D・ヒューム「懐疑派」in「道徳・政治・文学論集」(3)

   
 中央公論社「世界の名著32・ロック・ヒューム」の巻頭にある「イギリス経験論と近代思想」という解説で、大槻春彦氏がヒュームについて書いていることにいろいろと教えられた。
 ヒュームは数学が苦手だったのだそうである。「人性論」で数学者や幾何学者にいろいろと啖呵をきっているところがあって、よっぽど数学も得意なのだろうと思っていた。はったりなのだろうか?
 ヒュームの導きの糸となったのはニュートンの自然学とロックの哲学なのだそうであるが、ニュートンについては数学が苦手だったので、そこから学んだのは、物理的自然に接する経験的実証的態度だけであったのだそうである。「人性論」の副題に「精神上の問題に実験的推論方法を導き入れる試み」とあるのはニュートンの方法を意識してのことなのだそうである。
 そうするとヒュームの懐疑的立場というのはニュートンの物理法則を懐疑する方には向うものではなかったのだろうか? ポパーはヒュームの懐疑論によって人間が「真理」に至ることはありえないことが明らかにされたにもかかわらず、ニュートンが「真理を発見した」ことの不思議が、カントの哲学を生んだというようなことをいっていた。
 ヒュームが論じたのは因果律であると思うのだが、物理法則というのは因果律なのだろうか? つまり「万有引力の法則」というのは観察から生じたものなのだろうか? 大槻氏によれば、ヒュームは自分の連合原理をニュートンの引力になぞらえたのだそうである。
 また、「限界と可謬性の自覚を踏まえて自立する人間」というロックの人間像をヒュームもまた受け継いでいると大槻氏はいう。ヒュームが自分の哲学を懐疑論としたのは、ヒュームの最大の皮肉であると大槻氏はいう。過去の哲学のほとんどが理知に過大な機能を与へてきたし、ヒュームの同時代の哲学者もまたそうであった。それへの批評として、自分の哲学を懐疑論と呼んだのだが、ヒュームは決して全面的懐疑論者ではなく、何よりも経験的事実の日常的世界をそのまま承認するひとであったという。
 大槻氏によれば、ヒュームは理知の演繹的論証は絶対に正しいとし、またそれによって得られた知識は真知であることを是認した(数学は「真知」である。幾何学はどこかで事実と接するので、やや問題はあるが)。それに対して、疑わしいとされるのは事実に関する知識なのである。観念の関係は真知の領域だが、事実の領域では真知は達成できないとした。
 とすれば、ヒュームの懐疑論は「適度な懐疑論」なのである、という。ヒュームの懐疑論には「否定的で破壊的な面」と「肯定的で建設的」な面があり、前者によって「理知の越権」を厳しく戒めるが、理知が及ばない点があるのではあっても、その部分は理知以外の機能によって建設的に対応する方向を探らなければならないのだとしたという。
 自我を「知覚の束」とするようなヒュームの一見極端にみえる懐疑論は、理知の越権によって成立している合理論哲学を壊して自らの哲学を構築するための足場であり、準備作業であって、それ自体を目的としてのではなかったのだ、と。
 懐疑論の極北の立場にたつならば、道徳や政治について何かを論じる動機さえ生じてこないと思う。ヒュームによれば、普通の慎重さと思慮分別によって知りえること、常識と世間の一般的格率によって、生きるうえでのほとんどのことは対応できる。
 ポパーの「推測的知識」で、ラッセルの「西洋哲学史」のヒュームの項を引用し、もしもヒュームのいうことを論駁できないならば(そしてラッセルはどうもそう思っているようなのだが)、「正気と狂気のあいだにはいかなる知的相違もないことになり、自分がユデ卵である信じる狂人もただ少数派であるというだけのことになる」といっているのをとりあげ、ヒュームを論駁できないのなら確かにその通りなのだが、自分が「反証可能性」論で「帰納の問題」を解決したから、もう大丈夫というようなことを主張している。ラッセルもポパーもともにヒュームを極端な懐疑論者、懐疑論の行きつく先を見たひととしているのである。ともに「哲学者」なのだなあ、と思う。「自分がユデ卵であると信じる」人間をどう判断するかということについては「常識」さえあればいいのであって、帰納の問題だとか因果律などという難しい話を持ち出すことはないはずである。
 ヒュームは「お人好しのデイヴィッド」であり、歴史上高名な哲学者の中でももっとも人格円満なひとであったようであるが、ラッセルは優れた哲学者ではあったかも知れないが生活歴をみればきわめて「非常識」なひとであったようであるし、ポパーもなかなかのひとであったようである。
 ポパーの「客観的知識」の中でのこのヒュームの帰納の話を読んだのと、吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」でのヒュームを論じた部分を読んだのがどちらが先であったのかはもう思い出せないが、その像があまりに違うことに面喰った記憶がある。吉田氏によれば、「日本で哲学は文学と違った何かさういふ一種の特殊な学問であることになつてゐる。それ故にヒュウムなど問題にならないのであるが、もしそれがさういふものならばこれはカントが言つた形而上学であつてそのやうなものに人間離れした興味を持たないものには意味をなさない。併しもし哲学に一般の人間にとつて取り上げるに足るものがあるならばそれはそこに一人の人間がゐてものを考へ、その結果が他の人間に言葉で伝へられる時で、当然のことながらその考へが明確であるといふことはそれが名文の形を取るといふことと同一であり、かうして哲学は文学の列に加る。ヒュウムはさういふ哲学者の一人である」ということになる。ある人間がこう考えたということはいえても、それが正しいかどうかというようなことを思い煩うのは形而上学などというものに興味を持つ人間離れした人間だけなのである。人間離れしたのでは意味がないので、ヒュームは形而上学に取り組んだが、それにもかかわらず終始人間であることをやめなかったということが大事なのである。
 吉田氏から見れば、ラッセルもポパー形而上学に人間離れして入れ込んでいる変な人ということになるのだが、それではヒュームの形而上学はといえば、吉田氏によれば、「人間が全力を挙げて所謂、哲学的な問題を扱ふ時にそれがその精神の全力であつて欺瞞も回避もない為にその成果が無に終ることを示してゐる点でヒュウムの悟性論その他は水際立ち」ということになる。成果は無なのである。そして有名な(のだろうか)「人性論」の第一篇・第四部・第七節が引用される。ここではストレイチーの「てのひらの肖像画」の「ヒューム」の部分の引用の中野康司氏の訳を用いる。「人間の理性のこうしたさまざまな矛盾と不完全さを目の当たりにすると、私は動揺し、頭が混乱し、自分のすべての信念と推論を放棄したくなる。自分の考えが人の考えよりましだと思えなくなってしまう。私はどこにいるのだろう? 私は何者だろう? 私の存在はいかなる原因から生じ、いかなる状態へ戻るのだろう? 私は誰の好意を求め、誰の怒りを恐れねばならないのだろう? どんな存在が私を取り巻き、私は誰に影響を与え、誰が私に影響を与えているのだろう? 私はこうしたすべての問題に当惑し、自分は世界一みじめな人間であり、暗黒の闇に囲まれて、手足も五官もすべての機能を奪われた人間みたいに思えてくる。」
 最初に吉田氏の本でここの部分を読んで、確かに哲学書としては変なことが書いてあるなあ、と思った。吉田氏によれば、ヒュームは(あるいは一般的に十八世紀のヨーロッパ人は)炉に燃えている火やその前に手を翳して受ける温かいという感覚が実在するものかどうか解らないままに冬は炉の火を楽しみ、旨いものを食べることを好み、友達との付き合いで心を温められたのである、ということになる。ヒュームの哲学によれば、外部に事物が実在し、それからわれわれがある種の感覚をえるということの確実性を保証するものはないのであるが、だからといって、炉に燃えている火の温かさを受け入れるにはただ常識があればいいのである。それで、吉田氏の話は友達との付き合いから、社交あるいはサロンという方向にいってしまう。
 比較的最近、ストレイチーの「てのひらの肖像画」を読む機会があり、「ヨオロツパの世紀末」のエピソードの多くがストレイチーに負っていることがわかったが、ストレイチーの描くヒューム像も明らかに文明人あるいは社交人としてのヒュームである。
 次にヒュームについてある程度まとまった文章を読んだのは、渡部昇一氏の「新常識主義のすすめ」に収められた「不確実性時代の哲学」であったが、これは independent な人間としてのヒューム、英語の散文の完成者としてヒュームの論であると同時にハイエクの先駆者としてのヒュームを論じている。ハイエクによればヒュームが否定した合理主義は「構成的主知主義」とでも呼ぶべきもので、人間の知性によって国家を意のままに作り変えることができるという考えである。しかし人知に限界によって、そのようなことはありえないとヒュームは考えた、ということから渡部氏は市場の肯定という方向に議論を進める。つまりシカゴ学派の先駆者としてのヒュームである。
 竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」でのヒュームもまたシカゴ学派的なヒュームである。つまり「懐疑派」というのは「人知の限界」を知るひとであり、人間は公人としてよりも私人としてのほうがより正直であると考えるひととしてのヒュームである。
 自分をユデ卵であると信じるひととシカゴ学派ではあまりに方向が違う。また社交の世界と市場原理主義もあまりに違う世界である。
 一番最近ヒュームについて読んだのはドゥルーズの「無人島 1969‐1974」に収められた「ヒューム」であるが、これはドゥルーズとは思えない平易な文で書かれてはいるにもかかわらず、いわんとするところがよくわからなかった。「近代懐疑論の第一の法令は、認識の基底に信念を発見すること」であるとか、「ユーモア対イロニー、ヒュームの近代懐疑論の美徳対ソクラテスプラトンの古代独断論の美徳」というようなのは何となくわかるような気もするのだが。ラッセルもポパーもユーモアの感覚にどこか乏しいところがあるひとだったのではないだろうか?
 ヒュームという人は見る人によって実にさまざまな見え方をする人のようである。
 

ヒューム 道徳・政治・文学論集[完訳版]

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世界の名著 (32)ロック ヒューム(中公バックス)

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客観的知識―進化論的アプローチ

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ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

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てのひらの肖像画

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経済思想の巨人たち (新潮選書)

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無人島 1969-1974

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