J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(4)
前に続いて、科学哲学にかんする議論の、A)論理実証主義、B)ポパー、に続く、C)クーンである。
C)クーン:著者によれば、クーンが「科学革命の構造」でいおうとしたのは、科学が実際にはどのようにおこなわれているかということであったという。今まで哲学者たちは科学がどうおこなわれるべきかばかりを論じていた。それで、1)科学の歴史が累積的であるとする立場を否定し、2)科学の歴史は批判精神に満ちているとするポパーの見解にそれは科学に営為の実態にそぐわないものとして、異をとなえたのだという。
1)の科学の歴史は累積的ではなく革命的という点についてはポパーと見解を同じくしたというのであるが、「ポパーの科学」は革命的でありながら累積的、「クーンの科学」はほとんどの場合では累積的であるが稀に革命的なのである。ポパーにおける「大胆な予測」がうまくいった場合には、その結果はそれまでの定説を凌駕する。だから、つねに科学は進歩して(真理に近づいて)いく。クーンは大部分の科学の活動は「パラダイム」の内部における「通常科学」としての「パズル解き」であるとした。革命などはめったにおきないということである。
そこで「観察の理論負荷性」が問題となる。これはポパーのいう「バケツ理論」と「サーチライト理論」と同じことなのだと思うけれども、要するに「われわれは何かを見る」のであって「われわれに何かが見える」のではないということである。これはポパーの場合は「帰納の否定」と関係している。いくら事例をたくさん集めてきても、それを何らかの理論の光に照らして見るのでなければ、何も見えてこないということである。昔、村上陽一郎さんの本を読んでいてなるほどと思ったのは、われわれがレントゲン写真をとって「あ、肺炎ですね」という。しかしレントゲン写真はフィルム上の白黒の濃淡にすぎない(最近ではモニター上のドットの濃淡)。そこに肺があるわけでも炎症があるわけではない。それを肺炎の像であると読み取る背景には、医者のもつさまざまな知識がある。それなしではレントゲン写真はただの白黒のフィルムである。事実、素人のかたに胸部レントゲン写真をみせたときに、一番気になるようなうのは胃泡(胃の上部にたまった空気)の像であることが多い。だから「中立的で受動的な観察」などというものはない。専門用語は文脈に応じて定義される、ということになる。
ここから、クーンの有名な「通約不能性」の論がでてくる。科学的実在論者は、最良の理論は(近似的に)真理であるとする。しかしクーンは何が正しいと考えるかはパラダイムによるとする。さらには実在自体もパラダイムによって変わるとする。また進歩とは「真理に近づく」という意味ではなく、今いる場所から進むということに過ぎない。科学にゴールはない。
コペルニクスの思っていた宇宙とわれわれが思っている宇宙はまったく異なるという意味での通約不可能性というのならわかる。しかし、これが進化論者と創造論者のあいだの通約不可能性というようなほうにまでいってしまうと困るのである。
最近翻訳が刊行されたフラーというひとの「我らの時代のための哲学史 冷戦保守思想としてのパラダイム論」という本がある。なにしろ600ページを超える大部の本で、ぱらぱらと拾い読みをしただけだが、一言でいうと社会構成主義的にみたクーンというような本らしい。「監訳者あとがき」によれば、「科学革命の構造」はむしろ人文社会科学の分野でひろく受容され、先行する保守的思想を覆すために利用された。西欧中心主義、進歩史観、性別や人種を根拠にした差別などについて、そういうものはある思考の枠組み(つまりはパラダイム)に捕らわれたものの見方に過ぎないとし、その枠組みを批判する議論を提供することで、多文化主義やジェンダー論などの陣営に多くの塩をおくった。「科学革命の構造」が出版された60年代末は大学紛争の時代であり、クーンは革命のイデオローグの一人とされた。そのようにいわゆる新左翼の側からは好感をもって受け入れられたが、伝統的な左翼は懐疑的であった。パラダイム論は相対主義であり、人類の進歩と解放というマルクス主義の歴史観に反するとしたのである。もう一つ、監訳者である中島秀人氏が指摘するのが、クーンの論が科学革命を論じるものであると同時に、革命のあいだにある長い安定期をも論じたものであるということである。したがって「科学革命」に着目するか「パラダイム」に着目するかでクーンの論は大きく違う顔を見せることになる。
パラダイム論は自然科学の分野にいる人間にとっては、かれらの日常的営為を描写したものにすぎないと思われた。一方、人文・社会科学の分野で大歓迎されたことは上述の通りであるが、クーンはパラダイムというものは自然科学の分野にのみあるものであって、人文科学の分野にはないものとしていただけに皮肉である(クーンが「パラダイム」ということを考えるようになったのは、人文科学の人間のあいだでは基本的用語についてさえまったく合意がえられないのに、自然科学者のあいだではそのようなことがないのはどうしてかと考えたことからはじまるのだそうである)。
このフラーの本は、「パラダイム論」が最近ではむしろ保守的な役割を演じていることを指摘している。パラダイム論は「批判を受け付けない理論の枠組み」を説明するものとして構想されたのであり、それを本来からイデオロギー性を持つ分野に導入することは、人文科学の分野の自殺行為ではないだろうか?と中島氏はいう。創造科学もまた一つのパラダイムなどというのは確かに困る。
フラーによれば、哲学史は「真実を明らかにするものたち」と「英知を隠蔽しようとするものたち」に二分されるのだそうである。「英知を隠蔽するものたち」とは「真実を知りながら、それを隠蔽するものたちで、二重真理の「高貴なる嘘」を語る人々なのだそうである。前者に属するのがソクラテス・イエス・マッハ・ポパーであり、後者に属するのはプラトン・ローマカトリック・コント・プランク・クーンなのだそうである。フラーによればニ十世紀初頭のマッハとプランクの間の論争は、マッハの道具主義がソクラテス以来の伝統につながり、プランクの実在論がプラトンの伝統につながるのだそうである。(このあたりの議論は、わたくしはポパーはプラトンが嫌いなソクラテス派であるとしても、マッハには批判的な実在論者であり、道具主義には敵対するひとではないかと思っているので理解できないところがあった。)
問題は次の指摘で、クーンはコナントというハーヴァードの学長を勤めたひとに指導を受けている。コナントはマンハッタン計画の中核的人物であり、戦後は西ドイツ大使になるなど冷戦の政治に参加したひとであるのだが、一般大衆が科学を原爆のイメージのみでとらえるようなことがないように、またエリート科学者として科学が一般大衆から過剰な介入を受けることを懸念して、「科学は社会に強い影響を与えるが、その発展は、社会の影響から隔離され保護された基礎研究の自然な産物である」とするストーリーが必要であると考えた。科学が軍事や産業に大きく巻き込まれている現在、このストーリーは土台無理であり、嘘である。エリートはそれを嘘であると当然知っている。コナントは大衆のために、この「高貴なる嘘」を自覚しつつ公然と語った、そのようにフラーは指摘する。コナントは自覚しつつそれを語ったのだが、その自覚なしにそれをうけついで科学史に応用したのがクーンだったとフラーはみる。クーンの科学史は科学革命を科学者集団内部のできごととして論じており、政治や経済との関連にはふれないようにしている。
わたくしがこのフラーの本の紹介をみたときには、「クーンは通常科学におけるパズル解きがいかに楽しい営為であるかを述べることで、科学者が社会の動きから目をそむけて自分の蛸壺の中での狭い範囲の研究に没頭することを肯定することになったという批判をした本」というようなことが書いてあったように思う。
クーンの「科学革命の構造」を読んだとき、科学者がおこなっているのは「通常科学」の範囲内での「パズル解き」であるというのをみて本当にその通りだなあと思った記憶がある。ポパーのほうを先に読んだので、その「真理」の追求者としての科学者という像はとんでもなく誇張されていると感じた。それに対してクーンの提出する科学者像は実際の科学者の営為に叶ったものと感じた。
そもそも「科学」と一括りにしてしまうからいろいろな混乱が生じてしまうのであり、アインシュタインのような理論物理学者とエイズウイルスの同定を競っている学者を同一の地平で論じることなどできるはずがない。ポパーがいっている科学者はアインシュタインの側であり、クーンのいう科学者はエイズ研究者の方である。エイズウイルス研究といったノーベル賞争いのレベルの研究ではなくても、わたくしの専門に近い話でいえば、C型肝炎ウイルスを同定したのはヴェンチャービジネスである。存在することがわかっているものを誰が最初に見つけるかという競争で、莫大な資本を投下して虱潰しに調べていくというやりかたは「真理」の探究などとはまったく関係ないし、「実在論」とか「客観性」などとは縁もゆかりもない話である。「通常科学」での「パズル解き」であって、「科学」の活動といわれているもののほとんどがこれである。
もしもいま「パラダイム転換」がおきつつあるのでないとすれば、現在は「通常科学」のフェーズにあるのであり、そこでの「パズル解き」はクーンの論によれば正当化されるわけである。フラーのいう通りクーンの論が科学者の営為の現状肯定に通じるということは間違いなくあると思われる。だから、フラーの本の解説でいわれているように科学者のあいだではクーンの論はある意味当たり前のことを言っているものとして大きな話題にはならず、クーンがそもそもパラダイムの存在を想定していなかった(ということはフラーの本で指摘があるまで、うかつにもわたくしは気がつかなかったのだけれも)人文科学の分野でもっぱら話題になったというのは当然のことであるのかもしれない。そもそも人文科学の分野では研究者一人に一パラダイムであるのかしれない。そこまでいかなくても、実在論と唯名論といったものはつねに併存してきた。一つのパラダイムが時代を覆うというようなことはなかった。
そうするとクーンの論の何が問題になるのだろう? 科学の採用している方法というのも一つの見地に過ぎないのであり、絶対的なものではないという主張が、科学に押されっぱなしであると感じていた人文科学の陣営に、科学にも偉そうにする根拠など実は何もないのだという声援を送ることになった点にあるのはないだろうか? おそらくそれはクーンのまったく意図していなかったと思われるもので、クーンは科学の中でのそれぞれの立場の相対化を意図していたとしても、科学自体を相対化することなどはまったく意図していなかったはずである。本書の著者のブラウンにしても、科学を絶対的なものと思っている(正統的科学の立場というのはそういうことであると思う)。だから科学を相対化してくる議論にはノンなのであるが、科学が科学を超えた分野にまで越境していくことには懐疑的なのである。だから科学擁護と科学相対化のあいだで揺れることになるのだと思う。
次がファイヤアーベント。
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我らの時代のための哲学史―トーマス・クーン/冷戦保守思想としてのパラダイム論
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