倉橋由美子「城の中の城」

 
 新潮社1980年刊。黒い布装の本にクリムト風?の絵(装画 山下清澄 とある)をあしらったカバー。この小説の先行作である「夢の浮橋」がパラフィン装のしゃれた造本で箱入りであったのに較べると普通の本となっている。「夢の浮橋」が刊行された1971年からの10年ほどの間に、箱入りの本という形態がすたれていったのであろうか?  倉橋由美子という作家はもう現在ではほとんど忘れられた作家となりつつあるのかもしれない。2005年に69歳で死んでいるが、生前ですら半ば忘れられていたのかもしれない。最後の長編である「交歓」が1989年の刊行であるから、それも当然なのかもしれない。結局、倉橋氏は二流の作家であったのだろうか? おそらく氏自身も、自分より優れた作家、いわば一流の作家がたくさんいることはみとめていたはずで、それを模倣することを自分の方法とした。つまり独創性とか個性といったものには何の重きをおかないひとであった。いささか氏が自負していたところがあるとすれば、明晰な文章を書く能力といったものについてであっただろう。
 この「城の中の城」は実に奇妙な構成の小説で、「城の中の城」という全部で17章からなる小説の前後に、「a 人間の中の病気」という導入と「b 信にいたる愚」という付随エッセイというか反宗教の議論の紹介というかがついている。このaとbの部分は倉橋氏という書き手が前面ででているが、中間の「城の中の城」は通常の小説の形態となっている。つまり書き手は背後に隠れて、作中の人物たちを物語ることのみに専念する。ただ通常の小説と違うのは、桂子さん、智子さん、貴君、耕一君、山田氏、林さん、といったように作中人物が呼び捨てにされないことである。これは前作の「夢の浮橋」では、桂子、耕一、堀田、宮沢、と呼び捨てになっているのと対照的である。
 最後のエッセイ集である「最後から二番目の毒想」におさめられた「シャトー・ヨシダの逸品ワイン」に「一九七〇年産の『瓦礫の中』、一九七一年産の『絵空事』、それに一九七三年産の『金沢』。いずれも吉田氏自身が推奨してたシャトー・ディケムを思わせる逸品で、これを読んだあとは小説を読むのも書くのもいやになってしまった」とある。
 これは本当なのだろうと思う。吉田健一氏の「瓦礫の中」が「文芸」に掲載されたのが1970年7月であり、10月に「町の中」が「すばる」に、「人の中」が「海」にでて、それらを適当に?つなげたものが「瓦礫の中」として翌1971年に刊行されている。
 一方、倉橋氏は「夢の浮橋」を1970年の7月から10月まで「海」に連載している。倉橋氏としては周到な準備のもと満を持して書いたものであろう「夢の浮橋」の発表とまさに時を同じくして、吉田氏の最初の長編小説が発表されたわけである。
 倉橋氏は打ちのめされたのだろうと思う。もちろん、倉橋氏はそれまでも濃密に吉田氏の影響をうけていたし(わたくしが最初にそれに気がついたのは、1970年に発表された「マゾヒストM氏の肖像」という小説の文体によって)、「夢の浮橋」も(そしてその前の「反悲劇」も)倉橋氏の理解する吉田文学論に則って執筆したものであったと思う。
 吉田氏は「瓦礫の中」以前にも短編小説と称するものをいくつか書いているが、それを小説と思っていたひとはほとんどなく、批評家が手すさびで書いている変なしろものとしてあつかわれていたはずである。だから小説家としての吉田氏の評価は高くなかったはずで、「ヨオロツパの世紀末」の連載中であり、それによりいささか文名はあがっていたとしても、長編小説一挙掲載などをさせてもらえるはずはなく、三つの雑誌にわけて発表などというひとをくった手にでたのであろう。倉橋氏にしても批評家としての吉田氏には全面的に帰依していたとしても、小説家としては自分のほうがプロという自負はあったはずである。それなのに「瓦礫の中」に脱帽してしまった。こういう書き方があったのかと驚嘆した。それはintimate な小説の書き方とでもいうべき何かである。
 「瓦礫の中」の書き出し。

 こういう題を選んだのは曾て日本に占領時代というものがあってその頃の話を書く積りで、その頃は殊に太平洋沿岸で人間が普通に住んでいる所を見廻すと先ず眼に触れるものが瓦礫だったからである。そしてそういう時代のことを書くことにしたのは今では日本にそんな時代があったことを知っているものが少なくて自然何かと説明が必要になり、それをやればやる程話が長くなって経済的その他の理由からその方がこっちにとって好都合だからである。他意ない。

 なんともひとを食った書き出しである。これは吉田氏の地の文章で、この書き出しだけをみれば、占領時代をめぐってのエッセイでもいいはずである。とにかく長い話になると自分の実入りも増えるからなどと書き、このあと、延々と瓦礫の説明となる。しばらくそれが続いてから、「ここで人間を出さなければならなくなる」という文が唐突にでてきて、ようやくこれが小説であることが明らかになる。

 ここで人間を出さなけれならなくなる。どういう人間が出て来るかは話次第であるが、先に名前を幾つか考えて置くことにしてこれを寅三、まり子、伝右衛門、六郎、杉江ということで行く。まだその名前の人間が出て来る、であるよりも寧ろ出来ている訳ではなくてただ名前の方が何となく頭に浮かんだに過ぎない。これから誰か出て来る毎にこれにその名前のどれかを付けて、名前が多過ぎるか足りなくなるかすればもっと名前を考えるか、あるいは話の筋を変えるまでである。

 これまたふざけた書き方であり、小説というものが作者のつくりものという舞台裏を表に出してしまっている。
 そして、さらにしばらくして、

 或る朝、寅三は防空壕の屋根を潜って外に出て廻りの焼け野原の風景を見渡した。

 となり、ようやく普通の小説がはじまる。数ページ寅三さんが焼け野原を眺めている描写が続いた後、「もう一度屋根を潜って防空壕の中に入ると妻のまり子が(だから名前は先に考えた方がいいのである)手製のパンを電気の炉で改めて焼いてトーストにしていた」ということになり、ようやく二人目の人物が登場してくることになる。

 このまり子のいう女についても一言して置きたい。これが兎に角小説の部類に属する話である以上まり子をどういう女に仕立てようとこっちの勝手であって、まり子は非常な美人だった。

 とあって、またまた作者が顔を出して今度は美人とは何かという議論が始まる。まだエッセイと小説の間をいったりきたりしている感じである。
 この寅三とまり子夫婦の隣に住む人として第三の人物である伝右衛門さんがでてくるのだが、これは小説の地の文でもつねに伝右衛門さんと表記される。寅三とまり子にとって年長の人物だからである。吉田氏の次の長編小説である「絵空ごと」(これも最初「画廊」と「絵空ごと」として別々に発表されたものがあとで合体して「絵空ごと」となったと記憶している)では主人公の勘八以外は、すべて元さん、小峰さん、戸塚さん、牧田さんとさん付けである。勘八にとっての友人であるからすべてさん付けとなる。寅三や勘八というのはどこか吉田氏自身を思わせるところがある人物で(漢字一字+算用数字という名前も健一氏と共通する)、だから呼び捨てになり、奥さんや目下のものには「さん」はつけない、友人や目上のものには「さん」をつけるということでこれらの小説はなりたっている。
 これを読んで倉橋氏は驚いたのであろう。エッセイと小説の境がなく連続している小説、作中の人物が intimate である小説、われわれが普通に書く散文の延長として自然に出現してくる小説、それに打たれたのであろう。
 なぜ小説などというものが書かれなくていけないのかということについて長く倉橋氏は疑問を抱いてきたはずである。「スミヤキストQの冒険」(1969年)、「反悲劇」(これもほどんどは1970年までに書かれている)などはそれらへの答える試みであったのだろうが、氏が大嫌いであった《その当時の日本でこういうものが小説とされたいたもの》とは違う小説を書くという試みであったが、それでもやはり「スミヤキストQの冒険」も「反悲劇」も歴然として小説であり、散文が自然に小説となるというような自在さはいささかももっていなかった。
 「夢の浮橋」から「城の中の城」までの約10年のブランクは、吉田氏の小説の骨法を自分の小説に取りいれる方法の模索に費やされたのではないだろうか?
 それで「城の中の城」の巻頭「a 人間の中の病気」は以下のように書き出されることになる。

 年下の友人に山田桂子さんといふ人がゐる。桂子さんは、紋切型を使へば現在「平凡な家庭の主婦」で、二児の母である。昭和四十五年頃書いた『夢の浮橋』といふ小説に出てきて、ある大学の助教授(当時)の山田氏と結婚してからもう八年になる。勘定してみると年は三十歳、子供の二人位ゐてもいい頃なので二児の母といふことにしておく。・・ その桂子さんのことを最近必要あつて思ひだした。すると桂子さんの方も当然の如く久しぶりに姿を現したのである。

 これまたふざけた書き出しであるが、自分のかつて書いた小説の登場人物を友人であるなどと書き、その桂子さんが「目下ある問題について多少考へるところがあつて、今日は実はその話がしたいのだと言ふ」などと書く。登場人物が自分に相談に来たというのである。
 それはキリスト教の問題であるということで、その後下、桂子さんのキリスト教論というか反キリスト教論が展開される。しかし、どう考えてもこれは倉橋氏の論である。そうならば、小説を書くなどというまだるっこしいことをしなくて、倉橋氏署名の文としてそれを書けばいいのではないだろうか? 吉田氏の小説の登場人物だって吉田氏の言いそうなことを口にする。しかし吉田氏の小説は氏が論文で示したことを実行している人間を描くものなのであるから、それで不自然ではない。この「城の中の城」も登場人物が倉橋氏の理想とする人間であり、それが清談をかわす小説であるのなら問題はない。しかしこの小説は桂子さんの夫君である山田氏がキリスト教に入信しようとするのに対して、桂子さんがそれと闘い棄教させようとして、成功する話なのである。倉橋氏の理想とする人物はキリスト教に入信するはずなどはないのだから、議論はどうしても清談とはならない。それに何よりも困るのは、「夢の浮橋」にでてくる山田氏は間違ってもキリスト教などへはいかない人として書かれているのである。
 倉橋氏が「夢の浮橋」を書いた時には、その続編を書くなどということは思ってもいなかっただろう。しかし「瓦礫の中」や「絵空ごと」を読んで、どうしても「夢の浮橋」の人物を用いてその修正版を書く必要を自分の内に感じたのであろう。それでそういう無理な設定がでてきてしまったのであろう。そして、ここで敵とされているのはキリスト教であるが、それは敵は本能寺であって、氏が従来から延々と批判してきた日本の文学(あるいは文学者)がその本当の敵なのだろうと思う。
 「人間の中の病気」の議論では、マルクス主義マルクス教としてキリスト教と同一に扱われている。そして桂子さん(すなわち倉橋氏)によれば、マルクス教やキリスト教に感染しやすいのがインテリなのである。あるいは作家や文化人なのである。それらは先天的に弱い人間なのである。弱いからほかの人間もみな弱いのだと思う。そして自分は(自己理解に優れているから?)自分の弱さに気がついているが、周りにはまだ自分の弱さに気づいていない愚かなひともたくさんいるとして、それを「憐みの目」でみる、それが許せないという。という方向にいくのだとすると当然ニーチェがでてくるわけで、人間にも優れて善きものとお粗末で劣悪なものがあり、お粗末で劣悪なものがキリスト教に走り(そしてここではそう書かれてはいないが)文学に走るのだとする。お粗末で劣悪なものが書いた文学など読めたものではない、というのが倉橋氏の年来の主張なのである。
 それで「城の中の城」では一時的に山田氏をキリスト教に接近させることをするが、以後の「シュンポシオン」や「交歓」では、倉橋氏好みの人物が清談を交わすことになる。しかし、困ったことにはかれらは日本の支配層であり、貴族階級であるような書かれ方なのである。かれらは仲間内であるから、入江さん、林さんなどとさん付けで呼ばれることになる。
 この「城の中の城」を読んで困惑するのは、そこで描出されている宗教とそれを信じるひとが随分とお粗末で劣悪なものとして描かれているという点である。宗教を信じるひとのなかにも時には優れて善き人だっているかもしれないということは考慮されていない。それを感じるのは倉橋氏が「偏愛文学館」でウォーの「ピンフォールドの試練」を絶賛したあと、ウォーでは「黒いいたずら」などもいいが、ただ「ブライヅヘッドふたたび」にだけはいま一つと判断を保留しているような点においてである。そこにでてくるのはまさに宗教の問題であって、そういう宗教の力がひとを支配する物語が倉橋氏にとっては鬼門なのである。だからグリーンの「情事の終り」やボウエンの「日ざかり」なども一度読めばたくさんであるとされてしまう。しかし西欧においてはキリスト教が徹底的に大きな力を持って人々を支配してきたのであるから、こういう小説が書かれる必然もあるわけである。「偏愛文学館」の「ブライヅヘッドふたたび」の章では、倉橋氏はそれを渋々と肯定するようになっている(「この長編小説は、超ドライなマティーニを飲んできたあとでは上等の白ワインに近い味がして、つまりは上等の恋愛小説だということがわかるようになりました」)。大部分の恋愛は愚行であるが、上等の恋愛だってないわけではないのかもしれないのである。倉橋氏もドライなマティーニのような方向のものばかりをねらうのではなく、時には上等の白ワインのような小説を書こうとしてもよかったのではないだろうか?)。その歴史と伝統を持たない日本でキリスト教信仰などということをいうとすぐに滑稽なものに近づいてしまう。そういうものは嗤って相手にしないというのが正しい態度なのであろうと思うのだが、倉橋氏は真面目にそれと勝負しようとするのである。だからどことなくドン・キホーテ的になってしまう。
 「ブライヅヘッドふたたび」や「日ざかり」のようなことは西欧でならおきてしまう。われわれはそれを読んで楽しみながら、西欧人に生まれなくてよかった。西洋人というのは難儀なものですなあ、と思っていればいいのであろう。
 わたくしが倉橋氏に興味があるのは、氏にあたえた吉田健一の影響という点からなのだが、「瓦礫の中」や「絵空ごと」はやはり吉田氏にしか書けなかったもので、それを模倣しようとした「城の中の城」や「シュンポシオン」「交歓」は何かが不足した作品となってしまっているように思う。倉橋氏はお酒が駄目だったひとのようで、そのためかお酒を呑んでいるような時間、つまり充実した普通の時間といったものがそれらの小説ではうまく描けていない。「シュンポシオン」や「交歓」での清談はなんだか地に足がついていない抽象論のように思えてしまう。
 しかし、そうまでしても吉田作品を模倣したいくらい倉橋氏は吉田氏の作品を愛していたわけで、その気持ちはとてもよく解るし、だから、その転換となった「城の中の城」はわたくしにとってとても気になる小説であり続けている。
 倉橋氏の終生のテーマは自分の文学少女性からの脱出ということであっただろうと思う。吉田氏だって同じに自己の文学青年性からの脱出を生涯のテーマとした。しかし吉田氏の場合、文学青年性=近代としてある面では肯定されてしまう。しかし現代は近代ではないのだから、現代において文学青年であることは愚かなのである。だが近代という時代においては、文学青年であることはその時代の要請に正面からむかうことでもあった。
 小説として吉田氏の「瓦礫の中」や「絵空ごと」などはどんなに優れているとしても、やはり奇手の産物であり、正統的な書き方の小説ではないと思う。「夢の浮橋」では倉橋氏は川端康成の「千羽鶴」の方向を目指したのだろう。「瓦礫の中」に惑わされなければ、倉橋氏は何作かのそういった方向の小説を残せたのではないかと思う。読者としてはその方が楽しめたのではないかと思うが(あとは「ヴァージニア」の方向だろうか?)、しかし倉橋氏はそれを少しも悔やんではいなかっただろうと思う。
 誰かがT・S・エリオットはキリスト教にいったことにより詩作品の完成を犠牲にして自身の安心立命を得たというようなことを言っていたが、倉橋氏も吉田氏に帰依することにより、自己の小説作品の成果を犠牲にしたが、自身の安心立命は得たのかもしれない。とすれば、倉橋氏にとって吉田健一の作品は宗教の経典のようなものだったのかもしれない。
 

城の中の城

城の中の城

夢の浮橋 (1971年)

夢の浮橋 (1971年)