今という時点で三島由紀夫を論じることが難しいのは、氏があのような死に方をしたことによる。その後「憂国忌」などというものまでできてしまったというようなことがあり、あの死、あるいは自衛隊のバルコニーでの演説といったものが三島が残した作品とどのようにかかわるのかということが無視できないことのようにも思えてしまい、その文学作品を論じようとするものに、その作品だけを論じてもいいのだろうか、そうすることにより何かがこぼれ落ちてしまうるのではないかというような弱気を生じさせてしまうことになる。
三島を論じようとする多くのものにとって「七生報国」とか「天皇陛下万歳」などというのはばかばかしい以前のまったく論じる価値のないことなのであるけれども、そういうことを全面的には避けて通れないのだすると、ついつい三島を論じるのを敬遠するようになる。一方「七生報国」とか「天皇陛下万歳」が我がことであるという少数のひともいて、そういう人たちは声高に三島のことを語る。三島先生!である。
本書は実に巧みにそのことを回避している。死にそこなった三島はその瞬間に憑きものが落ちる。「七生報国」とか「天皇陛下万歳」がどこかにいってしまい、ついでにいえば文学もどこかにいってしまう。まったく任意の人間となって27年を獄で過ごし(精神鑑定とかは受けたことにはなったいるが)、72歳の老人として娑婆にもどってくる。本来であれば獄中での27年間こそが文学の好個の素材ではないかと思うのだが、ここでは27年はまったく何もおきない変化のない無時間の期間とされている。あのような事件は、それを一度はしてみたかったのではあっても、一度すれば充分でたくさんである、ということにされる。三島が主催していた「楯の会」とかは世間をからかうためのまったくの遊びであったという見方は多くあったわけが、松浦氏もまたそれに与しているのであろう。
吉田健一に「三島さんのこと」という奇妙な文がある(「時をたたせる為に」(小澤書店)所収)。
その死は事故による。例へば交通事故で死んだものがあつた時にそれで改めてその思想とか生前の行状とかを云々するのは無意味であり、さうして死んだといふことが先にたつての詮索は週刊誌風の好奇心の仕業に過ぎない。又同じく交通事故で死んだものがどうすればかうならなかつたのにと言つた考へ方をするのも余計なことで人間は死ぬ時に死ぬのであり、誰でもその時が来るまでは生きてゐる。
これが書き出しで、以下延々と日本の文士の収入がいかにひどいものかという話が続き、最後に、
もしここに豊かな天分に恵まれてゐて別にさうした騒ぎが仕事の邪魔にならず、逆に騒ぎによつて世相を掴む術に長け、その騒ぎの快感を仕事の刺戟に用ゐることも出来る人間がゐたらどうだろうか。或はその仕事の世界での自由は仕事と騒ぎと全く切り離すに至るかもしれくて、その点に達するならば騒ぎは騒ぎで自分から自分の楽みに、或はこれも或る形での生き方と心得て焚き付ける方向に進むといふこともあり得る。もしそのまま文学の仕事が続けられるならばその人間が文士であることに変りはなくて、ただ一流の仕事をする文士で情事が道楽であるのが媚薬の量を間違へるといふことがあつても別に驚くことではない、或は蝶気違ひの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある。先に題で示した通り、以上は三島さんのことでもある。
と終わる。
三島の文学作品と「楯の会」とかの活動を完全に切り離すという方向であり、三島は「楯の会」という道楽で媚薬の量を間違えたことになる。この路線でいくならば、三島は死にそこなっても、それは道楽の部分でのできごとなのであるから、文士の仕事のほうは残ってもよさそうなものであるが、「不可能」では、三島は文学からもまったく離れてしまうことになっている。そうだとすると、道楽と文学はどこかでかかわっているということになる。とすれば松浦氏は吉田の解釈ともまた別の立場にたっていることになるのだが。 だが、とにかくいえることは、この事件の後、三島は憑き物が落ちたように、文学も天皇もどうでもいい人間となってしまったとする仮定に立たないと「不可能」という小説は成立しないということで、そのような仮定での思考実験からくる結論として、「老いた三島は吉田になる」という方向が(少なくとも、この小説での前半では)導かれてくることになる。
実物にあたることにする。
第一章「地下」
基本的に状況設定の説明の章である。「平岡は雨の日に地下にいることを好んだ」と書き出される。平岡が住んでいる家の説明である。出所後しばらくはある人の提供してくれた住まいにいたが、それが面倒事をおこしそうになったので、東京の西郊の住宅地に家を建てたということになっている。「ただ墓を建てるかわりに家を建てたようなものだった」ということで、ある建築家に大体こんな家をというプランを示したあとは、ただ現場まかせである。「地下ばかりががらんと広いその家は何の飾りもないコンクリート造の二階家で、道路に面した側には窓もなく灰色の壁がのっぺりとそそり立っているさまは文字通り墓か廟のよう」という家である。そこには女中や召使や書生といった反時代的な呼び方をされているものたちがいることになっているが、それらとのかかわりはなく、平岡は一人である。「地下室には彼の希望でバーにあるようなカウンターとそれに向かい合って幾つかのスツールが置かれていて、夜になって気が向けばその一つに腰かけてウイスキーの水割りを嘗めることもあった。」
はじめはそれだけの地下室に、ある日、思いついて、丸テーブル三台とそれぞれに三脚ずつでつごう九脚の椅子を入れる。これで「銀座あたりのバーらしくなった。」 さらにまた、ある日思いついて、石膏でできた人間の彫像を五体もちこみ、バーテンダーを立たせ、その他をストールと椅子にすわらせる。大柄な中年男、若い男女のカップル、五十格好の小柄な女である。またまたある日、さらに思いついてオーディオを導入し、そこにバーにいる人たちが交わす会話、あるいは街路のざわめきなどを流せるようにする。「ただし、車の騒音といっても排気ガスのにおいもないし盛夏の陽射しといっても肌を灼く熱暑もない。」 この石膏像をつくったS・・君がいう。「こういうふうに歳をとれたらいいですね。・・生まれたときからずっと、こんなお墓の中にいつづけたような気分になれる」
このどこが吉田健一だということになるが、吉田の小説は「瓦礫の中」にしても「絵空ごと」にしても家を建てる話であるし、「東京の昔」も「埋れ木」も住むところにこだわった話である。この章もまた家を建てる話であり、住むところにこだわる話とはなっている。
第二章「川」
平岡はスコットランドに来ている。そこで日本海などとは桁が違う「寒々とした海」を見る。窓の外に牧草地と川と森にある城館ホテルはそれとはまた別の世界なのであるが。そこで平岡は「時間ということなのだ」と思う。「物の本質が外へ浸み出し、見かけと一つに溶け合って揺るぎない姿をまとうには長い長い時間がかかる。無数の人々のそれこそ気遣いや気配りも必要になる。一つの建物の全体が、そして建物の内部を埋めつくしている家具調度のいっさいがそうした外観を得るにいたるのは何とも大変なことなのだ。それを贅沢と呼ぶのだろうか。・・歳月の流れが物の中に染み通り、それによって今度は物本来の姿が内から外へ浸み出てゆく。そうした物たちに取り囲まれて余計な気を使わずにいられるようになる。それが贅沢の極みなのだと平岡は思った。」「テイ川の水はウイスキーに適していて川沿いに大小の蒸留所が点在しているという。これは長年にわたってこの国の人々の生活と文化の糧となってきた川なのだ。・・すめらぎだのますらをだのもののあはれだのといった言霊は少なくともこの美しい川面の上には浮遊していない。」
「ただ単に生きているとはどういうことか、四十代の半ばになっても俺にはまったくわかっていなかった。・・ボクシングをやっても剣道をやっても自衛隊のF104戦闘機に乗せてもらっても少しも生きていると感じられなかったあの難儀な性格の中年男に対して、平岡はかすかに甘い憐みを感じた。」「人間とは世界にとってまったく余計なもの、余分なものなのだから。テイ川の水が流れてゆく。鳥が囀っている。ただそれだけで・・。」 ホテルであるアメリカ婦人のおごりでウイスキーを飲む(Cragganmore とかいうもの)。「つまりはこれもまた贅沢そのものにほかならなかった。」
いきなり吉田健一全開となる。なにしろ「時間」である。「贅沢」である。「世界にとっての余計ものとしての人間」である。「建物が本当の建物となるために必要な時間」である。
そして三島由紀夫全否定である。可哀そうに。ボクシングをするとき剣道をするときF104に乗るとき、その時だけは生きている気がするといっていたのに(「窒息感も来ない。私の心はのびやかで、いきいきと思考していた。・・行動の果てにあるもの、運動の果てにあるものがこのような静止だとすると・・この地点こそ私の求めてやまぬものであつた」(「太陽と鉄」)。
吉田健一「絵空ごと」に「日本でもの凄く上等なウイスキーっていうのを飲んでも大して旨くないのは妙ですね。」「そう、それだからこの位で丁度いいんでしょう。その本場から遠過ぎるんでしょう。」「そう、ウイスキーと同じ色をした水が流れている川に小さな石の橋が掛っていて、橋を渡った先の飲み屋の前を汚れた羊の群が通っている。その飲み屋に入れば小さいウイスキーの樽が幾つも逆さに止り木の向うの壁に取り付けてあるというところですか。」という会話がある。平岡は本場でウイスキーを飲んでいるのである。しかしなんでここで急に平岡が急に「時間ということなのだ」などとつぶやくようになるのかがよくわからない。スコットランドという土地がそうさせたということなのだろうか?
ところで、「文学の価値も権威もすっかり地に堕ちてしまったことだけは平岡でさえ知っている。・・要するに女子供ばかりがはしゃぐようになったというだけのことではないか」という記述がある。これは平岡のものというより村上春樹嫌いの松浦氏の述懐なのではないかという嫌疑があるかもしれない。
第三章「鏡よ鏡」
平岡は日本に帰って、S・・君と対話している。「この日本という国には時間ってものがない・・英国みたいに果物がゆっくり熟れてゆくように成熟してゆく時間の厚みってものがない。それを可能にする心の余裕がない。近代以降いつも息せき切って、つんのめるように、ただ倒れないためだけに走りつづける一方で」と平岡はいう。「しかし、熟れるのは良いけれど、熟れた後は腐るでしょう」とS・・君。平岡は「だが、贅沢っていうのは本来そういうものだろう。芳香の極みにひとすじの腐臭が立ち混じっているという」と答える。これまた吉田健一である。
第四章「塔」
平岡は「太陽と鉄」ではなく「月光と骨」などと考えている。「太陽と鉄」は若さと未熟がもたらした錯覚だし、植物には骨がないだけ強い、などとも思う。45歳での出来事を「ああいうことも一度はやってみたかった」のだが「一度はやってみたいといった程度の酔狂にしてはそのためにずいぶんと大掛かりな口実をこさえ上げたものだ」などとひとごとのようにいい、「青二才の自分に対する感嘆とも憐憫ともつかぬ感情」に今日もまた圧倒されるが、「それが単なる愚行とわかった今、この余生にはもう剣も要らず鉄亜鈴も要らない」と思う。それで月光が骨にひたひたと沁みてくるような場所を欲しいと思い、西伊豆に《宙に浮かんだ〈繭〉みたいな》塔をつくることを思いつく。「くすんだ茶色の煉瓦を積んだ高さ二十メートルほどの八角形の塔で、ガラス張りの頭部のほかに地上から三分の二ほど昇ったところに一つだけ窓があるが、それを除けば外面にはいっさい飾りというものがない」というものである。「外界に対して完璧に閉ざされた場所が欲しいのだ」というのが建築にさいし平岡が出した希望である。
またまた家?を建てる話である。ただ吉田の場合は、社交の場としての家、あるいは自分が生きる場としての家であったが、平岡の場合は孤立する場、一人でいる場としての塔であり、少なくとも第五章までは、平岡はほとんど独りである。S・・君とかG・・君とかT・・君とか三〇歳前後の若者が設計家、彫刻家、編集者として登場はするが、かれらはみな寡黙であり、余計な介入をしてこない。そうであるなら、この塔が想起させるのはたとえばラフォルグの「ハムレット」である。「この若い、不幸な王子が永住することに決めた塔の礎は、スンド海峡がその毎日の、非情な労役の結果集めた漂流物の中でも、最も始末し難いものを腐らせに送つて寄越す、或る淀んだ入江の水際に立つてゐる」(「ラフォルグ抄」吉田健一訳)であり、橋本治が「「三島由紀夫」とはないものだったのか」でえがく「塔の中に閉じ込められた王子さま」としての三島由紀夫の像である。ひとりぽっちなのである。そしてこの塔が建てられる場所が西伊豆であることになっているのは「天人五衰」で安永透が伊豆の海を三十倍の望遠鏡で見ていたからなのではないだろうか。安永透もまたひとりぽっちであった。
確かに第五章までは「年老いた三島は吉田になる」である。しかし人々が集って酒を酌み交わして清談するようなことはついぞおこらない。「年老いて吉田になった三島」は相変わらず一人である。だから第六章以下の反乱がおきる。しかしその前に第五章をみておかなくてはならない。
第五章「竹林まで」
平岡はいきなり「距離がある。/ いたるところに距離がある」などといいだす。「見るためには距離が必要なのだ」「俺は見たいのか、それとも離れたいのか」「明視と明察は俺の生きがいだった。何もかもを、俺は明瞭に合理的に見たかった。そのためには距離がいる。」 だが「そして明視と明察の合理主語義を、そしてそれに執着する自分自身を、俺は実は憎んていたのでははないか」と思う。「血は至高の密着」で「言葉は至高の距離」。
そんなことを考えながら、「ふとした衝動にかられて」平岡は住むひともすでになく廃屋と化している隣家に侵入していく。しかし、そこには一人の男がいて、首から上がない。それは死んだ三島なのであって、それと平岡は会話する。その首のない男に「君にはいつも距離があっただろう」という。「その距離に執着しつづけていただろう。自分と世界、自分と他人、自分と自分以外との間はいつも隔たっていて、それが一致したことなど一度もなかっただろう」ともいう。傍の飼い犬を指して「この犬にとっては距離はない」という。「こいつにとってはすべてが一致している。こいつは世界の『今』と『ここ』にいつでもぴったり身を寄り添わせながら生きている。自分がしたいことと自分のしていることとの間に、いささかのずれもない。わたしたちにはそういう簡単なことがどうしてもできなかった。あれはいったいなぜだったのかね」と問う。首のない男を「いつもいつも、隔たろうとしていただろう。距離を保って、誰からも、何からも侵されまいとして・・」とせめる。それに対して、首のない男は「数えきれない可能性のうちのたった一つだけに、しがみついて。それを必死に握り占めて、しかもそれをどこまでも繰り延べていこうとしている。俺に言わせりゃあ、そっちの方が畸形だよ。怪物だよ」と反論する。
平岡は考える。お座りをした犬の目が自分の目を真っ直ぐに見つめ返している。その時、静かな啓示がくる。まず音が来る。世界は音で満ちる。雨の音、風の音・・。次ににおいが来る。濡れた竹の葉のにおい、枯れ葉のにおい、土のにおい・・。最後に何とも言いようのない感覚、自分がそこにいるという感覚が来る。平岡は水に、空気にじかに触れていると感じる。「彼自身が世界の一部として在るのだった。彼が世界なのだった。」「そしてその世界にはただ現在が、「今」が、「ここ」があるだけだ」と平岡は感じる。
この部分、晩年の吉田健一の「時間」論、あるいはそれをふくめた思考を非常にうまく要約していると思う。しかし、首のない男の「数えきれない可能性のうちのたった一つだけに、しがみついて。それを必死に握り占めて、しかもそれをどこまでも繰り延べていこうとしている。俺に言わせりゃあ、そっちの方が畸形だよ。怪物だよ」という反論に平岡が答える前に啓示が来てしまう。首なし男の反論にも十分な根拠はあって、吉田晩年の旺盛なある意味では異常な執筆の嵐は「たった一つの可能性にしがみついて。それを必死に握り占めて、それをどこまでも繰り延べていこう」とする試みだった可能性は十分あるように思われる。吉田氏が主張したことはあまりに奇妙で思いがけないものであったため、吉田氏はそれを信じ続けるために書いて書いて書き続けて自己説得を続けるしかなかったのではないかというのは、考慮にいれなければならない可能性であると思われる。
ここで議論されていることは拡張していくと、ヴァレリー的で地中海的な理性主義と方向とD・H・ロレンス的な野蛮を志向する血の反=理性主義の方向の対立となって、このような中編小説であつかうことなど到底不可能な大問題となってしまう。そして、三島は徹底的にヴァレリー的合理主値の人でありかがら、理性のひとであることに飽いてしまった人なのであり、一方吉田はといえば、言葉に特別に感応する「詩」を何より愛する人でありながら、それにもかかわらず言葉で世界に今流れている時間を、犬が生きているようなずれのない世界を描こうという途方もない試みをしようとした人なのであった。吉田氏には詩というのがそういう時間とどこかで係るものと思えたのかもしれない。言葉を持つことによって他の動物とは異なってしまった人間という動物を、言葉によってもう一度人間以外の動物と同じ地平で戻そうという試み。文明とは人間が動物に戻ることなのであり、詩によってそれをおこなおうという逆説。吉田健一はヴァレリーでもないロレンスでもない第三の細い道を発見したと自分で思ったのであろう。
この「不可能」は小説であって哲学論文ではないのだから、その正否は問わず、とにかくも啓示として吉田健一の世界を提示してしまう。それには当然反論もあるだろう。すでに松浦氏中にのも納得しきれていないものが残る。だから反論の部分は残りの三章での「地獄めぐり」として提示される(正確には二つの章での「地獄めぐり」と奇妙な最終章であろうか?)。この最終章はミステリ読み物としてはとても面白いのだが、さてそれが全体とどのようにかかわるのが、よくわからない。出せない結論は無理には出さず、読み物としては結末をつけるためにやむなくとられたやり方なのかもしれない。
第六章以下の残りの三章は、それまでとはまったく異なった味のものとなっているので、稿をあらためて検討する。

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