J・グループマン「医者は現場でどう考えるか」(2)ヒューリスティック

 
 ヒューリスティックは heuristic で、これ自体は形容詞で原義は「発見的」というようなことらしく、heuristics で名詞になるらしい。主にコンピュータ業界と心理学の分野で使われる言葉のようで、手っ取り早く近似解を得るやり方のことを指すようである。この言葉自体もそれほど一般的になっているとはいえないように思うし、日本語訳も定着したものはないようである。前にも書いたが、わたくしがこの言葉を知ったのは、タレブの「まぐれ」を読んだ時だから、まだ3年ほど前のことで、そのとき同時にカーネマンとトヴァスキーという二人の心理学者の名前と行動経済学という勃興しつつある学問分野のことも知った。カーネマンはノーベル経済学賞を受賞していたらしいが、そのこともまったく知らなかった。近代経済学は、自己の利益の最大化を目指して行動する合理的な「経済人」を仮定しているわけであるが、カーネマンらによれば、われわれは実際には全然自己の利益の最大化を合理的に計算して行動することなどはしておらず、さまざまなさまざまなバイアスがかかった偏見と予断と独断によって多くのことを判断している。そのような判断の仕方をヒューリスティックと呼ぶということのようである。タレブの「まぐれ」と「ブラック・スワン」から、それをまとめてみる。ちなみにこれらの本ではヒューリスティックは「経験則」と訳されている。
 タレブによれば近代経済学は「規範的科学」である。人にとっては合理的に行動するのが数学的に最適なのであるから、人間は合理的に行動すると仮定して研究すべきとする。一方、「実証的科学」では、人が実際にどう行動しているかの観察に基づいて研究する。カーネマンらはこちらに属する。カーネマンによれば、われわれが実際にとっている行動は規範科学的ではないが、それは必ずしも手間隙を省くためにそうしているのではない。
 わたしたちの思考法には二種類ある。ヒューリステッィクと合理性である。
1)システム1(ヒューリスティック):苦のない、自然発生的、連想的、すばやい、並列処理可能な、無意識的、情緒的、具体的、個別的、社交的、人格的システム
2)システム2(合理的):努力しなくては使えない、統制された、演繹的、遅い、順次処理の、意識的、中立的、抽象的、汎用的、非社交的、非人格的システム
 システム1は「直感」といわれるものに近く、「いい加減だが手っ取り早い。」 ヒューリスティックは手っ取り早いが、バイアスという誤りを常に内包する。
 システム2はわれわれが通常「思考」と呼んでいるものである。誤りを犯しにくく、誤った場合でも、どこで誤ったかを検討することができる。
 われわれはシステム1を採用していながら、システム2を使っていると錯覚しやすい。
 システム1を駆動するものは「情緒」である。最近の神経生理学の研究によれば、わたしたちの意識が危険を認識する前に、情緒システムがその危険の存在に反応することがよくあることを明らかになってきている。
 思考は大脳皮質、情緒は辺縁系が担当すると考えられている。
 これらの点を、進化心理学からある程度理解できるとタレブはいう。われわれの身体はわれわれが過去に生活した生活環境に適応しているのであって、現在の環境には適応していない。システム1はわれわれが過去の環境の中で生き延びてくる上で有用であった。「トラが来たように思うが、これはわたくしの幻想であろうか?」などと考えていては生き残れなかった。トラを意識する以前に危険を察知して逃げ出している生き物が生き残った。
 神経生物学者のダマシオによれば、情緒がなければ、われわれはほとんど何も決定することができない。情緒のおかげでわれわれは煮え切らない態度をとらずに何かを決定することができる。ルドゥーによればまず辺縁系で情緒を感じ、そのあとに新皮質で理屈をつける。
 
 「ニュー・イングランド・ジャーナル・オヴ・メディシン」の症例検討の記事などを読むと、アメリカの医者はなんとよく勉強していて優秀なのだろうと思う。しかしあれはシステム2の産物なのである。グループマンは医者は臨床の現場ではしばしばシステム1によって診断しているので、システム2に依拠している教育システムは、実際の臨床ではあまり役立たないということを主張する。これは実際の現場では診断にそれほどの時間をかけていられないということに起因するのだろうか?
 わたくしは外来で一日平均で50人前後の患者さんをみている。午前9時から午後4時くらいまで10分から30分くらいの昼休みをはさんでであるから一時間あたり10人弱、一人当たり8分前後という計算になる。患者さんの多くは高血圧や高脂血症というほとんど症状がないひとだから、診察・結果説明・次回の予約・次回の検査伝票の用意などを入れても3分くらいで大体はおわる。新患はさすがに3分では終わらないが、感冒などでは5分くらいのものだろうと思う。まれに真剣に話をきかなければならないひとがいて15分から20分くらいかかることがあるが、実は一番時間がかかるのが病気ではないという説明、少なくとも大きな心配はいらない状態であるということの説明であり、あるいは患者さんの家族の病気の相談、奥さんが手術を受けたのだが主治医の先生がとても忙しいようでなかなか話をきけない、こういう状態なのだがどう判断すればいいだろうかとか、実は息子が引きこもりでとか、こういう相談が一番時間がかかって20〜30分すぐかかってしまう。ただの便秘の患者さんに30分かかることもあるが(一日便がでないと不安で不安で、もう頭が熱くなってきて何も考えられなくなってしまう。便秘になるのは膀胱が下がっているために違いなどとしゃべりまくる患者さんに、なんとか納得してもらってかえってもらうなどというのは途方もなく時間がかかる)。要するに重大な患者さん、問題のある患者さんに時間がかかるということでは決してない。
 もちろん家族の相談といったことはそれほど多くはないが、あなたが心配している病気の心配はないという説明が一番大変で、外来にくる患者さんの多くが(医者からいうととても理解できない論理で)自分は何か重大な病気にかかっていると心配している、あるいは思い込んでいるひとだからである。こういうひとは最初の説明が肝心で、そこで患者さんの側の病気への心配を払拭できないと、延々と自分の本当の病気の診断をもとめて医者めぐりをはじめてしまうひとができてしまう。だからここには時間をかけざるをえない。医者が一番時間を使っているのは病気でないひとに対してであり、病院を訪れるひとの大部分は病気ではない。そして困ったことにそういう病気でないひとの大群の中にまれに本当の病気の人が混じっているのである。医者が実際の臨床においてはシステム1を採用せざるをえないのは、大部分の「患者さん」は病気でないからなのであり、もし病気であることがはっきりすれば、そこからシステム2が発動することになる。「ニュー・イングランド・ジャーナル・オヴ・メディシン」の症例検討がすばらしいのは、すでに病気であることが確実に分かっているひとにるいて十分時間をかけて「思考」しているからである。外来でも重症の黄疸のひとや喘鳴のひどいひとがくれば最初から病気であって、システム2の流れがすぐにはじまる。しかし病気でない大群のなかからまれにある本当の病気をあるていど効率よく探しだすためには、どうしてもシステム1を用いざるをえない。
 医学部の教育課程においては、病気のひとをどのように診断していくかを学ぶ。実際の臨床の場では多くの病気でないひとの中から本当に病気であるひとを探し出すことが最大の仕事になる。大学病院などの基幹病院には本当の病人が選別されて送られてくる。町にある診療所などではほとんど病気のひとがいない。前者はシステム2で動き、後者ではシステム1が主流になる。
 医療訴訟の多くもその点に起因している可能性がある。問題ある結果が生じたことから訴訟となるわけだが、結果が生じた時点ではすでに病気であることが確定している。しかしそのひとが医療機関にきた時点では、多くの「病気でない患者」のなかにたまたまいる「本当の患者」として混じっているわけである。そこの選別に失敗したことが訴訟の原因となることはあるだろうと思う。患者さんの側からすれば「本当の患者」である自分を正確に診断しえなかった医療者は無能であり、専門家として告発に値するということになるのであろう。しかし、医療者の側からすればそれは結果論であって、事前にそれを見抜くことがどれほど大変なことか理解できていない素人の論であることになる。
 こういうことを考えていると、今度の東日本大震災のことを連想せざるをえない。それは現実におきてしまった。そうであるなら、なぜそれを予知できなかったのか、あるいはそれを想定してもっと十分な対策をとってこなかったのかという議論が当然おきる。しかしそれは震災がなければ絶対におきていないはずの議論である。たとえば、今回の地震と同じ規模の地震あるいは津波を想定した対策がとられていたとする。それにもかかわらずいまだかつてない規模の地震がおきたのであれば、それは許容されるということになるのだろうか? 今度の震災がおき、調べてみると同じ規模の震災は過去千年内に数回起きていたことが明らかになったようである。しかし、その過去への関心は今度の震災によって生じたもので、震災がおきてない時点でそのような指摘をしても大きな注目をあつめることはなかったのではないかと思う。医療の場の誤診でも、問題となる症例は調べれば当然ある程度は(あるいは非常に頻繁に)存在するわけである。有史以来初めての症例を見落としたということではない。そうであるなら、それを診断できなかった医療者に問題があるという議論はなりたつのであり、その症例の診断を知ったあとでシステム2によってさかのぼって検討するならば、なぜ誤診がおきたのか理解できないということになる。
 
 それで第三章「救急治療室での「意識的平静」」からの症例。
 症例a:小学校4年の男の子。学校でふざけた友達が背中に飛び乗ったところ、激痛で倒れてしまった。第10胸椎に圧迫骨折がおきていた。なぜ80歳の老婆におきるようなことが10歳の子どもにおきるのか? すべての検査は正常。CTでも第10胸椎以外は正常。専門家に相談したら、「そういうことは時々みます」ということだった。数週間後。ふたたびその少年が痛みで運ばれてきた。脊椎に4ヶ所骨折があった。生検で急性リンパ芽球性白血病の診断が確定した。
 症例b:60台女性。呼吸困難で来院。38°C。頻呼吸。白血球は正常。電解質が酸性に傾いていた。レントゲン正常。不顕性ウイルス性肺炎と診断した。そのころその疾患が流行していたから。本当の原因はアスピリン中毒だった。
 こういう誤診は自分の予想に有利な情報を選択的に受け入れることから生じる。カーネマンらのヒューリスティックの一つで「アンカリング」と呼ばれる。複数の可能性を考えず、最初に考えた可能性を補強するような証拠のみを受け入れる傾向のことである。
 症例c:救急外来に転倒して足首が痛いという老人が来た。骨折はなく、痛み止めを処方して帰した。老人は結腸癌による貧血のために衰弱して転倒したのだった。
 症例d:過敏性大腸の診断を受けている30代の独身女性。しょっちゅう腹部症状をうったえて救急にくるので救急外来では有名な女性。またやってくる今までとは違うという。やはり検査では何もない。大丈夫として返した数時間後に救急車で戻ってくる。子宮外妊娠の破裂だった。
 第4章「プライマリーケア医に役割」で、ある小児科のプライマリケア医は「診療所に来る小児はほとんど全員が健康で、大した問題をもたない」といっている。その中でたまに混じっている重大な疾患を見落とさないことは至難の業である、と。一方、大学の病院で仕事をしているような高名な医師にはプライマリ・ケアなど誰にでもできると思っているひとも多い。また事実、どの病院にも患者さんからは評判がいいが臨床医としては無能というものがいるのも確かである。キャセルという医師の本に、専門レベルが高くなればなるほど医学的問題の複雑さは減少するということが書かれている。だから、複雑な病気を治せる専門家であれば、単純な病気なら当然治せるということはないのだ、と。グループマンもキャセルに同調して、医学の中で一番むずかしいのはプライマリ医学なのではないかという。
 
 おそらくプライマリケアのかなりの部分は偽医者がやっても大丈夫である。本当の病気はすくないのだから。しかしそこに交じっている本当の病気は偽医者には見落とされてしまうであろう。しかし本当の医師であれば、それを見落とさないかといえば決してそうはいえないことが問題である。
 本書を読んで感じるのはアメリカの医者も日本の医者もプライマリケアの場面ではあまり変わりはないのだなという馬鹿な感想である。ある程度診断がついた段階における治療の方策については医療は進歩してきている。しかし、そもそも多くの放置してもかまわないような些細な症例の中からどうやって本物の患者をみつけだしていくのかということついては医療はそれほど進歩しているわけではなくて、日本でもアメリカでも同じ苦労をしているのだなということである。そして私見によれば、プライマリケアの医者はそういう本物の症例については確実な診断まで下す必要はなく、何か変だなとさえ思えばいいのであって後は専門家にまかせればいい。そして「何か変だな」ということを感知することについてはここでいわれているシステム1がうまく働くということが重要なのではないかと思う。医学の現場で使われる「重症感」という変な言葉がある。何か普通ではない大変なことが患者さんの中におきているということを指す言葉である。では具体的に「重症感」とは何かといえばそれを言葉にすることはきわめて難しいだろうと思う。患者さんの顔つき、態度、状態などを総合した何かなのだが。本書でいわれているようにシステム1は多くの誤診のもとになるとともに、現実に臨床の場で問題症例をスクリーニングしていく有効な手段でもあるということなのだと思う。
 そしてプライマリケア医のもう一つにきわめて大きな仕事は、何でもないひとに何でもないと安心してもらうことでもあるのではないかと思う。何でもないひとを診るのがつまらないことであると思えてきてしまうと、おそらくプライマリケア医は苦役になってしまう。かなりの病気は今でも治療困難である。そうだとすれば一番たくさんの“患者”を治せるのはプライマリケア医であることになる。なぜなら何でもないと安心してもらうということは患者を健康人に戻すことなのであるから。
 

医者は現場でどう考えるか

医者は現場でどう考えるか