須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」in 「須賀敦子全集1」
須賀氏の経歴をネットなどで見ると、1929年の生まれで、そうだとすると終戦時には16歳である。聖心女子大で学んだ後、慶應義塾大の修士課程に進学するが、中退して、フランスの神学に関心をもちパリ大学に留学するが、パリの雰囲気に合わず、イタリアに惹かれるようになる。1954年(25歳)の夏休みにペルージャでイタリア語を学ぶ。26歳の時に一旦日本に戻るが、29歳の時に奨学金を得てローマに渡る。この頃からミラノのコルシア書店関係の人脈に接するようになる。1960年(31歳)、後に夫となるジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と知り合う。61年11月に結婚。ミラノに住み、日本文学のイタリア語訳に取り組む。しかし1967年(38歳)にペッピーノが急逝し、1971年、42歳で日本に帰国する。帰国後は50歳くらいまで種々の大学で語学の非常勤講師を務める。1979年に上智大学専任講師、1985年56歳で日本オリベッティ社の広報誌にてイタリア経験を題材としたエッセイを執筆開始。以降はエッセイストとしても知られる。1997年に卵巣腫瘍の手術。98年3月死去。といようなものである。
なんでこんなことを書いているのかというと、全集第4巻の解説で中井久夫氏が「阪神間の文化と須賀敦子」という題で、主として阪神の文化と東京の文化ということを論じているのだが、須賀氏が戦前の教育制度の終末期の世代であることを指摘し、その世代にとっては、女子大が最高学府であり、そこを卒業した後は、結婚以外の選択肢はとても少なったとしていたからである。わずかに残されたものとしては、留学、あるいは例外的に女性を受け入れる大学に入るか、修道院に入るかくらいであろうか、と。須賀氏はフランス留学前にカトリックの洗礼を受けているらしいから、修道院にこそ入っていないものの、ほぼこの残されたわずかな道のすべてをたどろうとした、要するに、女性としての当時の普通の生き方を拒否すること道を選んだひとだということを、中井氏に指摘されてはじめて気がつき、それであらためてその経歴を見てみたわけである。
おそらく須賀氏に普通の生き方を拒否させたものは氏のカトリック信仰なのだが、須賀氏の本をわたくしのようなものでも読めるのは、その信仰が生のかたちでは文章の中に一切でてこないことが大きい。曾野綾子氏の書くものが苦手なのは、その文の中に信仰者の優越意識のようなものが感じられるからである。須賀氏の場合は信仰の問題はもっと一般的な60年代から70年代にかけての政治の季節におけるカトリック教会内部における世俗へのかかわりという問題としてでてきている。この文脈であれば、60年代世界の問題はわたくしにとっても他人事ではなかったし、多くの日本の読者にとっても、自分の問題として読めるということがあったのではないかと思う。そして須賀氏が自分のイタリア体験を文章として書くようになったのは1985年からであり、それは1968年を頂点とする世界の政治の季節がもはや過去のものとなり、須賀氏がかかわったカトリック左派の運動も挫折した後なのである。
池澤夏樹氏は第一巻の解説で、須賀氏の書いたものは多くが衰退の物語であったと指摘している。かつて若く熱気にあふれていたものたちが衰え敗北していく物語という構図なのだ、と。須賀氏自身も書いている。30年たってみると「書店の運命に一喜一憂した当時の空気が、まるで『ごっこ』のなかのとるにたりない出来事のように思えるのだけれど・・」。この「けれど」が大事なのである。運動のさなかに使命感に燃えて書いた文章であれば読めたものではない。運動が終わったあとに、なんてくだらないことをしていたのだと思って書いた文章もまた読めたものではない。運動が敗退したあとで、決して自己陶酔することなしに冷静に、しかしその当時の熱さというものもそれはそれとして意味のあったものとして、その一番大事な部分を、「やわらかで、しかも凛とした文体」(中井久夫「時のしずく」)で書き残す。
「コルシア書店の仲間たち」はそのカトリック左派の拠点となった書店について一番直接に語ったものである。と同時に本書はヨーロッパに厳然として残っている貴族社会というものについてのすぐれた分析ともなっている。日本という国の特徴の一つが上流階級がいないということであると思うけれども、ヨーロッパには確実に貴族という上流階級がいる。そして貴族を中心とした社交というものがある。日本では公家は土地から切り離され、土地に一所懸命執着した武士は公家の文化に劣等感を持ち続けた。そのことによって、土地に根づいた文化というものが日本ではきわめて希薄である。そのつけがこれからどんどんと表にでてくるのではないだろうか?
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