J・グループマン「医者は現場でどう考えるか」(1)

   石風社 2011年10月
 
 著者はエイズや血液腫瘍を専門にする臨床家。このタイトルを見ると、医者が臨床の現場でどのように考えるかという、医者に共通した思考法について論じているように見えるが、そうではなく現在の医療の場で主流となっている思考の方法を批判したものである。
 以前買ってほとんど読まないままになっていた原著「How Doctors Think」の表紙には「New York Times Bestseller A unique, important, and wonderful book...You'll never look at your own doctor in the same way again"」とある。一般向けの本であるが、医療者が読んも面白い。一般読者を意識してか、面白い症例をまず提示して、それについて議論するかたちで医者の思考を議論していく形をとっている。
 
 症例1は、15年間“神経性食思不振症”と誤診されていた35歳くらいの女性。20歳ごろ、食事の後、悪心と腹痛が生じるようになる。かかりつけ医からの紹介で精神科にかかり?神経性食思不振症”の診断をうける。複数の家庭医をへて、現在の“神経性食思不振症”専門医にかかるようになる。その間、内分泌医、整形外科医、血液内科医、感染症専門家、心理学者や精神科医の診察もうけ、4種類の抗鬱剤をのみ、週一回のカウンセリングと栄養士たちの指導もうけている。それにもかかわらず少しもよくならないどころか悪化さえしている。貧血も進み、血小板も減り、骨髄機能は低下し、骨粗しょう症も進んでいる。免疫機能も悪化していて、髄膜炎などをおこした。最近では年に4回も入院している。“過敏性腸症候群”の診断も加わった。
 今度、新しい医者の診察を受けることになったのはボーイフレンドの執拗なすすめによる。本人は現在の診断を受け入れているし、家庭医も別の医者にいまさらかかっても意味がないといっていた。しかし30人目くらいになるその医者がついに正しい診断をつけてくれた―“グルテン不耐症”。穀物にふくまれるグルテンという栄養成分に対するアレルギーから種々の症状をおこす自己免疫疾患である。
 なぜ、その医者が正しい診断にたどり着けたのか? まず患者の言葉を信じたから。患者は栄養士の指導通り一日に3千カロリーをとっているといっている。それなのになぜ太ってこないのか? 栄養不良のままなのか? 患者ががんばって食べていると嘘を言っているのか? そうでないとしたら・・。ここでこの医師が以前、吸収不良の研究をしたことがあることが役にたってくる。そこからこの患者は?神経性食思不振症”ではなく何らかの吸収不良を示す疾患なのではないかという疑問が生じた。
 しかしと著者はいう。まず大事なのはこの医師が、15年の病歴をもつこの患者の話をもう一度はじめから聞こうとしたことである。彼に暗黙のうちに期待されていたのは、今までの診断が間違っていないことを患者に説得させるという役割であったにもかかわらず。この医師は何か変だということを感じたのである。この何か変だと感じる能力、それこそが医学の技であり、現代の医学教育が失念しているものだという。
 医師が聴く姿勢をみせたこと、それが患者にこの医師を信頼させ、医師の提案する新たな検査(内視鏡検査というつらい検査)や血液検査を受け入れいれさせたのであろうという。もしも医師がきわめて優秀であり、理詰めで“グルテン不耐症”という診断に至ったとしても、15年間も様々な検査に苦しんできたこの患者はその医師を信頼しなければ検査を拒否することもできたのであり、そうであれば正しい診断にいたることがなかったかもしれないわけである。
 この症例から著者が導き出す教訓は、現場の医療は“何か変だ”というような、論理的分析的なアプローチとはまったく異なるアプローチににしばしば依拠するものであること(もちろん直観に過度に頼ることは時に大きな危険をもたらすが)、医師のすることの大半がMR検査と遺伝子分析の時代になっても、やはり大事なのは“話すこと”であって、医師の能力はコミュニケーション能力と不可分なものであることである。
 患者には無愛想だが天才的な外科医と、とても親切だが大して能力のない開業医という二項対立ばかりがいわれるが、とても親切で天才的な外科医というのがいてもいいのである。あるいは現在の医学教育は“患者には無愛想だが天才的な外科医”を養成する方向のものであって、医学にもう一つ要求される資質である“話すこと”についてはまったく視野に入ってきていないということである。
 著者はいう。自分が受けた医学教育も大きな問題があった。まず現場で学べという姿勢であって、見よう見まねであり、そこで論理的な診断過程というようなものが教えられることはまずなかった。そのようないきあたりばったりの教育への反省から現在のアルゴリズムと樹状図による診療ガイドラインが導入されるようになってきた。しかしそのような診療ガイドラインは現場に出てときに役にたつであろうかと著者は疑問を呈する。われわれは患者が診察室に入ってきたときの第一印象といったものに大幅に頼っているのではないだろうか?
 話を聴くこと、すなわち、医者の側で枠をはめた質問をするのではなく、自由にはなさせること! 医者は患者が話し始めてから平均18秒で話に割り込むという研究があるのだそうである。腹痛はどんな痛みですか? 鈍い痛みですか? 刺すようですか? といった用意された質問を続けていくことは、ある既成の疾患の枠組みの中に患者を誘導していくことになる。
 自由に話してもらうため必要なことは? 患者に自分の訴えに医者は本当に関心をもっていると感じてもらうことである。研究では、ほとんどの患者が医者が自分のことをどう感じているかを正確に察している。医者の表情、座り方、仕草などが温かいかどうか歓迎するようであるかなどがそれを決める。
 研究によれば、重症の患者、治癒の見込みのない患者は医者から嫌われる。とすれば15年間“神経性食思不振症”を患っている患者はどのような扱いをうけるだろうか?
 誤診と医療ミスは異なる。エラーの大半は医者の思考法の欠陥からおきる。誤診の80%は認識エラーが連続することからおきる。診断ミスのうち医者の知識不足によるものはわずか4%であるという研究もある。知らないから間違えるのではなく、違う方向に思考がいってしまうから間違える。
 
 以上が「はじめに 虚心に患者と向きあう」の概要である。ここの部分を読んでまず頭に浮かんだのが「ベナー 看護論」である。「看護論」というタイトルではあるが原題は「From Novice to Expert」であり「初心者からエキスパートへ」である。看護師が初心者から新人、一人前、中堅、エキスパートと経験をつんでいくにつれて、同じ症例を見ても、その状況把握の仕方がまったく違っていくという話である。この「看護論」はドレフィスというひとのチェスプレイヤーと航空パイロットの技能習得モデルに依拠しているらしい。
 新人パイロットは計器類をある順序で目で追ってチェックするように教育される。しかし指導しているベテランパイロットはまったくそのような順序で計器類をみてはいない。彼らは新人よりもずっと早く異常を指摘できる。それはベテランは計器を一個一個見ていくのではなく、一気に全体を見て問題を発見するからである。看護の現場でもそのようなことがおきるというのがベナーの主張であり、マニュアル的な看護は初心者のためのものであるに過ぎないのに、現在の看護教育全体がマニュアル化していることをベナーは慨嘆し、それではないやりかたを提唱している。
 医療の場でも同様のことがおきるというのが著者の主張であり、それで第2章「瞬時の判断における思考メカニズム」での第2例目が提示される。
 
 症例2:66歳男性、アフリカ系アメリカン コントロール困難な高血圧と胸痛のため入院中。
 この症例は著者が医者になってはじめて受け持った患者のひとりであり、著者が医者として活動をはじめた第一日目、患者に挨拶にいっていた矢先、突然、呼吸困難をおこして倒れる。本当の医者としての最初の日であった著者は頭が真っ白になりその場に立ち尽くしてしまい、何もできない。そこへ偶然旧友をたずねてきていた医師が通りかかり、著者の白衣から聴診器をとり、自分で聴診したあと、著者にも聴かせる。派手な雑音がしている。その医師は「大動脈弁が破れている」と言い、「心臓外科が必要だ。急げ!」と言った。著者はあわてて看護師を呼びにいき、救急カートがきて、気道が確保され、アンビューで酸素が送られ、心臓外科医が来て、急いで手術室に連れて行く。人工弁への置換手術がおこなわれ患者は助かった。著者はいう。この患者を前にして、医学部の学生として習ってきたことはまったく頭に浮かばず、聴診器で心雑音を聴いてもその意味するところがまったくわからなかった、と。一方、その通りかかった医師は20秒足らずで診断を下し、指示をだした。
 大学の授業ではこのようなケースを系統的に検討していく。計画的かつ順序だてた診断法である。しかし、この症例2のような場合、そのような診断法はまったく用いられていない。教育実習では診断に20〜30分かかる。熟達した医師は現場では20秒で見当をつける。現場での医師決定はパターン認識でおこなわれる。最大の判断材料は患者が医師の目にどう映るかである。
 研究によれば、ほとんどの医師は、患者に会った時点ですぐに2〜3の診断名を頭に浮かべている。このような系統的ではない近道を通る思考法をヒューリスティクスという。医学部の教育ではこれは教えられていない。このヒューリスティクスにはもちろん落とし穴と危険性もたくさんある。
 
 この第1例と第2例はきわめて慢性の経過と超急性の経過で両極端であるように一見みえる。しかし、臨床パターンの認識という点では共通している。
 「精神疾患」というレッテルを貼られた患者に対しては医者は否定的な感情を抱きやすいことが研究から明らかにされている。第1例では診断した医者は、その否定的感情で見ることをしなかったために正しい診断にいたることができた。第2例では、感情を抑え冷静に判断することでその医師は正しい診断にいたることができた。
 誤診は技術的なものであるよりも、認識の誤りによるものであり、認識の誤りは内面の感情によることが多い、と著者は主張している。
 
 第2章は「医師の感情と診断ミス」と題されている。
 症例3:40歳前半。森林保護官の屈強な男性。数日前からの胸部の不快感に続く胸痛のため受診。体温、血圧正常。聴診正常。心電図、レントゲン、血液検査正常。医師はどこも悪いところはありません、現場の活動に起因する肉離れでしょう、と告げた。翌朝、その男が急性心筋梗塞で運ばれてきた。その医者は悔やむ。あの患者の健康そのものといった外見に思考が惑わされてしまった。この症例は後から考えれば典型的ではないが不安定狭心症として矛盾しない経過である。
 
 症例4:70代の男性。疲労感と腹部膨満で救急を受診。受診時酒臭かった。無精ひげを生やし、衣服は古かった。長く風呂にはいっていないようであった。アルコール性肝硬変とインターンは診断した。しかし本当の診断はウイルソン病だった。
 アルコール依存症の肝硬変、ヘビースモーカーの肺気腫、超肥満者の糖尿病、それらはみな医師からまともにあつかわれない傾向にある。この患者は飲酒は少々と本当のことを申告したのにたまたま受診時に酒臭かったために、そしてその外見から、大量飲酒者と決めつけられてしまった。ヒューリスティクスという行き方には大きな危険もある。
 
 症例5:若い男が地元の美術館の前の階段で眠っているのを発見されつれてこられた。無精髭で衣服が汚く、もうろうとしていた。またホームレスのヒッピーかと医者は思い、そのまま担架に寝かせておいた。看護師がおかしいから診察してくれといってきた。糖尿病性の高血糖だった。浮浪者ではなく学生だった。
 
 症例6:体中が熱くて皮膚がむずむずすると訴える女性。時々ひどい頭痛がし、身体が爆発したような感じがするという。今まで5人の医師に更年期障害といわれている。それもあるとは思うけど、何か違うと訴えている。褐色細胞腫だった。
 
 患者に好意をもち、それ故につらい検査をできれば避けたいと思うことが誤診につながることもある。患者を第一印象で悪いイメージを抱くとそれ以降の診断がおろそかになる。
 
 ここらへんの記載はいちいち身につまされることばかりで、自分のした誤診のことをいろいろと思い出す。20代後半の女性が下肢のむくみを訴えてやってきた。血液尿検査まったく異常なし。利尿剤を投与するが、よくならないといってまたやってくる。むくみといっても全然大したことのないもので、なんでこんなものを気にするのだろうと最初に思ってしまったのが掛け違いのスタートだった。若い女性というのはこの程度でも気になるのだろうかといった方に考えがいってしまい、病気でないひとが病院にきていると思ってしまい、病気をみつけようという方向が消えてしまった。一年近く、むくみも悪化もしないまま時々病院にくるので、手をかえ品をかえ(?)薬をだしてみたが(こちらの診断は特発性浮腫)一進一退だった。ある時、別の病院から電話がかかってきて、○○さんのデータ教えてください、という。腹部のリンパ節が主の悪性リンパ腫で入院したのだという。こういうことがあると数日は食事が喉を通らないようになるものである。人づてに聞いてもらったところ、幸いこの女性は治療で完全寛解にはいったということであり、少しはほっとした。もう一例、90歳くらいの男性。腹痛の訴えで来院。血液検査異常なし。診察での所見なし。プラセーボ(乳糖だったと思う)を出したところ、一週間くらいして、先生ありがとうございました。すっかり痛みがとれました、という。やっぱりね、と思っていたら、ひと月くらいしたら、全身黄染で入院してきた。膵臓癌による閉塞性黄疸だった。だいぶ前の話でなぜ乳糖をだしたか覚えていないのだが、おそらくそのころ多くの症例でそれがうまくいっていたのだと思う(今は乳糖を痛み止めと言って出すことなどできない。薬局から詳細な効能の説明書が患者さんにわたるので)。最近ではプラセボとか安定剤をこのような症例に出すことはほとんどないが、40歳ごろには相当多く使用していたことがある。患者さんの非常に多くの症状が精神的あるいは心身症的なものであるという見方についてはその当時とあまり変わっていないが、そういう症状に対してどのように対応するかというやりかたについては、随分と変わってきているように思う。ひとことでいえば、以前はそういう症状をプラセボとか安定剤で治そうとしていたと思うのだが、最近では言葉で治そうという方向になってきているように思う。
 
 いずれにしても問題は「ヒューリスティクス」ということである。この言葉をはじめて知ったのはタレブの「まぐれ」だったように思う。この問題については第3章「救急治療室での「意識的平静」」で詳しく論じれているので、稿をあらためてその問題を考えてみたい。
 

医者は現場でどう考えるか

医者は現場でどう考えるか

ベナー看護論―初心者から達人へ

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