にいくことで、そこで暮らす方々の役にはあまりたてなかったかもしれないが、自分の気持ちは少し落ち着いたように思う。現在、現地にいっても大きく貢献できることはあまりないことがわかり、今いるところで今の仕事を続けることでいいのだと納得できたように思う。やはりこういう災害で医療が本当に必要とされるのは、災害がおきてからすぐなのであるということが理解できた。そして今回は、すぐに現地にむかったひともできることは限られたらしい。大きな災害の前では人間ができることは限られているということなのであろう。