今日入手した本。

 

「昔はワルだった」と自慢するバカ (ベスト新書)

「昔はワルだった」と自慢するバカ (ベスト新書)

 
 氏のブログでこの自著について、「文学俗物が好きなのは、ボルヘスとか吉田健一とか内田百間(正確には門構えに月)とか、尾崎翠とか須賀敦子とかで」とかいうあたりを一番読んで欲しかったというようなことを書いていて、それを読んで「ふ〜ん、思い当るなあ、自分のことだなあ」と思った。探して本屋の店頭をときどき見ていたのだが、なかなか見つけられなくて、一昨日、ようやく、東京駅「丸善」で見つけることができた(だから正確には一昨日入手した本である)。なおブログでは白洲正子の名前も俗物が好きなひととして挙げられている。
 こちらは吉田健一信者であるし、最近ボルヘス須賀敦子を読んだばかりである。小谷野氏がいっているのは「もう死んでいて比較的マイナーだけれど凄い、と言われているような文学者」を好む(ようなふりをする?)のが文学俗物なのだということなのだから、別にここに挙がった名前でなくてもいいのではあろうが、わたくしなどから見ると、この定義に一番よくあてはまるのは石川淳ではないかという気がする。
 わたくしは内田百間はほとんど読んでいない。「日没閉門」とかを読んだ気がするが、何だかわざと変人を装っているひとという気がしないでもない。借金帳とかいうのを作っていたのはこのひとだっただろうか? 尾崎翠というひとはまったく読んでいない。どんなひとかも知らなかったが、今調べたら小説家らしい。ボルヘスは小説は全然駄目で読めない(作り物めいた感じが強すぎる)。最近講演記録を少し読んだが、「狂」の部分はほとんどないひとなのではないかと気がした。それにくらべると吉田健一須賀敦子は「狂」の部分が濃厚にあるひとだと思う。そういうところがないひとは読んでもどこかで食いたりない思いが残る。白洲正子もほとんど読んでいないが、印象は女小林秀雄
 このタイトルは「昔はワルだった」と自慢するような奴を氏は嫌いということなのだが、「昔はワルだった」というのが、もっばら「俺も若いころは女を泣かしたものだった」という方向に限られている。しかし、わたくしの世代では「ワルだった」というのは「俺も若いころはゲバ棒をふるって機動隊とわたりあったものだぜ」というほうがずっと多いように思う。その方向はとくにとりあげられてはいない。
 それから、若いとき、桑田佳佑の「いとしのエリー」が大嫌いだった、何しろ「泣かせたこともある」だからなどと書いてある。「渚のシンドバッド」ほどではないにしても「いとしのエリー」の歌詞は読んでもなんだかよく理解できないもので、これは演歌のべとべととかフォークソング風というのかニューミュージック風というのかの歌詞の感傷とはことなる、カラッとした歌詞を書くということだけを目的で作ったものではないかと思っている。それでこの「泣かせる」も演歌でいう「女泣かせ」とか「昔はワルだった」の「俺も女を泣かしたものだった」という方向とは全然違う、良くは知らないけれど恋愛でしばしば生じるとされているちょっとした気持ちの行き違いとかいう程度のことをいっているのではないかと思う。
 ざっと通読して一番感心したのが、歌田明弘という人の言葉として紹介されている「かつて日本人はアメリカ人になりたいと思っていたが、今ではイギリス人になりたいと思っているのではないか」というもので、まさに自分のことだなと思った。もっとも一度もアメリカ人になりたいと思ったことはない。俗物根性というのは下層のものが中流に、中流が上流にあこがれることだと思うのだが、この歌田氏の言葉は雑誌「ユリイカ」のフォースター特集の編集後記にあるらしい。フォースターの「ハワーズ・エンド」に、「この小説にでてくる人間は紳士か紳士のふりをしようとしている人間であり、あまりに貧乏な人間はでてこない。そういう人間をあつかうのは統計学者か詩人である」という部分がある。あまりに貧しいひとはスノッブにもなれないのである。この「紳士のふりをしようとしている人間」こそが俗物であり、本当の自分とみせかけようとしている自分の乖離がない本音だけの世界で生きている登場人物では、小説にはコクがでてこない。
 そしてイギリスのほうが日本よりもふりをしようとする生き方に幅がありそれだけ俗物にとっても努力のしがいがある社会であるような気が、わたくしにはしている。日本ではセレブなどというのがすでにあこがれの対象ではなく、いささかの揶揄と軽侮の対象となっている。成り上がりとか、偽物とかいうニュアンスを含んでしまう。そして三代目は唐様で書きながらどこかの長屋に逼塞している(吉田健一もまた唐様で書く三代目だったのだろうか?)。日本の貴族は官僚貴族であって領主貴族でなく、権利だけはもっているかもしれないが、土地に根づいていない。「ハワーズ・エンド」のような家屋敷が主人公であるような小説は日本ではなかなか書けないのではないだろうか? 逃亡奴隷と仮面紳士というようなことをいったのは伊藤整だったように思うが、仮面紳士だけでは困るので、どこかに本当の紳士がいることを信じていない作家が書いた小説は背丈が低くなる。
 感じたこと、一つ二つ。
 鴎外の「舞姫」は天方伯というのがでてくるのがポイントで、読む人が読めばこれは山縣有朋であることは明らかで、「俺の後ろには山縣有朋という大変な後ろ盾がいるのだから、うかつなことは言わない方が身のためだぜ」という恫喝を天下に知らしめることが執筆の動機だったのではないだろうか?
 ドストエフスキーロシア正教を背景にしていたことは確かだと思うが、ロシア正教カトリック(あるいはその分派としてのプロテスタント)とはまったく異なる宗教で、日本が明治以降受容した西欧の根幹にある思想や思考法(それは多くカトリックに通じている)になじめない感じや違和感を感じていた多くのひとにとって反=西欧の思考法の一つのよりどころを与えたのではないだろうか? だからロシア正教信者といった狭い範囲のひとにだけでなく、多くの人に訴えるものをもったのではないだろうか?(たとえばフォースターが「小説の諸相」で引用している「カラマゾフ」でのドミートリィが見る夢) ごく戯画的にいってしまえばロシアの美しさ(とその根っこにあるロシア正教)を滅ぼそうとする西欧の野蛮(とその根っこにあるカトリック)の対立とでもいったような。大審問官でいえば、大審問官がカトリックで、再臨したイエスがそれと対立するすべての象徴。わたくしは福田恆存からロシア的なもの(氏のいうスラブ)を教えられたのだけれども(今から思うと、「近代の超克」の一変奏なのであると思うが)、それにもかかわらずカトリック的なものを否定できなかったところが福田恆存の弱点だったのではないかと思っている(原罪意識は否定したが、宇宙感覚といったものは否定しなかった)。それに較べると吉田健一カトリック的なものに一切の劣等感をもたなかった人間で、それが吉田健一の強さなのではないかと考えている。
 小谷野氏はジョージ・ワシントンの桜の木のエピソードについて「悪いことをして、正直に言ったから誉められたというのでは、悪いことをしなければ褒められる機会がない、ということになるから」「子供のころ、納得がいかなかった」と書いている。これこそが福田恆存の主題であって、「これでチェーホフが敵としてゐたものの正体が明らかになつた―自己完成、良心、クリスト教道徳、そしてその背後にひそむ選民意識と自我意識。ロレンスがヨーロッパの伝統たるクリスト教精神のうちに認めた矛盾もまたそれであつた。なんぢの敵を愛せよ、なんぢ自身の徳を完成するために―ひとたびこの矛盾に気づくや、チェーホフの心は執拗にその矛盾を固執した。」「(チェーホフは)自己の内部に、本来的にかれ自身に属するものと、さうではないものとを発見した。さらにスラブの魂とヨーロッパからの借物とを識別した。そして生まれながらにかれ自身に属さぬもの、西欧に帰すべきもの、それをひつくるめておのれの敵とみなしたのである。」「ネフリュードフもラスコリニコフも相手を愛し、相手に誠実であるためには、そのまへに相手を裏切り、相手を玩弄しなければならなかつたのだ。そんなばかなことがどうしてありうるのだらう。・・ラスコロニコフやネフリュードフを主役と見たら『罪と罰』も『復活』もまつかなうそさ。・・もしぼくに才能があつたらそのあとを書くね―ふたゝびソーニャを捨てるラスコリニコフを、カチューシャに冷酷になるネフリュードフを。・・ぼくはあらゆる「蕩児帰る」式の説話を信じないね。蕩児は帰るかもしれんが、またすぐ出てゆくだけのことだ。・・ところで、問題はソーニャだよ。カチューシャだよ。つまりスラブ人といふことになる。ラスコリニコフ対ソーニャ、ネフリュードフ対カチューシャは、西欧対スラブといふことなんだ。」
 悪いことをしてから懺悔して善人になるのが西欧(カトリック)、初めから善であり悪をなさないのがスラブという図式。この図式なら随分とスラブという言葉の応用範囲は広いことになる。
 若いころ遊びまくってワルの限りをつくし、歳がいってからはそれを深く反省して懺悔し聖人の列につながるというのは一粒で二度おいしい、なんともうらやましい生きかたである。わたくしのように良家のお坊ちゃん(笑)で若いときに全然ワルなんかできなかった人間からみるともう許せない存在である(「昔のお坊ちゃま、過保護児童が綿あめなんか買っちゃいけないなんて、縁日なんかへ行っても、厳密に言われていると、あんまり言われていると、本当に買えないんですね。綿あめ買ってる人がいると、もう品が悪い人だと思ったりして、でも、綿あめ買って食べてみたいんですね。と、神社の縁日なんかに行って遠くから見てるわけですね、お坊ちゃまは。そして、買おうとして、ヨロヨロと行くと、今の言葉でいうお手伝いさん、当時の女中さんが、「お坊ちゃま」なんて見張ってるんですね。ドキッとして、心臓が止まりそうになってやめるとか、そういうんですね。」(篠沢秀夫「フランス文学講義 1」))。
 わたくしはキリスト教については何もしらないし、ましてロシア正教においておやであるが、福田恆存のいうところを見ると、正教には原罪という考えはないのであろうか? 西欧のキリスト教思想の最大の陥穽は原罪意識にあって、西欧の文明化とは原罪意識の消滅という方向にあるのではないかと思う。日本で「悪」というようなことを論じると、下手をすると、せっかく西欧の知識人が数世紀にわたってしてきた努力を水泡に帰させてしまうことにならないかが心配である。
 などといろいろ書いているが、本書を読んでいない方はさっぱり理解できない部分が多いであろう。この本は単に『「昔はワルだった」と自慢するバカ』について論じた本ではなく、「悪」とは、「宗教」とは、「俗物」とは、といったきわめて広い範囲の問題を論じている。これだけ浩瀚な話題を新書サイズのなかで論じているので、それぞれがこれからようやく議論が熟するという手前で止まっている印象がある。福田恆存も「俗物論」のほうにでてくる。わたくしとしては、「宗教論」のほうでとりあげてほしかった。