今日入手した本

詩という仕事について (岩波文庫)

詩という仕事について (岩波文庫)

 偶然本屋でみつけた。最近岩波文庫におさめられたばかりらしい。ボルヘスの小説は一つも読んでいない。作り物という感じがしてだめなのである。小説が作り物であることは当たり前なのだが、その作り物にとりつくための何かが見えなくて、どこから接近していいのかがわからない感じである。わたくしにとって intimate な感じがしない。しかしこの講演を読むと実に穏やかな優しい感じの人である。
 この本を買ってみることにしたのは、最近イーグルトンの本を読んで「詩」についていろいろと考えているためである。まだ十分に読んだわけではないが、イーグルトンのものよりずっとわたくしには説得的である。最後のほうで「現代文学のいわば罪障の一つは、過剰な自意識であります」といっている。「フランスの作家は、何を書くのかはっきりする前に、まず自己の定義づけを行います。彼は言います。これこれの地方に生まれ、社会主義の気味もあるカトリック教徒は、果たして何を書くべきだろうか? あるいは第二次世界大戦を経た今日、われわれはいかなる書き方をすべきだろうか? 私の考えでは、こういう迷いのなかで仕事をしている者が世界中に大勢いるのです。」 本当にそうなのだと思う。それがイーグルトンの持つ問題点なのだと思う。イーグルトンがいっているのは、詩に選ばれている言葉がどのようなことを言おうとしているのかということばかりでなく、詩人がどのような形式を選び韻律を採用するかということにも、その詩人がおかれた社会状況などが表れているのであるから、詩をまるごと、意味だけでなく形式も韻律もふくめて享受するという行為は自ずから、その詩人がその社会にどのように対峙していたかを知ることになるのであり、したがって作品を精読してその詩のすべてを味わうことこそが文学理論の実践になるのだ、文学理論とは抽象的に頭のなかで作られるのではく、文学作品の深い享受から生まれるのだ、というようなことである。このような見方をするならば、たとえばボルヘスがこの講演で述べているような文学観をもっているということはとりもなおさず、おかれた社会状況へのボルヘスの姿勢を示しているというようなことになる。そうかもしれないが、そんなことをして何が面白いのだろうと思う。
 イーグルトンの「詩をどう読むか」にロバート・フロストという詩人の「雪の夜、森のそばに足をとめて」という詩がひろく愛読されている詩として紹介されている。わたくしは全然知らなくて、「ひろく愛読されている」というのもイーグルトンの修辞なのだと思っていたのだが、このボルヘスの講演でも、その詩がとりあげられている。「恐らく知られすぎた詩」などという微妙な言い方をされているが、いずれにしてもとても有名な詩らしい。そういう詩さえ知らない人間が、詩について論じた本を読んでなんだかんだと書いているのだから困ったものである。