B・ゴールドエイカー「デタラメ健康科学」(2)

 
 第6章「栄養評論家の作り話」
 わたくしはあまりテレビをみない方なので、日本の栄養評論家といって頭に浮かぶ顔はないが、イギリスでは有名な栄養評論家というのがいるらしい。著者はかれらの論法がいかにおかしいかを詳細に示す。
 フルーツジュースが寿命を延ばすなどという評論家がいる。それが研究によって明らかにされたなどというがそんな研究はどこにもない。著者によれば彼らは嘘をついているのではない。嘘をつくほど頭はよくないという。嘘をつくひとは真実が何かを知ったうえで嘘をつく。デタラメをいうひとは何が真実かなど考えてもいない。ただ相手を感心させようとしているだけである。
 彼らは観察データから勝手な因果関係をみつけてくる。交絡因子(ある因子がある結果をもたらしたように見えても、そこに別の因子が関与してそう見えているだけであることがしばしばある、その因子)のことなど考えたことがない。わたくしが昔どこかできいた話。ある学者がある病気は日光を浴びることが少ないとおきると考えた。それで患者が住んでいる家の窓の面積と病気の相関を調べた。窓が小さいほど病気が多かった。日光を浴びることが少ないと病気になることがそれで証明されたと考えた。実は貧困による栄養不良が原因であった。貧しいひとは小さな家に住み、その結果窓も小さい。豊かなひとは広い家に住み窓の面積も多い。
 彼らは実験データから短絡的な結論を引き出す。培養癌細胞に洗剤をかけたら癌細胞が死んだ。したがって洗剤には抗癌剤としての作用がある、というほど極端なことをいわないにしても、まあそれに近いことをいっている。
 著者がいおうとしているのは、栄養評論家が大衆をだます手口というのが、ほとんど製薬会社が医者をだます手口と同じなのだということである。理論では効くはずである(この薬品は○○レセプターと結合します)、血液データが改善している(その結果、それが治療効果と結びつくということをいわなくてはいけないはずなのだが、実際にいわれているのはしばしば、このビタミン剤をのんだら血中のビタミン濃度が上昇しましたというだけのことである)などなど。
 彼らはまた自分に都合のいいデータだけを選ぶ。どんなばかげた考えでも、この広い世の中では、それを支持する「博士」がひとりくらいはいるものである。
 栄養評論家は抗酸化物質が身体にいいと主張している。本当だろうか? また老化の原因が活性酸素にあるなどといっているひともいる。
 なぜ抗酸化物質がいいと思われるようになったのだろうか? 野菜や果物をたくさん食べるひとは長生きするようだ。野菜や果物には抗酸化物質がたくさん含まれている。抗酸化物質の一つであるβカロチンの体内濃度が高いひとはがんになりにくいという研究もあった。ビタミンEの血漿濃度が高いほど心臓病になりにくいという研究もあった。
 しかし肺がんなどを抑制するという目的ではじめられたβカロチンとビタミンEを投与する研究では、プラセボ群よりも服用群の方で肺がんと心臓病が多かった。
 現在では抗酸化サプリメントは効果がないかむしろ有害であるとされている。しかしこのような研究はほとんど世間では知られていない。サプリメント業界が圧力をかけているからである。かられはそういった研究に方法論的欠陥があるなどといういちゃもんをつけるが、かれらの目的は議論ではない。その研究に「疑惑」をもたせ、賛否両論があるように思わせ、その「事実」はまだ承認されているとはいえないという雰囲気さえ作ればいいのである。これは「疑惑の製造」と呼ばれる手法である。
 
 わたくしが中学か高校のころ、「グロンサン」という薬が売られていた。肝臓で解毒に関与しているグルクロン酸を成分とするもので、それを内服すれば肝臓の解毒が活発になりそれで元気になるという理屈であった。それを批判したのが高橋晄正氏で、要するに内服したグルクロン酸は肝臓にとどかないということであるらしかった。その批判により爆発的に売れていた「グロンサン」はあまり売れない商品となってしまったようである。その話と関係するように思うのは現在さかんに売られているグルコサミンである。それが関節に必要な成分であるとしても、内服したグルコサミンがはたして関節に到達するのであろうか?
 高橋晄正氏はいろいろと思い出のあるひとである。駒場教養学部では医学にかんする授業はなかったのだが唯一の例外が「統計学」の授業で、それを高橋氏が担当していた。実にうれしそうに統計学の講義をしていて、医学が科学となること、それすなわち統計学を学ぶことといったことを力説していた。なにしろその頃の薬は、学会のボスが俺はこの薬をつかったら効いたといったことがその有効性の根拠といったものが多く、二重盲検どころの騒ぎではなかったのである。わたくしがいまだに漢方薬というものに今ひとつ信用がおけないように思う一つの理由は、それが一切の薬効データなしに2千年の歴史が示す有効性などという理由で学会ボスの圧力で一括して保険収載されてしまった歴史をもつからである。「グロンサン」だって多くのひとを元気にしただろうと思うのである。しかしそのことが「グロンサン」が有用な薬であることを示すわけではない(ちなみに高橋氏は晩年、漢方薬批判を展開したらしい)。高橋氏はその後、東大紛争(闘争)時代にT君誤認処分事件にかかわり、造反教官のひとりとなってしまった。
 高橋氏は政治についてとてもナイーブなひとだったのだと思う。そして科学というものについてもとてもナイーブなひとでもあったのだと思う。わたしがときどき高橋氏のことを考えるのは、そこに医療の科学化ということを追及するひとの一つの典型をみるように思うからである。つまり医療を科学とするということを目指していたひとがいつの間にか(あるいはあっという間に)ほとんど反=医療といった方向にいってしまう例がそこにあるからである。医療というのはとても雑多な営為で科学というようなことだけでは律せられない部分が多々ある(というかほとんどの部分がそうである)ことに堪え性がないとでもいうのだろうか? 極端から極端へのいきなり移動してしまう。渥美和彦氏などをみていてもそのような感想を抱いてしまう。ヤギの人工心臓の研究から統合医療とか全人医療とかいう方向にいってしまうのが不思議である。
 
 第7章 サプリメントが社会問題を解決する?
 わたくしは本書ではじめて知ったがイギリスでおこなわている(いた?)ダーラム臨床試験というものの話である。中学生に魚油(具体的にはオメガ3脂肪酸(DHAやEPAなど))を飲ませると頭がよくなるのではないかという試験らしい。その臨床試験と称するもののやりかたがひどいもので、対象をおかずに魚油をのませたら成績がよくなった。だから魚油は頭をよくするというようななんともいいようのないやりかたである。
 このような動向を著者は「医療化」といって批判する。本来なら医療など必要がない場面、あるいは医療など役にたたない場面で、病気を治すようにして問題を対処する行き方である。みな複雑な解決しがたい問題に地道にとりくむことに飽きあきしてきていて、簡単な方法で一気になにかが解決するというような話に乗りやすいのである、と。
 「医療化」の極端として「病気を売る」ということがあると著者はいう。ある時期、有効な新薬が次々と開発されていたが、そのような時代は去り、簡単に治せる病気への薬は刈りつくされてしまったので、今すでにある薬に新しいそれに対応する「新しい病気」を作り出すいきたかである。抗うつ剤などはいろいろな症状が対象として広げられてきている。
 社会の不平等、地域社会の崩壊、雇用不安の影響といったややこしくて解決が困難な要因からは目をそむけ、何か薬をのめば解決するという発想は安易ではないかと著者は主張する。
 さて、薬の広告には規制があるが、新聞記事にはない。だから新聞を読んでいてグルコサミンは関節炎にきくと思っているひとが多いとしても、グルコサミンの説明には「グルコサミンは軟骨の構成成分です」などと書いてあるだけである。
 
 日本では新聞記事としてではなく、新聞の出版広告の形で「薬効」が宣伝されているのであるから、もっと無責任であある。新聞はいまとても景気が悪いようであるから背に腹はかえられないのかもしれないが。
 わたくしが個人的にしっているある癌の患者さんから聞いた話であるが、自分が癌であるということが知れると全国津々浦々の親戚からその地の特産である薬草であるとか、自分はこれが効いたというサプリメントが山のように送られてくるのだそうである。それではそのひとがそのようなものはもらっただけで使用はしていないかというとそうでもないのが面白いところで、本来の治療はきちんと続けながら、そういう薬草とかサプリメントを効かなくてもともと効けはめっけものという感じでいろいろと試しているようなのである。おそらく癌などの深刻な病気、難病といわれるような大変な病気では、病院から処方されている薬だけを服用しているというのは少数派で、なんらかのサプリメントを服用したり健康法などのようなものを実行しているひとのほうが多数派なのではないだろうか? 外来でしばしばされる質問に、どんなものを食べたらいいでしょうかというのと、風呂にはいってもいいでしょうかというのがある。医者は(糖尿病などをのぞけば)何を食べてもいいんじゃないと思っているし、風呂?まあ高熱でもなければいいでしょくらいにしか思っていないのだが、何を食べるか、風呂にはいるかどうかというようなことは医者から指示された受け身の治療ではなく、自分で積極的におこなう養生という性格を持つらしいのである。自分で病気に立ち向かうというような姿勢は病気の治療過程にいい影響を与えるとされることが多い。サプリメントもそれ自体は効果がなくても、病気に積極的にかかわるという姿勢につながることによって有効性を発揮するということはあるかもしれない。
 近年、有効な新薬の開発が滞っているという指摘は、いわれてみるとそうなのかもしれないなと思う。カルシウム拮抗剤やH2ブロッカーはきわめて患者数の多い高血圧や消化性潰瘍という疾患に劇的に効く薬であった。最近の薬は再発した大腸癌患者の寿命を半年から一年延長させるといった(もちろんそれはそれで十分に意味のあるものではあろうが)有効対象の狭いしかもとても高価な薬が多い。明らかな劇的な進歩というより、狭い有効範囲でのそれなりの有効性を示すというものが主流である。劇的な進歩があった時代のほうが例外なのであって、今のほうが本来の医療の姿に近いのかもしれないが、患者さんの側に(そして医療者の側にも?)そのような華やかな時代への郷愁があって、魔法の弾丸への期待が捨てきれず、それがサプリメントへの過剰な依存を生むのかもしれない。
 
 次の「ビタミンでエイズは治らない」という章はとても多くの問題をふくむ章であるので、これは別に独立してこれだけを論じることとしたい。
 

デタラメ健康科学---代替療法・製薬産業・メディアのウソ

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