丸谷才一「持ち重りする薔薇の花」

    新潮社 2011年10月
 
 丸谷氏の最新の長編小説。
 丸谷氏の長編は、「エホバの顔を避けて」1960年、「笹まくら」1966年、「たった一人の反乱」1972年、 「裏声で歌へ君が代」1982年、「女ざかり」1993年、「輝く日の宮」2003年、と「たった一人の反乱」以降は大体10年に一度刊行されている。今度は8年目ということになる。氏の年齢からいって「輝く日の宮」が最後の長編になるのかなと思ったら、これが刊行された。
 素人の特権として、今までの長編を5段階で評価するなら、「エホバの顔を避けて」4、「笹まくら」5、「たった一人の反乱」3、「裏声で歌へ君が代」2、「女ざかり」1、「輝く日の宮」3、そしてこの「持ち重りする薔薇の花」は2という感じだろうか?
 「たった一人・・」以降の長編が何か緊張感に欠けるものになってきているのは、よく言えば氏が自信をもった、悪く言えばいい気になってしまったということにあるのではないかと思う。氏は自分の書く小説が西欧の文学の正統に連なるものだと確信している。日本で文学の主流とされているものなどは隔離された地域で畸形的に進化した生物のようなもので、伝統の主流とはかけ離れた異常なものであると信じている。しかし、氏の文学的出発の時点では、氏の書くものは頭でっかちな作り物というような扱いをされたわけで、その当時の文壇主流からは相手にもされなかった。それが「たった一人・・」の辺りから、自分の書くようなものが文壇のなかでも主流となったというような自信を持つようになったのだと思う。それで緊張感がなくなって、話が単なるお話になってきてしまったように思う。「エホバ・・」の主人公も、「笹まくら」の主人公も緊張している。自分のようなものでも何とか生きることを許してほしいと思っている。「たった一人・・」から後は、自分こそは正しいのであると居直ってきている。それでも「たった一人・・」では、正しいものたちは「たった一人」であり、「裏声・・」では本当のことは「裏声」でしか語れなかったのだが、「女ざかり」に至って、自分のあり方への疑念というものがどこにもなくなってしまった。書かれるのが新聞社内部での争いとか、大学や学界内部でのもめごととなり、ついにこの「持ち重り・・」では弦楽四重奏団内部での争いにまで縮小してしまった。
 この小説を読んでの最初の印象は既視感があるなあということで、それは新潮社の雑誌「考える人」でときどきやっている、湯川豊氏を聞き手とするインタビューと称する丸谷氏の独演である。丸谷氏と湯川氏が議論を戦わせるというのではなく、丸谷氏のご高説を湯川氏がうけたまわるといでもいうようなスタイルになっている。そこではゴシップ的にいろいろと面白い知識が披露されているが、丸谷氏の文学観を一方的に伝達する場となっていて、湯川氏と会話しながら丸谷氏が考えるということがおこなわれているわけではない。
 この小説は出版社の重役に、元経団連会長が、自分がひょんなことから名付け親となった弦楽四重奏団のメンバーにおきた秘話(というほどの大袈裟なものではないように読んでいて思えるのだが)を語るというものである。どう考えてもここでの聞き役は「考える人」のインタビュアーの湯川氏に重なってしまう。とすると当然、元経団連会長は丸谷氏に重なってしまう。自分の文壇における地位は経済界における経団連会長のようなものだということなのかもしれない。
 まだデビュー前でジュリアードで勉強中の日本人男性4人組みが楽団名をどうしようかと悩んでいるところに偶然いきあったこの元経団連会長が提案する名前が、Blue Fuji Quartet というもので、それはいい、素晴らしい、ということになりあっという間にそれに決まってしまうのだが、わたくしは全然いい命名とは思えない。それがまず生じる違和感。
 語られるカルテットの4人とその恋人や妻たちの間でおきる喧嘩や諍いや色模様が格別面白くもおかしくもないどうということもない話であるのがこの小説で一番困るところなのだが(丸谷氏はそうは思っていないらしい。しかし、面白いのはそこで披露される雑学的知識の方であって、このカルテット奏者とそのパートナーたちの間でのできごとは小説的面白さを欠くのである。フォースターが「小説の諸相」でいう平面的人物というのは言い過ぎかもしれないが、カルテットの4名は世間知らずの芸術家の中での理論派、あるいは心情派といったといった部分を分担しているだけのように見えるし、そこにバリバリのキャリアウーマン女性(アメリカ人)といったやはり平面的人物がからんでくるだけのように見える)、そうかといってそれを語る枠である経団連元会長と出版社の重役におきる物語というのもどうということのないもので、だからここで提示される物語の中で基本的には誰も変わらない。小説というのは、そのお話の進行の中でそこに登場してくる人物たちが何事かを経験して変わっていくというものなのではないだろうか? 変わる人物が立体的人物なのではないだろうか? 人物が変わらないから、ここで語られる話が20年以上にもわたるにもかかわらず、その時間が感じられない。時間の流れが感じられない長編小説というのは成功作とはいえないように思う。
 カルテットの話であるから当然音楽論がでてくるのであるが、それもなんだか変なものが多い。たとえば、カルテットのひとり(ビオラ)が他の四重奏団に臨時に加わって五重奏曲に参加する場面があって、そこでこんなことが言われる。「五重奏曲そのものが、四重奏曲と違って緊密な構造ぢやなくて、奏いてて気楽だつてこともあるらしい。」「だからモーツァルトの『クラリネット五重奏』があんなに人気あるんですよ」「つまり四重奏といふぎりぎりの限定ぢやなくしたせいでまづ一つ楽になつてるし、その上、弦だけといふ同族楽器をそろえる制約をはづして管楽器をまぜることにでもう一つ気持ちがほぐれる。その解放感によつて、作曲家も演奏家も聴衆も羽根をのばして楽しめる。」 別のところで、ある財界人がピアノ四重奏をピアノ4台の演奏と思ったことが笑われているが、それと同じような間違いがここにはあるように思う。弦楽五重奏曲が弦楽四重奏曲より緊密ではないなどということがあるだろうか? 内声が一つ増えることによってより緊密になるのではないだろうか? そして弦楽五重奏曲とクラリネット五十奏曲は全然違うものであって、後者は弦楽四重奏という4つで一つの楽器対クラリネットなのである。モツアルトのクラリネット五重奏曲の奏者が気楽に羽根をのばして楽しんで演奏しているなどということがあるだろうか? 別のところに「合せるといふ機能を音楽の大事なものと見るなら、一番基本のところに弦楽四重奏が来るのは納得がゆくことなんですよ。同族楽器四つで必要最低限を、うまい具合に、きれいに、しかも十分に押へてますからね。」というのがでてくる。音楽の一番基本的なところに弦楽四重奏曲がくるのは、西洋音楽は和声を中心とした音楽で、作曲の修練は常に四声体でなされるためなのではないだろうか? 旋律があって、それを支える和声の低音がある。さらに和声を構成するための内声に二つは必要となる。音色の違いはピチカート以外には期待できないのだから、弦楽四重奏曲は音楽そのもので勝負するしかない。とすればそれが音楽の一番基本的なところにくるのは当然である。素人が音楽について論じている場面なのであるから、いくら変なことを言っていてもいいわけではあるが(もちろん、わたくしもまた素人であるのだが)、素人のわたくしからみても変な議論である。
 この本は10月末の発売が予告されていて、本屋に見に行ったがおいていなかった。てっきり新潮社が「文化勲章受章!」などという帯にあわてて変えていて、それで発売が延びているのだろうと思っていた。そうではなく、数日していったら隅の目立たないところにひっそりと数冊が置いてあった。文壇の経団連会長であってもその小説が売れるというものでもないらしい。このごろは村上春樹以外の文学作品は全然売れないのだろうか? 龍さんの「歌うクジラ」もあまり売れなかったみたいだし。どうせ売れないのなら、もっと文学に淫した、もっと前衛的で、もっと読者をえらぶナボコフの小説のようなものを書くほうがいいのではと思った。それともこの小説には、読み巧者だけがわかる様々な仕掛けが随所にあって、わたくしにはそれがわからないだけなのだろうか?
 装丁は和田誠さん。最初は4人の怪物がいるのかなと思ったが、よく見ると、薔薇の花びらと弦楽器の駒(というのかな)を重ねたものらしい。しかし何だか意匠倒れという感じで、華がない。せっかく題名に「薔薇」が入っているのだから、もっと派手であでやかな装丁にすればいいのに。背表紙には、富士山と弦楽器をかたどったBlue Fuji Quartet の図案のようなものがあしらわれているが、これも何だか子どもっぽい。今一つ愛情が感じられない造本である。「たった一人・・」などは、もっとずっと派手な造本だった。
 

持ち重りする薔薇の花

持ち重りする薔薇の花