J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(2)

 
 科学についての見方には対決の長い歴史がある。プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」といった。これは社会構成主義につながる相対主義のスタートである。一方、プラトンはそのような相対主義への対決を自己の課題とした。
 科学革命の成功をみて、啓蒙主義は「進歩」と「合理主義」を旗印とした。(「自然とその法則は、夜の闇に隠れていた。/ 神は言われた。ニュートンあれと。するとすべては明るくなった。」(ポープ) 真理はどこかに隠れていて、人間がそれを発見していく。)
 その反動がロマン主義である。(「哲学が天使の翼を切りとる」(キーツ)) 科学はこの世の魅惑的な謎を無味乾燥なものにしてしまうというわけである。
 さて最新のサイエンス・ウォーズの何が新しいか? 政治がからんでいることである。以前にも政治はからんでいなかったか? 左派の分裂ということが新しい。左派のなかで科学への見方が分裂したのである。
 かつてのC・P・スノーの「二つの文化と科学革命」では、文系知識人が右で科学者が左派の側にいるとされた。しかし最近では科学に批判的なひとが「アカデミック左派」といわれ、むしろ右派のほうが親科学的とされている。(「誰が支配すべきか?」というのは大袈裟な言い方で本当は「誰の意見をきくべきか?」なのであろうが、本書ではパンチを効かせて「誰が支配するべきか」という表現を用いることにする。)
 ソーカルの事件の最大の意義というのは、左派の中で大きな顔をしていた「反=科学」陣営をへこませ、「親=科学」の左派に息づく余地をあたえたことである、と著者はいう。ソーカルは科学を政治的な問題から引き離そうとしたのではないのだ、と。そして著者は、この戦いでどちらが勝利をおさめるかで、これからどのような社会構造をつくるべきかという方向性が変わってくるのだという。本当にそうなのだろうか? この「サイエンス・ウォーズ」はそんなに大きな出来事なのだろうか? 科学に関心をもつ人文学者の間のコップの中の嵐だったのではないだろうか?
 それはさておいて、この本のテーマは「優れた科学と社会正義は結びついている」ということなのだそうである。「サイエンス・ウォーズ」は多岐にわたる戦線でたたかわれているが、「科学と主教右派」「科学と環境運動」「科学の営利化」の問題は本書では大きくはとりあげない。科学の「客観性」「価値」「社会的要因」の問題をとりあげる。それが解決できれば後の問題には自ずから道が開けてくるという。
 著者は、科学についてどのような観点に立つかによって研究の進め方には影響がでるが、事実それ自体を変えることはないという。これは明白に社会構成主義に反対の立場である。
 さて1959年に出版されたC・P・スノーの「二つの文化と科学革命」である。それによれば、理系知識人はディケンズもろくに読んでいないし、文系知識人は熱力学の第二法則もちんぷんかんぷんである。そしてわれわれの生活がよくなってきたのは科学の力によるにのであるにもかかわらず、それに敵対的である文系知識人は進歩に敵対的であるので罪が重いとされている。それに怒ったある文系の知識人は「ディケンズを読んだり、モツアルトを聴いたり、ティシャンを見たりすることはそれ自体で価値あることだが、加速という言葉の意味を知ったところで事実について一つ知るというだけで、それ自体には価値がない」といったのだそうである。「ああ!」と著者はいう。「この人は事実と概念や法則の区別もついていない!」
 しかしそれはそれとして、現代の「サイエンス・ウォーズ」の争点は、科学が文化として重要であるかどうかではなく、「科学は客観的なのか?」という問題なのであり、「科学は事実という面白くもないことを扱っている」というような観点ではなく、「科学も一つの文化であって、他の文化と同様にそれぞれの立場によってそれへの見方がことなるものだから、事実をあつかうものではない」という見解についての争いなのである、というのが著者の立場である。そして現代の科学は強者であって、文系知識人は強大な科学技術文化に包囲されていると感じている、ということも指摘している。
 そこから「ソーカル事件」の詳しい紹介にはいるのだが、それは既知のものとして省略する。ソーカルが擁護しようとしたのは「世界が存在し、そのなかに物質とプロセスと性質が存在し、それは、わたしたち自身や、わたしたちがそれをどうとらえるかとは無関係に存在している。それらにたいするわたしたちの記述は、偽または真である(少なくとも近似的には)。もちろん、真偽が永遠にわからないこともあるが。」 これを著者は「常識的な実在論」であるというが、わたくしにはポパーの科学観そのものであるように思えた。ポパーが科学哲学者のなかで例外的に科学者に人気があるのは、その論の根底が「外部に本当にモノが存在するか」といった(科学者にとっては)馬鹿馬鹿しい議論を一蹴している点にあるのではないかと思う。科学活動の営為の本当の姿ということについてはポパーよりクーンの論のほうが真実を示していると思うが、クーンの論を読んでいると宇宙をどうみるかということについてはそれぞれの科学者が属しているパラダイムに依存するのであるから、真の宇宙といったものは存在しないという方向、つまり外部の物質が事実として存在するという方向を否定しているように読めてしまう部分がある。つまり相対主義の側である。とすれば、客観性の擁護という著者の立場からいうと、著者はポパーの側のひとであると思えてしまう。
 さて著者がポストモダンの論者たちの相対主義や非合理主義やずさんな議論に反対するのは、それらが「進歩主義的な政治目標の基礎をゆるがす」と考えるからなのである。相対主義が(事実として?)間違っているからではなく、ある目標の達成にとって有害であるからなのである。だがこういう議論は相対主義なのではないだろうか? だがポパー相対主義が大嫌いなのであるから、著者の立ち位置はどうなっているのだろう?
 ポストモダンの側のひとがああいうわけのわからないことを延々と書いているのも政治的な目標があってのことなのだろうと思う。あるいは政治的というは変であれば政治への絶望もっといえば政治をふくむ西洋の20世紀までのありかたへの絶望である。だからそれは全面的に否定されなくてはならなくて、科学だけは許すなどということはありえないのである。その割にはその論文の中で科学的な装いをこらすのがよくわからないし、そんなことをするからソーカルにおちょくられるのであるが、(おそらく)不完全性定理とか不確定原理とか量子論のわけのわからないありかたとかが、それ自体で西洋を20世紀まで導いてきた論理を内側から破壊するものであると思っていて、自分の論もまた、その破壊に一役買おうとしているのであるということをいいたくて、自分でも理解できていない最新科学の論文の知識を披露することで自分の立場を声明しているような気になるのではないだろうか? 「格差是正」などといっている輩はまだ絶望が足りなくて、「格差是正」などは、根源的に否定されなくてはならない「近代西欧」の延命に手を貸す利敵行為ということになってしまうのではないかと思う(かつて社会主義協会といったものが全盛のころには改良主義というのが何よりも嫌悪されたものだった。それは敵の延命に手を貸す行為であるというのである)。
 ポストモダンの人たちが変であるのは「西欧近代」の否定を自己の課題としながらも、自分が西欧思想の嫡流であるという自負をもっている点で、だからポストモダンの側がソーカルを反フランスとか反ヨーロッパといって非難するというような変なことがおきる。
 著者によれば、カール・マルクスは「下部構造が上部構造を規定する」とした点で社会構成主義者であるが、同時に客観的知識は可能であるとも思っていた実在論者でもあった。またフーコーは「知は権力である」とした。
 さて著者によれば、正統的科学観に賛成・反対、政治的に右派と左派によって4つの区分ができあがる。
 1)正統的科学観に賛成・政治的に左派:ソーカルチョムスキー・グールド
 2)正統的科学観の賛成・政治的に右派:(一部の)社会生物主義者・人種研究者
 3)正統的科学観に反対・政治的に左派:社会構成主義者・ポストモダニストの一部
 4)正統的科学観に反対・政治的に右派:宗教的保守主義者・反ダーウイン論者
 そうするとたとえばピンカーとかデネットとかドーキンスとかハンフリーとかはどこに入るのだろうか? 2)なのだろうか? イーグルトンなどはどこに? 1)なのだろうか? 自分はどこになるのだろうと思うと、2)なんだろうなあと思う。ピンカーとかデネットの本に一番説得される(しつこい書き手だとは思うけれど)。ドーキンスは何だか宗教原理主義者のネガみたいな気がして気持ちが悪い。それにくらべるとS・J・グールドのほうにずっと親近感を感じる(しかし、グールドは正統的科学の枠内の人とは思えない)。イーグルトンも面白い。ドーキンスなどよりもずっと近しく感じる。ポストモダンのひとの書いているものはさっぱり理解できないけれども、それでも何かはあるのではないかと思っている。ポジとしては駄目だけれどもネガとしては何かがあるのではないかと感じる。ポストモダンが否定する「モダン」とは西欧19世紀から20世紀であって、吉田健一が「ヨオロツパの世紀末」で否定した俗悪な19世紀ヨーロッパという像とどこかで重なるのではないかと思っている(全然、見当違いかもしれないけれども)。
 そうしてみるとわたくしが苦手なのは、4)の宗教原理主義みたいなものだけで、2)を中心に1)から3)にまたがるという鵺的な立場なのかもしれない。著者は明らかに1)の立場なのだけれども、あまりに1)の立場からいわれると、2)や3)にも見所はないことはないんだぜという議論がしたくなってしまう。
 以上で「はじめに」と「第一章 サイエンス・ウォーズの情景」までを終える。次の「第二章 科学者の経験は理解されているか」「第三章 科学哲学は何を問題にしてきたのか」「第四章 社会構成主義ニヒリズム派とポストモダン」は本書でわたくしには一番面白かった科学哲学を論じた部分なので、稿をあらためる。
 

なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

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二つの文化と科学革命

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「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

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