J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(8)
ここではブルアというひとの科学知識の社会学についてのブラウンの議論をみていくのだが、これがいたってわかりにくいものであった。
ソーカルは「知の欺瞞」の「日本語版への序文」で、「知の欺瞞」には二つの標的があるとしている。一つがポストモダンの著名な知識人たちがおこなっている科学的な概念や術語の本来の意味とは異なる用法での濫用であり、もう一つが認識的相対主義である。相対主義からの見方によれば、現代科学は「神話」「物語」あるいは「社会的構築物」等々以外の何ものでもない、ということになる。あることを科学の見方で説明するのは、あまたある事物についての説明の仕方の一つであって、その説明が他の説明よりも特に優れているわけではない、という主張である。科学的な見方も特権的なものではなく、ある時代やある地域でたまたま受け入れられている説明のやりかたに過ぎない。
ポストモダン思想は強く相対主義に傾いているから、二つの標的それぞれへの攻撃は最終的には同じ目的に叶うことになるが、本来二つの標的への議論は独立したものである。そして第一の標的への攻撃は大変面白くかつ効果的で、ポストモダンの権威を少なからず失墜させる力があったのだが、間違いの指摘は、議論としては後ろ向きであり生産的ではない。「知の欺瞞」が本来意図した生産的な方向とは、認識的相対主義の批判であったはずである。
それでブルアらの科学社会学の「ストロング・プログラム」についても「知の欺瞞」では、認識論的相対主義への批判という観点から議論がなされる。しかしブラウンの本では同じブルアが「自然主義派」という観点から批判されていて、とても同じひとについて論じているとは思えないくらい視点が異なる。本当はブルアの原著を読んでみればいいのだろうが、ソーカルの論を読んでもブラウンの論を読んでも、それを読んでみようという気にはなれない。(ブラウンの論からのブルア像は、行動主義心理学のワトソンに近いようにわたくしには思える。)
それなのにブラウンによれば、ブルアの「科学知識の社会学」は科学社会学の分野で「絶大な影響力を」もっているのだそうである。そういう話を読むと、社会学という学問のレベルは低いのだなあと感じてしまう。
ソーカルによれば、「本当のところ、科学者の大部分はラカンやクリステヴァやドゥルーズの疑似数学的ばか噺に(控え目にいっても)一顧だに与えていない。これら蒙昧な言説のマイナスの影響は、人文系と社会科学にのみ及んでいる」のであるから、ブルアの影響も人文学あるいは社会科学内に限られるのであろう。そして相対主義は科学の営為自体を相対化するものであるから、その見方は社会のなかでの科学の位置にかかわるが、「自然主義」云々の問題は科学論内部の問題であり、そう考えればソーカルの視点の方がずっと守備範囲が広い。だからブラウンがなんでブルアにそれほどこだわるのかよくわからないのだが、ブラウンは科学哲学の分野のひとだからその世界に重大な影響をもつブルアは無視できない、ということなのであろう。というか、本書での最大の論敵がブルアなのではないかと印象を受けるくらい、ブラウンはブレアについて大きく論じている。
それにもかかわらず何回読んでもブラウンの議論からは、ブレアが何を主張したのかがみえてこない。それはブラウンがいう「強い規範的な意味での合理的論拠」というのが何を意味するのかよく理解できないためである。
ブラウンによれば、ブルアは科学を論じるにも科学的やりかたでしなければいけないとしているのだそうで、まず、ここでの「科学的」というのがよくわからない。因果関係として説明できる、それも自然主義的に説明できるものでなけらばならないということなのだそうだが、この「自然主義的」というのもよくわからない。生物学的説明(たとえば進化論からの説明)であっても社会的な説明(たとえば科学者がその時に置かれていた社会体制からの説明)でもいいのだが、科学者の信念といったものは自然主義的なものではないので断じて認めないということらしい。ブラウンは「強い規範的な意味での合理的論拠」にもとづく信念を断固として擁護する立場なので、ブルアと鋭く対立することになるらしい。
もしもブルアのいっていることがブラウンが要約しているとおりなのであるとすれば、この前の記事でのフォアマンと同じで馬鹿ばかしくて論じるに値しないと思われるのだが、そんな下らない説がどうしてそれほどまでの影響力を持つのかがわからない。やはりソーカルらの論のように相対主義陣営の強力な論客というほうがその影響力を説明しやすいのではないだろうか? ソーカルによれば、ブルアたちは以前の社会学者が「科学が営まれる社会学的状況」を分析することで満足していたのに対し、「科学の理論の内容までも社会学の言葉で説明しよう」としたのだそうである。だが、科学の理論の説明には「実際の世界のありかた(つまり、自然)は関与しない」とブルアらが主張するのであれば断じて容認できないとソーカルはいう。ソーカルのいう通りであると思うのだが、だがブラウンによればブルアは自然主義なのである。自然を考慮しない自然主義派などというのがあるものだろうか? どうもこのあたりの議論がよくわからない。
ブラウンの説明では、ブルアは研究者の主観といったものは断じて科学の対象とならないとしているように読める。一方、ソーカルによれば、研究者の利害関係といった「自然」ではないもので科学を説明しようとしているように見える。わからない。
ブラウンの本で引用されているソーカルのパロディ論文にあるように「外界というものが存在し、その諸性質は、いかなる個々の人間からも、それどころか人類全体からも無関係である。すなわち、外界の諸性質は“永遠不朽の”物理法則に書き込まれており、(いわゆる)科学的方法により規定された“客観的”手続きと認識論的制限にのっとることで、人類は―不完全で暫定的なものであるにせよ―信頼にたる知識を得ることができる」というのが科学の現場にいる人間のほとんどが共有している見方なのであり、「自然」を考慮にいれない科学(すくなくとも自然科学)はありえない。そうだとすれば、ブルアの学説というのがなんで大きな影響力をもつことになるのかがさっぱりわからない。
一方、ブラウンのいうことがわかりにくいのは、超越的な原理によるのではなく合理的に判断してえられた規範あるいは価値観は「科学」的であるとしたいためではないかと思う。こういうところに「科学」的という言葉を用いるのは一般的用法ではない。聖書にそう書いてあるからとかお告げでわかったとかではなく、理性の行使によってえられた判断であるなら、それは主観的な判断なのではなく「客観的」な意味をもつというがブラウンのいいたいことのように読めた。それでそれをまっこうから否定するブルアが最大の敵となるわけである。しかしブルアは、そういうのは「科学」ではないとしているだけなのかもしれない。
このあたりわたくしはブルアの主張を完全にとりちがえているのではないかと恐れるのだが、ブラウンがブルアの主張をかなり極端化しているということもあるように思う。ブラウンはフェミニズム科学というようなものを擁護する方向をめざしているので、「強い規範的な意味での合理的論拠」によってその方向が肯定されるという立場にたつ。そのために、そうなるのはないかと思う(というようなわたくしの見方は社会構成主義に毒されているのかもしれないが)。
それでブラウンは「科学の民主化」というようなことをいいだす。1996年にソーカルとロスというひとの間で公開討論があったのだという。その場で、ソーカルが「西欧の宇宙論とアメリカ先住民の宇宙論のどちらもが正しい」とする人類学者の文章を批判して、そのどちらかが正しいか両方が間違っているかであって、両方が正しいというのはありえないと述べたところ、聴衆のなかの数名がソーカルは何の権利があってその問題を持ち出すのかといい、ロスが「ソーカルがやっていることはアメリカ先住民を裁判の場に引きだすことだ」と抗議することがあったのだという。
ブラウンはロスらの議論が弱者をエンパワーしたいという願いから発っせられたものであろうとする。またアメリカ先住民の宇宙観も一つではなくさまざまであろうとする。ブラウンの疑問はアメリカ先住民の政治目標達成のためにその宇宙観を擁護するようなことははたしてよい戦略なのだろうかということである。さらにポストモダンの陣営はアメリカ先住民の宇宙観は擁護するがキリスト教原理主義の宇宙観は擁護しないではないかともいう(ファイヤアーベントはしたらしいが)。
つまりブラウンは西欧の宇宙観が「科学」的に正しいと思っているのであり、同時にアメリカ先住民の政治目標達成のために科学もなにごとかをなさねばならないと思っているようなのである。そうすると「科学」的に正しいことが、弱者のエンパワーメントの障害になるという事態も考えなくてはいけないことになる。これがブラウンの悩みなのである。西欧の宇宙観といってもそこいはキリスト教原理主義のものはふくまれていない。つまりアメリカ先住民の宇宙観もキリスト教原理主義のものも、ブラウンのいう合理的論拠によっては肯定されないのである。それでもアメリカ先住民はエンパワーされねばならず、キリスト教原理主義はエンパワーされなくてもいいのであれば、前者が弱者であり、後者は(少なくとも米国においては)決して弱者ではないからということになるのだろうか?
最近、悪霊をとりのぞくという修行?のようなもので若い女性が亡くなるという事件があった。ここで問題にされているのは亡くなったということであって、悪霊などというものは合理的論拠のないものであることではない。この事件の詳細については知らないのだが、もしも亡くなった方が自分でも悪霊を信じていて除霊を自分から望んでいたとしたらどうなるのだろうか? この除霊を医療行為とはいわないだろうが宗教儀式というひとはあるだろう。子供の折檻をしつけという親はあるだろう(本当にそう信じているかもしれない)。しごきを教育であるというものもあるだろう(本当にそう信じているかもしれない)。悪霊の存在は合理的には肯定されないだろう。それならば、折檻は?しごきは? 「わたしはなんでこんな病気になったのしょう?」という質問に「暴飲暴食のためです」と答えるのは合理的であって、「わたしがこんな病気になったのは○○さんにいじわるをした報いなんですね」という問いに対しては「そんなことはありません。報いなんて無いのですから」とするのが合理的な返答なのだろうか? 科学以外の場面に科学を安易に持ち込むと碌なことはないと思う。
概して、ここで「科学の民主化」ということでいわれていることで意味のあることはほとんどないように思った。
それで最後が「社会的行動計画をもつ科学」である。
進化論裁判とした悪名の高い「スコープス裁判」の当事者であるブライアンはキリスト教信仰にとらわれた頭の固いわからずやではなかったということがいわれる。知的で進歩的なひとであり、歯止めのない資本主義に反対し、女性参政権や累進課税や金本位制の廃止などを推進した有能な政治家だったのだそうである(わたくしは知らなかった)。ブライアンは「社会ダーウィニズム」の風潮を危惧して行動したのであり、進化論に反対する多くの反動的な人物と見解を同じくしていたのではないのだという。実は、政治的な目的はあっても、ブライアンは進化論についても聖書の記述についてもどちらもあまりよくは知らなかったのだそうである。
つぎにS・J・グールドがとりあげられる。グールドもさまざまな生物学的決定論に敢然と立ち向かった、とされる(ここでちょっとひっかかるのが生物学的決定論というのは論じるまでもなく、はじめから間違った主張であるとしているように読めることである)。しかしブライアンと違い、生物学をしりぞけるのではなく、ダーウインの進化論と現代の遺伝学から社会ダーウィニズムが帰結するという主張をしりぞけたのだ、と。どうもS・J・グールドはブラウンの理想的科学者像のひとりであるらしい。
さてフェミニズム。一部のフェミニズムへの批判(ソーカルの陣営からのものもふくめ)が正当なものであることをみとめながらも、一部のフェミニズムの主張に首肯できないところがあるとしても、それでフェミニズム全体を全否定するのは間違いであるという。
この辺りの議論がよくわからないのだが、フェミニズムは自然科学からでてきたものではなく、人文科学や社会科学の方面からでてきたものではないのだろうか? それは「かくあるべきである」という主張であって、「かくある」という主張ではないと思う。歴史上のほとんどの時間と地域で男性が支配的であったというのは「事実」であって、なぜそのような事実が生じたのかということは進化の学問の方面からある程度の説明がなされつつあるのだと思う。しかし、「かくある」ことであったとしても「そうであってはいけない」のだとする主張も当然あるのであり、それがフェミニズムであるのだと思っている。だからそれが自然科学の主張としてでてくるということはありえないとわたくしは思っている。むしろ自然科学の役割はなぜかくもフェミニズムの主張がいたるところで強い抵抗にあうのかということの理解に資することにあるのではないかと思っている。
たとえば、「男」は「粗暴」であり「女」は「優しい」という事実があり、多くの場合に「優しさ」は「粗暴」に敗けるというということが今までの歴史を決めてきたのだが、時代がある段階に達すると「粗暴」よりも「優しさ」の方が時代に適合していることになり、それがフェミニズムの主張を荒唐無稽なものではなく、現実性をもつものにしてきているというような見方はありうるであろう。もちろん「男」の本質は「繊細さ」であり、「女」の本質は「鈍感さ」にあり、社会を構築するためには「繊細さ」が不可欠であり、そのために歴史は男性支配の歴史であったとか、いくらでもいい加減な説明は思いつけるわけで、支配的な性が自分の支配の継続のために都合のいい説明を後から後から繰り出すことは当然予想される。しかし、とにかくも男性と女性というのがとんでもなく異なった存在であるということだけは間違いがなくて、その「自然」を無視した立論を「科学」的手続きでおこなうことは、土台無理なこころみにならざるをえないだろうと、わたくしは思っている。
もっと広くいって、「正統的科学」の立場からは「社会生物学」が勝利したのだとわたくしは思っている。そのところどころでS・J・グールドらが果敢な抵抗をこころみたことは知っているが、それは部分的な行き過ぎに対する是正ということにとどまるのであって、生物学の本道においては「社会生物学」がゆるぎない地位をしめるようになってきていると思っている。
それにもかかわらず、「正統的科学」の大御所のドーキンスと「異端的科学者」のS・J・グールドをくらべたら、グールドのほうが好きだなあと思う。ドーキンスは単純であって、グールドの方がずっと複雑である。グールドは「科学」という土俵では負けても、政治をふくめた場では少なくとも引き分けに持ち込むくらいの成果はあげたのかもしれない。グールドははじめから「科学」一筋のひとではなくて、利用できるところでは「科学」も利用するという姿勢なのだと思う。E・O・ウイルソンもまた単純のひとである。ごく少ししかない手持ちの武器で果敢に突き進んでいく姿はドン・キホーテ的で美しも滑稽であるが、あんなに果敢に進めるのは自分の分野以外のことをあまりよく知らないからではないかと思う。「神は妄想である」なんて本を書いてドーキンスはイーグルトンから可哀そうにせせら笑われている。「科学」だけでなんでも御していこうというのは土台、無理なのである。しかし、グールドも「神と科学は共存できるか?」なんて、なんとも困った本を書く。衣の下から鎧が見えすぎである。
いつも思うのだが、西欧がずっとキリスト教という一神教のもとにあったことで様々な病理が生じている。科学でさえもその病理がなければ生まれなかったかもしれないので、「正統的科学」というのはそれの解毒された姿であり、一見無害化されているが、たたけば埃はいくらでもでてくる。美しさとか美味しさというのは毒と紙一重のところにあるのかもしれないから、その出自を忘れて清潔そうな顔をしている「科学」の姿をみて悪態をつきたくなるひとがでてくるのも当然なのである。ポストモダンというのもその悪態の一つなのかもしれなくて、悪態が建設的であるはずがない。そしてブラウンというひとはカナダのひとでアメリカのひとではないらしいが、清潔なのである。大陸アメリカは西欧ではつねに併存していた「病理」への対抗装置がないまま「病理」が純粋培養されたようなところであり、だからいまだにキリスト教原理主義のようなものが大きな力を持っている。「茶会」などという勢力が大きな力を持っているなどということもおきている。そういう場所では「科学」の側も議論が浅いところにとどまってしまうことが多い。
本書はざっと読んだときには、科学哲学については要領のいいまとめという部分があるように思え、この機会にポパーをふくめた科学哲学についてもう一度考えてみたいと思ったのだが、よく読んでみると、なんだか随分と方向が違った本であった。それでいろいろ変な感想を書いてきたが、一応、これで終わりとする。
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