D・ヒューム「懐疑派」in「道徳・政治・文学論集」(2)

   
 前のエントリーで述べたように、わたくしはポパーを通して間接的にヒュームを知った人間なので、「プトレマイオスの体系とコペルニクスの体系を惑星の位置を測定することによってその説の優劣を比較できる」とする立場は、有限の観察によって真偽を決定できるという立場であるように、わたしには読めたので、大いに面喰った。
 そこでポパーの「推測的知識:帰納の問題に対する私の解決」を読み直してみた。この論文でポパーがL1として示している「ヒュームの帰納の論理的問題」のポパーによる定式化は次のようなものである。《ある説明的普遍理論が真であるという主張を「経験的理由」によって、つまりある種のテスト言明(これは経験にもとづいて」いるということができる)が真だと仮定することによって、正当化しうるか。》 ポパーはこれはヒュームの提示した問題を客観的話法に翻訳する企てであるといっている。翻訳の過程で生じる唯一の違いは《ヒュームがわれわれの経験していない未来の(単称的)諸事実について−つまり未来の期待について−語っているのに対し、L1が普遍法則または理論について語っていることである》としている。その変更をした理由として、1)「諸事実」は普遍法則に相関的である。2)ある「事例」から他の事例を導き出すわれわれの通常の推理方法は、普遍理論の助けを借りる。3)自分は(ラッセルと同様に)帰納の問題を普遍法則または科学の理論と結びつけようとする、という3つを挙げている。しかし、ヒュームがいう「われわれの経験していない未来の(単称的)諸事実について−つまり未来の期待」ということでいっているのは、100年間大地震がなかったので、101年目もないだろうというような議論についていっているのであって、普遍法則について議論しているのではないように思う。むしろ普遍法則についてはヒュームは信じているように思える。それであるのに、唯一の違いなどという言い方で、あるいは些細な変更とか客観的話法への変更などという言い方で、ヒュームの論を強引に自説の都合のいいように曲げて紹介するポパーのやり方は大いに問題であると感じた。
 どこにであったか覚えていないが、ポパーがカントについて論じているところで、カント哲学というのは、1)ヒュームの議論はどう考えても正しい。それならばわれわれは永遠に真理には至れないはずである。2)しかし、ニュートンは「真理」を発見した。この二つをいかにして折り合わせるかについての試みであったというようなことを言っていて、そこからもヒュームは普遍法則について否定的であると思っていた。やはり原著を読まずに他人の紹介でわかったような気になるというのはいけないのだなということを強く感じた。
 それで恥ずかしながら、本棚の肥やしになっていた「人性論」をとりだしてきて少し読みだしていて(「人性論」という訳名はもう定着してしまっているのだとは思うが、原題は「A Treatise of Human Nature」で「人間の本性についての試論」とでもした方がいいのではないだろうか? 「人性」という語は日本語として定着していないだろうと思う)、いま第一篇第第二部第4・5節あたりの数学についての煩瑣な議論の辺りを読んでいるのだが、抄訳である「世界の名著」の「ロック・ヒューム」での「人性論」ではその辺りはきれいに省略されている。なんだかユークリッド幾何学の平行線定理の問題とか無限大とかに関係する問題を論じているのかなと思うが、われわれは中学くらいで微分とかなめらかな曲線の接線などで何となく無限ということをわかったような気になって受け入れてしまう。しかし、ヒュームのようなあらゆることを疑うひとは、絶対にそういうことを許さないわけである。ヒュームは微積分学をどのようにみていたのだろうか? ヒュームがいま生きていたら、量子力学の問題についてどのような見方をすることになるだろうか? ヒュームにとっては、科学法則は(ポパーのいうように)独断論の範疇に入るものだったのだろうか?
 

ヒューム 道徳・政治・文学論集[完訳版]

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客観的知識―進化論的アプローチ

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人性論〈1〉―第1篇 知性に就いて〈上〉 (岩波文庫)

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世界の名著 (32)ロック ヒューム(中公バックス)

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