T・イーグルトン「詩をどう読むか」(4)

     
 今まで書いてきたことは、いささかイーグルトンの説を色眼鏡をかけて見ているかもしれない。イーグルトンがいう個別の作に具体的に当たるをいう作業をみていこう。例として、フロストというひとの「冬の夜、森のそばに足をとめて」(Stopping by Woods on a Snowing Evening)という詩をみていく。とても有名な詩らしいがわたくしは知らなかった。以下のようなものである。

  Whose woods these are I think I know.
  His house is in the village though;
  He will not see me stopping here
  To watch his woods fill up with snow.
 
  My little horse must think it queer
  To stop without a farmhouse near
  Between the woods and frozen lake
  The darkest evening of the year.
 
  He gives his harness bells a shake
  To ask if there is some mistake.
  The only other sound’s the sweep
  Of easy wind and downy flake.
  
  The woods are lovely, dark and deep.
  But I have promises to keep,
  And miles to go before I sleep,
  And miles to go before I sleep.

 わたくしだってそれほど苦労しなくても意味がとれる程度の平易な英語である。またきわめて厳密な脚韻で書かれていることもすぐにわかる。aaba bbcb ccdc dddd。ここでイーグルトンがいうのは、この詩における内容の素朴や語の平易と厳格な形式との間の乖離あるいは齟齬ということである。書かれていることはきわめて平凡なことである。「自然」が描かれている詩にみえる。しかしその言語表現は「人工」の極致である。この脚韻はきわめて見てとりやすい。それはイーグルトンがいう「句またぎ」(一つの文が2行以上にわたること、たとえば最初の行は主語だけで、動詞は次の行ででるとかいったこと)が非常にすくなく、行それぞれで完結性が高いためである。
 最後の連は同一の脚韻でできている。したがって、最後の2行の意味とは裏腹に現在に止まるような停滞感がそこにはでてくる。この詩が示しているものは、前進しようとしながらそこに止まろうとするというような姿勢である。その停滞感はこの森の中での束の間の経験が一種の天啓であるかもしれないこと、一見しては何気ない田舎での経験にみえることが何かただならぬ大きな意味を持つできごとであるということを暗示している。これは詩であって日記ではない。詩を書くことは、何も意味のない素材から意味をつかみ出してくる行為なのかもしれない。 最後の2行の繰り返しは特により深い「形而上的」な意味を暗示している。はじめの And miles to go before I sleep は文字通りのものとわれわれは受け取る。しかし最後の And miles to go before I sleep にはもっと象徴的な何かがありそうに感じる。あるいはとイーグルトンはいう。フロスト自身も And miles to go before I sleep と最初に書いた時、そこにもっと深い意味が隠されているような気がして、もう一度それを繰り返したのかもしれない、と。詩とはもともと経験をそのまま書くのではなく、そこからより深い含意を引き出してくることを期待されているのかもしれない。だが、この詩はあえて形而上的意味、表面的ではないもっと深い意味については、それを暗示する程度にとどめて、深入りしていない。形而上のほうにいってしまうと、それまでの平易な自然描写とそぐわなくなってしまう。つまり日常的で実用的なものと非日常的で非実用的なものの衝突がこの詩ではあって、散文的な馬と謎めいた森がそれを象徴している。そしてフロストがもっと深い意味の方に行きかけるがそれ以上は深入りしないのは、現状維持という保守的なフロストの姿勢を示している。イーグルトンによれば、詩は否応なく社会への詩人の態度を表してしまうのである。
 イーグルトンもほのめかしているが、この詩での眠りは死を暗示するのかもしれない。その点に論をしぼっているのが、ボルヘスの「詩という仕事について」で、もっぱら最後の連を論じる。最初の And miles to go before I sleep は単なる事実の陳述であるという。長い道のりと眠りである。しかしそれが繰り返されると、長い時間と死を表すようになるのだと。空間から時間へ。そのような意味の転換を頭で理解するのではなく、全身で感じ取ること、それが詩を読む悦びなのであるという。
 ボルヘス的な見方によれば、イーグルトンの読み方はあまりに頭での理解、理屈や理論に偏した理解であって、そのように分析的に読んでいくと、われわれが詩を読むときに感じる悦びを取り逃がしてしまうことになる。一方、イーグルトンからみればボルヘスの見方は、あまりに無時間的であり、2千年前の詩も現代の詩もそれが詩であるという点では同格であるということになり、詩もそれぞれの詩人が生きている時代の状況の中から生まれてくるという点が抜け落ちてしまうことになる。
 問題は、われわれが詩を読むのはある時代状況について知るためなのかということである。もちろんそんなことはない。しかし、われわれがある詩をなぜ全身で深く享受できるのかということを理屈で理解しようという方向はあるのかもしれない。その理屈からいえば、わわれれがある詩を良いと感じる一つの要素として、それを書いた詩人の時代への態度というものもあるのかもしれない。
 おそらくイーグルトンに問題があるとすれば、それぞれの詩人がそれぞれの時代にどのような姿勢でのぞんだかということへの理解はきわめて説得的なのであるが、ある姿勢は望ましく、別の姿勢は望ましくないという価値観がそこに混入してくるため、素直な詩の享受がどこかで妨げられているように感じられる点にある。時代への姿勢という点ではイーグルトンのお眼鏡に叶う二流の詩人と、はなはだその姿勢が気に入らない一流の詩人がいたとして、それへの評価がどうなるのだろうか? もっとも素直な詩の享受などというものはそもそもないという立場もあるし、時代への姿勢が間違っていれば一流の詩人にはなれないという立場もある。さらには一流とか二流とかをわけることができるということ自体に反対の立場もあるであろう。
 しかし、とにかくも、まず出発点はある詩を読むということである。そこで読み手が動かされるということがなければ何をはじまらない。それだけは確かである。
 

詩をどう読むか

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詩という仕事について (岩波文庫)

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