J・グループマン「医者は現場でどう考えるか」(4)

 
 第9章は医療の場における製薬資本の影響について論じている。
 ある内分泌専門医に製薬会社の宣伝担当がつきまとうところからはじまる。こういう職種は現在日本ではMR(Medical Representative )と呼ばれている。薬の情報を医師に伝える製薬会社の職員である。そのMRはその医師にテストステロン(男性ホルモン)の処方を何人かの患者に出してくれという。この医師は下垂体機能が低下して男性ホルモンの補充が必要な患者にならテストステロンを投与する。しかし「男性更年期」にたいする処方としては出さない。下垂体機能低下の患者にこの薬を処方することについては医師の間で異論はない。しかし、加齢にともなう自然な変化としての男性ホルモンの低下に対してテストステロンを投与することが必要かについては意見が分かれる(あるいはほとんどの医師はそれをしても意味がないと考えている)。
 もしも、加齢による自然な男性ホルモンの低下も疾患であると認識されるようになれば、膨大な患者が生まれ膨大な薬の需要が生まれる。女性の場合には更年期障害という言葉は定着している。しかし、男性更年期という言葉は一般的ではない。それは存在するのか? かりに若いときにくらべてホルモンレベルが低下していたとしてもそれを補充する必要があるのか? NIHの報告では男性更年期という仮説には科学的根拠はないとされた。しかし、いくつかの製薬会社は意図的に「自然な加齢過程」を「疾患」にしようとしている。
 たとえば、「内気である」といえば単なる性格についてであるが、それを「社会的情動障害」と名づければ立派な病気となってしまう。作業に没頭するような人は「強迫性障害」なのかもしれない。
 閉経後の女性のエストロジェン投与は一時活発におこなわれた。そのきっかけになった「永遠の女性らしさ」という本は製薬会社が医師にお金を払って書いてもらったものであることが後に判明している。しかしエストロジェン投与により乳がん発生が増加することが示されて以降、補充療法は急速に下火となった。だが、補充療法により冠状動脈疾患を減らせるという報告もでてきている。
 ノヴァルティスという大製薬会社の社長をつとめたひとが著者に語った言葉が紹介されている。「新薬が病気に有効で副作用が少ないならば医師を説得するのはむずかしくない。患者の一人か二人に使ってもらえればいい。あとはいいと思えば医者が自分で勉強して自分の治療に組み入れてくれる。医者が日常的に処方する薬は二十数品目にすぎず、その大半は研修時代かその後間もない時期に使いはじめたものであるという研究がある。それは、医者は自分の長い付き合いで十分にその効果や問題点を知っている薬を使おうとするからである。高血圧や関節炎の治療に最新の薬を使わなければいけないことはほとんどない。最新の薬といっても以前のものに些細な改善を加えたものがほどんどなのだから。これは製薬会社の商売からいえばなんともじれったいことであるが、一人の患者としてみればその方が安心である。関節炎の疼痛への薬の効果に患者の満足度が低いことはよく知られている。だから新しい薬がでると今度こそはというのである程度売れる。しかし高血圧の新薬がでたからといってすぐにそれを使ってくれという患者は多くない。今の薬で十分に効いているのだから。テストステロン補充療法は、製薬会社が文化的環境の変化を利用している例なのだ、バイアグラのように。バイアグラだって製薬会社もはじめは骨盤損傷といった少数の患者を想定していた。楽しみのために服用する大勢の男性が出てくるなどとは予想していなかった。しかも、テストステロンはバイアグラのようなはっきりとした効果も示されていないのだ。多くの医師は新薬について自分で深く調べることはしていない。だから情報の多くはMRから得ている。膝が痛いという患者がきたら何か薬をださないと別の医者のところに患者がいってしまうと心配して何か処方をだす情けない医者はいる。そういう医者がMRから聞いたばかりの薬を出すことはある。このような部分については宣伝がある程度役に立つ。しかし、MRにモンブランのペンをもらったからといってその会社の薬を処方する医者なんかに、自分はかかりたくないと思う。」
 きわめてまっとうな見解である。病院の廊下でうるさくつきまとってくるMRの方々にぜひ知ってもらいたいものである。
 さて著者はそれをきいたあと、ある外科医が学会とそれに付随したスキー旅行にいくところに会う。全旅行費、ホテル代から学会の登録料まですべて治療器具の会社もちである。モンブランのペンどころではない。だからといってその会社の製品を多く使うわけではない、とその外科医はいう。半分はその会社あとの半分は競争会社のものを使うのだと。グループマンが呈する疑問は、そもそもそれらの器具を使った手術自体が本当に必要なものであるのかどうかということである。特定の手術に対する高い報酬が不必要な手術を増やしていないだろうかというものである。たとえば腰痛に対する脊椎固定術である。これの効果については深刻な疑問があるが、一部ではいまだにおこなわれている。MRやCTをとれば多くの健常人で異常がみつかる(椎間板ヘルニアは27%)。そのほとんどには腰痛はない。そしてかりに疼痛がでても、多くは自然に軽快する。現在でも慢性腰痛の原因の多くはなぞのままである。急性の腰痛は長くても6週間で軽快する場合がほとんどである。慢性の場合が問題である。ここにさらに患者さんの側の事情がくわわる。持続する障害があると認定されれば、仕事を長期に休むことができる。そういうひとを「患者」にすることで利益をえている医者がいる。彼らは自分を「患者の味方」なのであるという。
 製薬会社と密接な関係をもつことは医学の進歩に不可欠なことであると主張している医師も一部にはいる。それを忌避すると有効な新薬が患者のもとに届かなくなるというのである。
 
 ここにいわれていることはきわめて重要なことで、製薬会社があるいは医者自身が病気をつくりだしているのではないかということである。
 ホメオスターシスという概念がある。健康な人間は体のさまざまな状態がある一定範囲内におさまるようにできており、そのホメオスターシスを逸脱した状態が不健康であり病気であるという見方がある。体温は健康であればある一定範囲内で変動するだけであるし、赤血球や白血球の数もそうである。しかし血糖とか血圧とかあるいはコレステロールとかはそうではない。その数値は連続的に変化していくものであるから、どこまでが正常であり、どこからが異常なのかという線引きは恣意的なものとなる。正常の範囲をせまくとれば病人が増える。病人が増えることは医者にとっても製薬会社にとっても(商売としてみれば)いいことである。わたしの若いことにくらべて正常血圧の範囲はどんどんと狭くなってきている。糖尿病の線引きも最近急に厳しくなった。
 とすれば、何をもって健康とするのか? 寿命を縮めるものものを悪いとするのだろうか? 現在肥満学会はBMI22を望ましい理想体重であるとしているが、長生きするのはもう少し太ったひとであるといわれている。最近前立腺癌の検診(PSAの測定)は意味がないのではないかという研究が報告された。PSA前立腺癌で上昇する。よってそれを測定すれば前立腺癌を早期に発見できる。しかし、それをしても寿命は延びないというのである。前立腺癌は顕微鏡的には癌なのだが、悪性度が低く放置してもいいものが多いのではないかという説である。そうはいってもあらゆる前立腺癌が悪性度が低いわけではない。しかし全部の前立腺癌が悪性度が高いわけでもないので、治療する必要もない前立腺癌を治療することでかえってマイナスなこともおきているのではないかという懸念である。この見解に対して日本の泌尿器科学会は反対して、前立腺癌の検診は有意義であるとしていた。確かなのはPSAの健診がなくなると泌尿器科の患者数は大幅に減るだろうということである。あるいは通常のレントゲン写真による肺癌健診は肺癌死を減らさないという研究もある。しかし日本ではまだ行われている。通常のレントゲンではなくCTをとればレントゲンよりも高率に早期の肺癌を検出でき肺癌死を減らせるという主張もある。しかし、CT検査の被爆量はばかにならない。その被爆が将来の別の問題を生じさせるかもしれない。
 一つの新薬を開発し市場にだすまでにかかる費用は膨大なものであるらしい。そうであれば、開発した薬を大いに売りたいというのは製薬会社からすれば当然のことである。しかしノヴァルティスのもと社長もいっていたように本当にいい薬なら宣伝しなくても売れる。高血圧についてのCa拮抗剤、消化性潰瘍に対するH2阻害剤などは宣伝しなくても売れた(もちろん、大宣伝はあったのだが)。しかし多くの新薬は画期的なものではなく、その効果はささやかな改善であることが多い。効果の改善はわずかであっても、新薬の薬価は高く設定されるので、成熟した薬より利幅が大きい。とすれば製薬会社も新しい薬を売りたい。ということでMRのひとが攻勢をかけてくる。その些細な進歩が非常に大きな違いであるように宣伝してくる。面会攻勢である。どうもMRのひとにとっては医者のところにいって説明してきたことだけで自分の成績になるらしい。それで自分が確かに会ったという証拠のためにボールペンやらメモ用紙を置いていく。MRのひとも薬の説明をすることが目的であるが、そのために時間を割いてもらったことのお礼として何かを置いていくというような意味合いもあるらしい。そういうことで外来が終わってやれやれと思っているところにMRのひとがおしかけてくる。最近宣伝が多いのがDPP4阻害剤といわれる糖尿病の新しい薬と認知症の新しい薬である。糖尿病薬のほうは最近新薬がなかったこの方面で久しぶりにでたまったく作用機序が違う薬なのであるが、そうであるなら宣伝しなくても売れるはずである。問題は数社からほぼ同じような薬がでてきたことで、製薬会社としては自分の会社のものを使ってもらわなくては意味がないわけである。医者だってどっちの会社のものを使っても別にかまわないわけだが、でも最初に使った薬を使い続ける傾向があることは確かなので、製薬会社としては最初が肝心ということになる。認知症のほうも今まで一種類しかなかったこの分野に最近別の作用機序の薬がでてきた。またしても数社からの発売による宣伝合戦である。正直今までの薬が有効という症例を経験していないので、今度もまたそれほど期待はしてないのだが、患者を持つ家族の方は必死で、「新しい薬がでてそうですね、ぜひ使ってください」といって薬剤名まで指定してくるケースまである。インターネット時代なので、検索すれば容易にそこに行き当たるのであろう。
 わたくしの専門に近いところでいえば、C型肝炎の治療薬として近々登場してくるプロテアーゼ阻害剤といわれるものがある。従来のインターフェロンリバビリン製剤だけでは有効な効果が得えられない症例があるので期待されているのであるが、説明をきけばきくほど副作用が多くきわめて使いにくそうな薬である。確かにそういう副作用情報を伝えてもられるのはありがたいし、製薬会社としてもこういう副作用の多い薬であればその情報を正確に伝えておかないと自分たちとしても困るということであるなのであろう。MRというものの本来の使命がまさにそういうことにあるのだが、そうまでして宣伝に来るのはこれがとんでもなく高い薬であるという側面も間違いなくある。まだ新薬の薬価は決まっていないのだと思うが、現在それと同等の使われ方をしている薬であるリバビリン製剤は一錠が765円位。一日3〜5錠が通常量だから、一日2〜4千円、月に6〜12万円、それを一年続けるのだから、80〜150万円、それと同じくらい高価なインターフェロンと併用して用いるのだから(一本3万円の注射を週一回だから月に12万、一年で150万くらい)、いままでの標準的な治療ですでに300万円くらいかかるわけで、今度の新薬はおそらくリバビリンよりも同額か高価になりそうで、しかもいままでの治療に併用するのであるから、今度の最新治療では一コースの治療が500万くらいかかるようになるかもしれない。もちろん保健であればその3割とかであるし、公費の助成もある。しかし、自己負担以外は保険料や税金で負担されているわけである。
 これは一例であるが、最近の新薬は有効ではあるがきわめて高価であるものが多い。たとえば悪性リンパ腫の画期的な治療薬であるリツキシマブは一回量が21万円くらい。大腸癌の治療薬であるベバシズマブが20万円くらい。これは一回量でそれを定期的にくりかえすわけである。リンパ腫の一部に使われるイブリツモマブ−チウキセタン配合薬にいたっては一回量250万円。(以上、薬の本を見ながら書いたが、写し違いや計算違いがあるかもしれない。とにかくやたらと高い薬がでてきているということをわかっていただければいい。) 最近の医療費の高騰は高齢化の進行によるものといわれることが多いが、このような高価であるがそれなりに効果もある新薬が次々と開発されてきている側面も大きいだろうと思う。高額医療制度とか公費負担であるとかによって本人の負担は一定程度に抑えられてはいるが、医療費総体としては確実に増えていくわけである。かつては医者にできることはほとんどなく、患者のベッドサイドで慰めの言葉をかけるだけという時代もあった。しかし時代は変わったのであり、それなりのことができる場合がかつてに比べてずっと増えてきている。そしてその代償として医療費の高騰ということがおきてきているわけである。
 患者さんの側が抱く医者の研究のイメージは新薬の開発にいそしむというようなものであるらしい。しかし、かってのペニシリンの発見のようなレベルでの新薬の発見という時代ではなくなってきており、分子標的薬のような理論的に膨大な経費をかけて開発されてくるものが主流になってくると、それは製薬資本のような巨大資本でなければ開発できないものとなってきている。巨大な投資によってようやく開発されてきた新薬であるならば、それをなんとしても売りたいというのは当然の欲求である。医者はそういう大きな潮流の中に巻き込まれている。宣伝する側はいい側面は多いに強調し、具合の悪いところはなるべく隠そうとするのは当然である。MRのひとは当然よい側面を宣伝してくる。そういう中で、ありうる負の側面はなかなかわれわれの耳には入ってこない。だから発売されて半年か一年は様子をみて何も悪い話が聞こえてこなければ使うというのがおそらく賢い行き方であるはずである。しかし新薬の宣伝は対医療者に対してだけではなく、マスコミ一般にもいろいろな形でおこなわれているので、患者さんのほうから「新しいいい薬がでたそうですね」といっていくる時代になってきてしまっている。
 そして医学の研究も製薬会社と無縁でいられなくなっているという側面もある。新しい薬が市場にでるまでには何相にもわたる臨床試験が必要になる。その臨床試験は製薬会社単独でおこなうことは不可能で、患者をもっている医者との連携が不可欠である。そして医者を養成する場であり医者に対して大きな統制機能を持っている大学の医学部が多くの場合、治験をコーディネートすることになる。そうすると大学医学部と製薬会社には持ちつ持たれつの関係ができあがることになる。そして医療行為のガイドラインを作るのが大部分大学医学部の医師であるとすると、そのガイドラインに微妙に製薬会社の利害が入ってこないだろうかという懸念が生じてくる。たとえばこのくらいの血圧であれば薬を使ったほうがいいがいいという基準が低ければ低いほど、血圧の薬は多く売れることになる。もちろん、この位の血圧であれば薬を使うという基準を決めるのは製薬会社の意向ではなく、それにかんする研究論文である。しかし、その根拠となる研究の多くは製薬会社が(影の?)スポンサーなのである。そうであれば、薬を使ったほうがいいという論文は発表されるが、使わなくてもいいという結果になかった研究は発表されずお蔵入りになるかもしれない。現在の研究論文はかならず発表者がその研究分野の製薬会社などからの利益供与を受けていないということを明記しなければいけなくなっている。しかし製薬会社との関係でグレーゾーンの部分はきわめて大きい。製薬会社のコンサルタントをしているなどというのは論外である。しかし、ある講演会で講演した謝礼などというのは利益供与だろうか? 正当な報酬だろうか? 著者クルーグマン自身の病院では、高級レストランでの夕食とか会議での講演に対する謝礼はまだOKとされているのだそうである。
 最近、日本でもこういうことは厳しくなってきていて、製薬会社がスポンサーになっている勉強会は会費が徴収されるようになった。しかし多くは千円である。ホテルの一室を借り切って、会の後は立食の食事がでる(以前は懇親会といったが、最近では情報交換会というようになった)会の会費が千円で足りるはずがない。こういう会をやって製薬会社の方に何かメリットがあるのかどうかはよくわからない。その場は大赤字なのであろうが、医者と顔つなぎをしておくことが後々利益になるとしているのかもしれない。あるいは泣く泣くやっているのかもしれない。医者が製薬会社にたかっているという側面も間違いなくある。大学などで製薬会社と恒常的に接触していると、そういうことが当たり前になってしまうのかもしれない。あるいは本当に自分が偉いように思えてきて、そうしてもらって当然と思うようになってしまうのかもしれない。医者は若いときからひとに頭を下げられることに慣れてしまうので、こういう部分が麻痺しやすいのかもしれない。とはいっても、製薬会社は儲かっていて、MRのひとも医者よりも高給取りなのであるという話もきくのではあるが。いづれにしても製薬会社という巨大資本と医者という零細企業のあいだの情報の非対称性というのは途方もないものになりうるはずで、いくら心していても、情報を操れてしまうという危険はつねに非常に大きいし、これからますます大きくなっていくだろうと思う。
 

医者は現場でどう考えるか

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