D・ヒューム「懐疑派」in「道徳・政治・文学論集」

   名古屋大学出版会 2011年7月
   
 ヒュームのエッセイ集としての既刊の「市民の国について」には訳出されていない論文として、まず「懐疑派」を読んでみた。訳文で今一つ論旨がわかりにくと思われた部分については Oxford World Classics の 「David Hume Sellected Essays」のなかの「The Sceptic」とそれに付されたS.Copley とA.Edgar の解説も参照した。
 
 哲学者たちが彼らが発見したと称する原理をそれがあまりに広くに適応できると主張していることについて自分は疑問をもってきた、とヒュームはいう。あらゆるひとはそれぞれの心の傾向を持つ。その心の傾向がその人の欲望と感情をきめる。彼らは自分に関心があることであっても、他人はそれには関心を持たないかもしれないとは考えない。彼らがあることに関心を持つのはかれらが持つ心の傾向からなのだが、その傾向は他の人もすべて持っていると決め込んでしまう。しかし、ある人の快は別の人の不快であることがあるばかりでなく、ある一人のひとの生涯でも、あるときに関心があったことが後にはどうでもよくなってしまったりすることはよくあることである。
 ある目的を達するためであれば、常識と世間の一般的な格率を知れば充分である。しかしどのような欲望や欲求を持つべきであるか、それを教えてくれるのが哲学であると考えられている。
 だが、それ自体で望ましいものとか価値あるものあるいは美しいものなどというのは存在しない。それは人間の感情と情動から生じる特定の気質が決めるのである。ある動物には好ましい食物が別の動物には嫌悪の対象である。恋する者が恋人をいくら称賛しても別の人間にはどうでもいいひとにしか見えない。親は自分の子どもをかわいいというが他人にはひ弱なとるにたらない存在にすぎない。
 だからある対象が望ましいとか否定すべきとかいう議論は、対象について論じているのではなく、それをいっているひとの精神の側の感情について語っているのである。
 推論において、精神は論じる対象に何かを付け加えることはない。真偽は人間の感情によって変わることはない。われわれが地球のまわりを太陽がまわっていると議論しても、それにより太陽が動きだすことはない。その位置は議論によって変わることはない。
 しかし「美と醜、好ましいと醜悪な」ではどうだろうか? それをきめるのは対象ではなく、論じる側の感情である。円が美しいということはない。それが精神に生み出す結果が美となるのである。美を図の属性の中に求めることはできない。
 何かある事態が他よりも好ましいということはない。良し悪しは人間の感情と愛情によって決まる。そして感情や愛情を哲学や学問で変えることはできない。
 
 りんごの中に甘さはなく、リンゴを甘いと感じるのはわれわれの側の問題である、というような議論は大部分のひとにとってはどうでもいいことであり、「りんごは甘い!」ですんでしまう。しかしリンゴの甘さはその糖分含有によるとするのもまた常識的見解であるかもしれなくて、確か糖度計などというものもあったような気がする。だから甘さはリンゴのほうにあると普通は考えられているのかもしれない。とすればここでヒュームが展開している議論は常識に逆らうものであるのかもしれないので、だからこそ哲学者はつまらぬことを大事そうに議論する変人と思われている。
 この辺りは最近は進化論から説明されることが多いのかもしれない。われわれの生き残りに利するするものをわれわれは快と感じるのであるという方向である。甘さ=快であるとすると、快は相互関係が規定する。例外はあるかもしれないが、われわれは蛇のようなぬるぬるしたものを嫌い、パンダのようなむくむくしたものを好む。そのような性向をもたないものは生き残れなかった。
 むかし動物行動学の本を読んでいて、笑顔というのが文化的なものではなく生得的なものであるとあってびっくりしたことがある。生まれた後にいろいろな表情をしてみて、周りが喜ぶから笑顔というものが歓迎されると学ぶということはなく、笑顔というのは生得的に人間に(動物に?)組み込まれていて、ある種の感情は笑顔を意思と関係なくつくってしまうらしい。好ましいかどうかを決めるのは対象ではなく、主体の側の何かであるというのがヒュームの論であるが、進化生物学であれば、それを決めるのはわれわれの進化の歴史であるというであろう。
 問題は真偽あるいは法則である。本論でヒュームはプトレマイオスの体系とコペルニクスの体系を検討しようとするなら、それぞれの惑星の位置を観察するといっている。あるひとが自分の感情によってプトレマイオスの体系をえらんだりコペルニクスの体系をえらぶというようなことはないということである。
 わたくしはポパーを通して間接的にヒュームを知った人間なので、ここの議論では少し面喰った。ポパーが「客観的知識」の中の「推論的知識:帰納の問題に対する私の解決」で紹介しているヒュームの議論は以下のようなものである。ヒュームの論理的問題:われわれがかつて経験したことのある反復的諸事例から、いまだ経験したことのない他の諸事例(結論)を推測することを、われわれは正当化しうるか。ヒュームの答え:否。ヒュームの心理学的問題:それにもかかわらず、道理をわきまえたすべての人たちが、彼らのいまだかつて経験したことのない諸事例は彼らがかつて経験した諸事例に一致するであろうと期待し、信じるのはなぜであるか。ヒュームの答え:習性または習慣によって。つまり反復によって、また諸観念の連合のメカニズム(それなしにはわれわれが生きのこりえなかったとヒュームがいうメカニズム)によって条件づけられているから。
 プトレマイオスの体系とコペルニクスの体系を惑星の位置を測定することによって比較できるとする立場は、有限の観察によって真偽を決定できるという立場であるように、わたしには読めてしまう。また、「反復によって、また諸観念の連合のメカニズム(それなしにはわれわれが生きのこりえなかったとヒュームがいうメカニズム)によって条件づけられている」というのは、わたくしにはわれわれは進化の過程によって条件づけられているということと同じであるように読めてしまう。
 ポパーがこの論文で引用しているラッセルの「西洋哲学史」のヒュームの部分の議論「もしもヒュームの論が正しいのであれば、個別的なさまざまな観察から一般的な科学的法則に達しようとするすべての試みは誤りであることになり、ヒュームの懐疑論は経験主義者にとって不可避となってしまう」というのも、ヒュームは観察によって一般法則を正当化することはできないとしたとしている。ここでヒュームがいっていることは、真偽の議論に関しては感情はかかわらないというだけのことであって、真偽を観察から決め得るということはできないということなのであろうか?
 

ヒューム 道徳・政治・文学論集[完訳版]

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客観的知識―進化論的アプローチ

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