J・R・ブラウン「なぜ科学を語ってすれ違うのか」(補遺)ブルア
前の記事でブルアについて書いていて、全然見当違いのことを書いているのではないかと気持ちが悪かった。ブラウンの本のあと、読みかけになっていたフラーの「我らの時代のための哲学史」を再開したのだが、索引をみるとブルアについて多くの言及がされている。それでそこを拾い読みすることより、少しはブルアというひとについてイメージすることができるようになれたように思う。それで、その点のみを補足しておく。
一言でいって、ブルアは「哲学的」概念を嫌ったのだということらしい。哲学的概念は科学的探究の障害物であり、科学を不必要に政治化するのだ、と。知識の本性に科学的にアプローチするのでなく、それ以外の方法でアプローチするのであれば、それは私たちのイデオロギー的関心の投影に過ぎないものとなり、その結果、そこで構築された知識論はそれに対応するイデオロギーのプロパガンダとなり、そのイデオロギーの興亡に対応して起こりまた消滅することになるだろうとブルアはしたのだという。
クーンやポパーは哲学者の仕事の一つとして科学史があることを示したのであるが、科学を哲学者の手から奪還しなくてはならない。そうしないと、科学知識論は、40年前のカール・マンハイムの「イデオロギーとユートピア」の世界に戻ってしまう。そうならないために、なによりも科学理解の脱政治化を必要としたのだ、と。
ブルアらは、カール・マンハイムがその知識社会学を数学と自然科学に適応することを拒んだことをその弱点とし、それをも視座に入れているという意味で、ストロング・プログラムと称した。またフラーは、ブルアがヴィットゲンシュタインに多くを負っており、その反哲学の姿勢はそれによるところが大きいという。ブルアは科学が支配的な認識的実践ではない文化においてのみ哲学は科学者の側に立つとしたのだ、と。
そのようにいわれると、明らかに政治的意図のもとでの科学論を考えているブラウンがなぜあれほどブルアに敵対的であるのかはよく理解できる。一方、ソーカルらのSSKは相対主義であるという方向に、フラーの説明がどう結びつくのか依然としてよくはわかならなった。「知の欺瞞」で紹介されているブルアらの文は、科学が特権的であることの否定をいっているように読める。科学は自律した営為であり、内部完結しており、他からの批判からは超然としているという見方への批判である。科学は「真理」を探究するということを認めると科学の特権化に道を拓いてしまうから、科学がいう「真理」も相対的なものであるとうことになるのであろうか? フラーは明らかにそのような超然として自律しているという科学像、科学者像に対立的なのであるから、その点ではブルアに親和的でもいいようにも思えるのだが、批判的である。
これらの点については、「我らの時代のための哲学史」は全巻読了した時点であらためて考えてみたい。
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