筒井康隆「みだれ撃ち涜書ノート」

    集英社 1979年
 
 約150冊の本の書評や解説を集めたもの。1979年初版だが、わたくしが持っているのは、1980年刊の第3刷。山藤章二装丁。
 評の長短はさまざまで、3年半にわたる感想なので、八日間で一冊、不勉強といわれるかもしれないが、しかし読んだが感想を書かなかった本をいれるならば3〜4倍になり、それならまあまあの読書量なのではないかとしている。
 これを思い出したのは小谷野敦氏の「「昔はワルだった」と自慢するバカ」に檀一雄の「火宅の人」のことがでていたからで、そういえば筒井氏の「みだれ撃ち・・」には面白い「火宅」論があったなあと、あらためて引っ張り出してきて読み返してみた。

 五人の子供を持ち、そのうちのひとりは全身麻痺で寝たっきり。さらに三人は、まだ幼児である。妻も、愛していないわけではない。こういう家庭を抛りっぱなしにして愛人を作り、その愛人とアパートで生活をしていてあまり家には帰らない。さらにその愛人を抛りぱなしにして、別の女と共に九州を一カ月も放浪する。こんな真似があなたにできるか。

 というのが書き出し。筒井氏は自分にはできないという。それは結果が見えているから。しかし、何事も経験で無理やりやって見ようとする場面を想像する。

 「愛人とアパートに棲むよ」と、妻に宣言する。
 妻はほっとした表情になる。「一日中家に居られるので、片づかなくていつも困っていたの。そうしてくだされば助かるわ。子供もその方が、勉強できるし」
 神戸のバーの、ちょっと可愛いなと前から思っていた女性に相談を持ちかける。「アパートで同棲しないか」
 「いいわよ。月に三十万円もくだされば。そして、わたしがいざ結婚する時に文句をいわないという条件であれば」

 まあまあの条件である、と思って同棲をはじめるのだが、アパートには資料がなく仕事がうまく進まない。家に資料をとりにかえり、ついでに家でもちょっと仕事をする。またアパートに帰る。仕事の効率がどんどん落ちる。この生活を小説に書こうとするのだが、SFばかり書いてきたのでうまく書けない。往復の電車の中で考える。「おれ、いったい何やってるのかなあ」 まことにつまらない。
 では檀一雄にはなぜそれができたのか? そういう生活が好きだったのだろう、と筒井氏はいう。好きでなくて、なんで出来るものか。だがそうだとしてもなぜ好きだったのかはわからないというのだが。小谷野氏は「真似をしてはいけない」などと書いているが、真似しようとしても簡単にできるものではないということで、こういう生活に適性があるひとというのはそんなには多くはないはずである。まったく適性がない人間であるわたくしは実は「火宅の人」を読んでいない。
 しかし、ここで取りあげられている本は結構読んでいる。それをあげてみる。
 山下洋輔「風雲ジャズ帖」○
 日高敏隆「チョウはなぜ飛ぶか」○
 イーデス・ハンソン「花の木登り協会」
 渡部昇一「知的生活の方法」○
 村上龍限りなく透明に近いブルー
 山崎正和「不機嫌の時代」
 山田風太郎「幻燈辻馬車」○
 笠原嘉「精神科医のノート」○
 日高敏隆「エソロジーはどういう学問か」○
 高橋たか子高橋和己の思い出」○
 渡部昇一「レトリックの時代」
 丸谷才一「遊び時間」
 小林秀雄本居宣長
 A・ストー「ユング」○
 栗本薫「ぼくらの時代」
 吉行淳之介「夕暮まで」
 荻野恒一「原存在分析」○
 M・シューヴァル/P・ヴァールー「テロリスト」
 
 18冊であるから結構な打率である。その内の○をつけたものは、はっきりとは覚えていないが、おそらく本書に教えられて読んだと思われるものである。
 日高敏隆さんの名前を知ったのは本書によってであり、その「エソロジーはどういう学問か」によってローレンツを知り、「攻撃」を読んで、動物行動学にのめり込んでいったのではないかと思う。
 渡部昇一の「知的生活の方法」を何で読んでみる気になったのか覚えていなかったが、どうやら本書によってかもしれないという気がしてきた。
 山田風太郎を読むようになったのも、ひょっとすると本書に教えられてというか煽動されてであったかもしれない。
 精神医学についても笠原氏の本で「メランコリー好発型性格」というのを知ったのだし、R・D・レインについても本書で知ったのではないかと思う。
 最近、こういういろいろと幅広い分野の面白い本を教えてくれる本がとても少なくなったような気がする。
 

みだれ撃ち涜書ノート (1979年)

みだれ撃ち涜書ノート (1979年)