國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(4)
アレクサンドル・コジェーヴというひとの「ヘーゲル読解入門」がどのくらい読まれているのかはわからない。國分氏の本での紹介では1933年から39年にかけてパリで行ったヘーゲルについての講義によって有名で、その講義にはラカン、バタイユ、メルロ=ポンティ、ブルトンらが聴講していたとされている。その講義録の日本語訳である(抄訳であるらしいが)「ヘーゲル読解入門」の「解説」ではさらに聴講生として、R・アロン、クロソフスキー、カイヨワなどの名前も挙げられている。実に錚々たるメンバーが聴講していたわけである。原著は1947年に出版されているらしいが、この訳本は1968年の第二版に基づいており、日本では1987年に出版されている。この第二版であるということが重要で、翻訳書のp245〜247の「第二版への注」が有名になり、それで訳出されることになったのであろうと思う。日本ではここの部分のみが話題になり、ここの部分のみが議論されている印象がある。國分氏もまたここの部分について議論している。
さてコジェーヴというひとについは、アラン・ブルームが「アメリカン・マインドの終焉」でこんなことを言っている。
最近のマルクス主義者たちと話を交わし、彼らに客観的な経済状態に関する用語で哲学者や芸術家のことを説明して欲しい、と頼むと、彼らは軽蔑的な笑みを浮かべてこう答える。「それは俗流マルクス主義だ」と。・・誰しも俗流とは思われたくないので、人々は困惑のあまりの沈黙へと引き下がりがちである。もちろん、俗流マルクス主義がマルクス主義なのである。非俗流マルクス主義とは、ニーチェ、ウェーバー、フロイト、ハイデガーのことなのであり、加えて、彼らと同じ水槽から水を飲み、彼らを階級闘争の仲間に加えようと考えた後の世代の多くの左派たち ― ルカーチ、コジェーヴ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ、サルトルといった人々 ― のことなのである。ニーチェらの思想を階級闘争に持ちこむために、彼らは厄介な経済決定論を投げ捨てなければならなかった。マルクス主義者が「聖なるもの」について語り始めたとき、たしかに勝負は決したのである。
また言う。
ヘーゲル、ニーチェ=ハイデガーとのこのような混交は、いまでは一般的となっているが、この混交のまじめな哲学的表現を知りたいと望む者なら、誰しも、二〇世紀の最も聡明なマルクス主義者、アレクサンドル・コジェーヴの著作を参照しなければならない。・・さらにはコジェーヴは「最後の人間」とともに生きなければならないという問題、つまり、マルクス主義者は「最後の人間」とともに生きなければならないという問題に、真正面から向き合った。「最後の人間」は合理的な歴史の帰結であるという点で、コジェーヴはニーチェに同意する。コジェーヴの考えでは、粗野で非合理的な否定性を奨励する、何らかの神秘主義者だけが、この結論を回避することができる。
前のエントリーでとりあげたD・H・ロレンスは明らかに「聖なるもの」を語るひとであり、「粗野で非合理な否定性を奨励する神秘主義者」であった。それにもかかわらず、ロレンスが不思議なのは聡明な理知のひとでもあったということである。
近代は合理主義の時代であり、マルクス主義もまた合理主義の一つの系である(少なくとも一面から見れば)。そして合理主義は「最後の人間」をつくりだす。「最後の人間」というのはニーチェの「ツァラツストラ」の手塚訳では確か「末人」と訳されていたものである(氷上英廣訳では「おしまいの人間」、ドイツ語で die letzten Menschen、英語で the last man )。
本書の最初のほうで紹介されているモリスというひとの「革命が起こってしまったらその後どうしよう」というのも革命の後ではひとは「最後の人間」になってしまうのではないかという恐れの表明である。また同じく本書でとりあげられているスヴェンセンというひとの「ロマン主義が悪い」という議論も、ロマン主義者は「粗野で非合理的な否定性を奨励する神秘主義者」ではないとしても「非合理に傾斜し神秘主義に強い親和性をもつ者」であることは確かなのだから、「最後の人間」状態にひとがなるとロマン主義に憧れるのである。ロマン主義者は退屈しない? 本書ではほとんど議論されないが、ロマンティック・ラブ・イデオロギーが近代において猖獗をきわめているのも、そのことと深く関係があるのではないだろうか? 、「愛国心とは、ならず者の最後の砦である」のなら、「恋愛とは末人の最後の砦」なのかもしれない。
本書の最初のほうにレオ・シュトラウスによるナチズムの分析が紹介されている。ナチズムはファシズムの矮小形であって、ナチズムは滅びても、ファシズムへの人々の欲望は残るであろうというものである。そして「アメリカン・マインドの終焉」の著者のアラン・ブルームはレオ・シュトラウスのお弟子さんである。何だか因果が巡っている。
前にとりあげたロレンスの「無意識の幻想」の小川和夫氏の「あとがき」からももう少し引用してみる。「花々や野蛮人の生活に同感し得たこと、頭脳で理解するのではなくいわば肉体の血汐によって共鳴し得たこと、しかしそのような生活には後戻りできないことを承知していたこと、―これがロレンスの二重性であり、ロレンスの悲劇であった。現代文明に対する彼の挑戦は、その主張が正しいにせよ誤っているにせよ、はじめから結果が分かっているものだった。戦いはロレンスの敗北にきまっているのである。」 だから「ついには男女間の「やさしさ」というようなもののみを、現代の救済原理として考えるようになる。『チャタレイ夫人の恋人』は、悲劇が到達した最後の局面を示すものであった。戦いは負けであった。」 もちろん、ここでの男女観の「やさしさ」というのはロマンティック・ラブ・イデオロギーなどとは縁もゆかりもないものであるが。
などと書いているうちに國分氏の本から離れてしまった。國分氏も「ヘーゲル読解入門」の中の注の部分が氏の本と関係してくるといい、そこでいわれている「歴史の終わり」と「人間の終わり」を論じる。
「歴史の終わり」とは「もしも人間の歴史が何らかの目的へと向かって進むシステムであるとすれば、その目的が達成されてしまった状態のことをいう。」 コジェーヴによれば、歴史の目的に向かって進むのが本来の人間であるので、それが達成されてしまった時代の人間は本来の人間ではなくなり「最後の人間」となる。「歴史が終わる」と「人間も終わり」をむかえることになる。
コジェーヴの注というのは、1)自分は「歴史の終わり」がすぐに地上に実現するとは思っていなかったが、世界をみて歩いて考えを変えた、として、その歴史の終わりが実際に現実に達成されてしまった場所としてアメリカ合衆国を挙げ、そこにいるのは人間ではなく動物であるとした。「歴史の終わり」の後、すべての人間はアメリカ人、すわなち動物となる。これが1958年の注であるが、さらに彼は考えを変える。2)1959年に日本を訪れ、日本人は動物ではなく、洗練されたスノビズムを生きている、とした。どんな動物もスノッブであることはできない。とすれば日本人は動物ではなく人間である。これから日本が欧米と交流を深めればすべての人間は日本人化するであろう。つまり人間は動物とはならず人間のままとどまる。なんとも馬鹿らしい議論であるが、これが20世紀末の日本ではまじめに大々的に議論されたのである。
國分氏は、このコジェーヴの議論を「本来の人間」として本当とは異なる勝手な仮定をおいたことから生じる途方もない間違いであるとする。ここで例のハイデガーの退屈の3つの様式の議論がでてくるのだが、わたくしのは國分氏がいうほどこの3分類が有効なものとは思えない(というか意味のある分類には思えない)ので、一向に氏の批判には共鳴できなかった。
前にはとばしてしまったので、ここで氏の(ハイデガーに依拠する)退屈論を少しまとめてみる。人間はおおむね(氏のいう、あるいはハイデガーによる)退屈の第二形式を生きている、というのが本書の根底の主張である。これは「何かに際して退屈すること」なのであって、第一形式(すなわち、何かによって退屈させられること)よりも深い退屈なのであるという。とにかくこの第二の形式というのがわかりにくいのだが、そこにおいては退屈の対象そのものが気晴らしでもあり、そのおかれた状況そのものが退屈を作るのと同時に暇つぶしであるのだ、という。理解できるだろうか? とにかく、ここで國分氏が主張する「人間は第二形式の退屈を生きているのだ」ということを、本書を注意深く読んだ読者なら誰でも受け入れるはずということで議論が進んでいくので、ここで説得されなかったわたくしは議論からおいていかれてしまうことになる。
わたくしには、第一形式と第二形式の退屈の差というのがまことに些細などうでもいいことのようにしか思えない。単なる理屈であるとしか思えず、実感としてありありと、氏がいう二つの退屈の差を感じることができない。第一形式は「暇であり退屈している」であり、第二形式というのは「暇ではないが退屈している」に相当するのだというが、言葉の綾であって、そこに本当に大きな差があるとは思えない。
第一形式の退屈を感じているひとは仕事の奴隷になっているとされるのであるが、第二形式の退屈にあるひとは「正気」なのであるともいわれる。ここで奴隷などという強い言葉が使われるから第一形式の退屈というのが否定的なものとする氏の議論がなんとなく説得的に聞こえてしまうのだが、第二形式の退屈では「正気」であるという言葉が使われていて、論証よりも比喩としての言葉によって読者を説得させるという方向と思えてしまう。
また、第一の退屈より第二の退屈のほうが深いということもいわれるが、そこから一番深い退屈とは「なんとなく退屈だ」というものであるということが導入され、それが第三形式の退屈と名づけられる。それはもはや気晴らしが許されない退屈なのであるという。
ここまで、氏のいう3つの形式の退屈ということを追っているのだが、自分で納得していないので、書いていてもなんだかよくわからない。ここで一応きりあげて、氏の論に戻る。
「人間はたいてい第二形式の退屈を生きている。時折、何らかの原因でそれに耐えきれなくなり、第三形式=第一形式へと逃げ込む。ヘーゲルもコジェーヴも、そこに逃げ込んだ人間を勝手に理想化しただけである」というのが氏の論の根幹で、ここを認めないと本書が成立しなくなる。ここでの第三形式=第一形式というのも、氏は十分に説明しつくしたと思っており、当然読者もそれについてきているとしているのだろうが、果たしてどうなのだろう? ここでも「逃げ込む」という否定的な言辞が用いられているが、ヘーゲルは「決断する」とかいう格好いい言葉でいったのだし、サルトルはアンガージュマンとかいった(これはエンゲージメントであり単に関わるというだけが原義なのかもしれないが・・)。
とにかくここではコジェーヴの論が散々に論難されているけれども、わたくしには「ヘーゲル読解入門」における注がどこまで真剣でまじめな議論なのかということがそもそもわからない。ほんの思いつきで書いてみたという程度のことを、ある時期の日本の思想業界のひとたちが(おそらく、バブル時代の日本を本気で「歴史が終わった」国であると思い込んだため)、おもしろがって引用し議論をしたというだけのことなのではないだろうか? この注の部分は日本以外で議論されることはあったのだろうか? もちろん「歴史の終わり」という見解自体は多くの国でさまざまに議論されたであろうと思うが、動物化とか日本のスノビズムが世界を支配するだろうとかは、どこまで真剣に議論されたのだろうか?
「コジェーヴよ、お前は自分がテロリストに憧れる人々の欲望を煽っていることが分かっているのか? お前の壮大な勘違いはけっして無垢ではあり得ないのだ」と國分氏はいって、その註で、「コジェーヴのような哲学者は、自分のような者が人間であり、その他大衆は動物であると思っているから」このようなことをいうのだとしている。まことにその通りであると思う。しかしコジェーヴが自分を無垢だと思っているはずがない。彼はニーチェの流れの中にいる人間なのだから、自分を超人の側におくのである。超人対末人である。自分を超人の側におくひとが無垢でありうるはずはない。
ニーチェがファシズムを用意したことは掛け値のない事実であっても、そのことによってニーチェを否定してよいのかという問題と國分氏の論はパラレルである。ハイデガーも間違いなくナチズムの側にいた。そのことによってハイデガーを否定してしまっていいのだろうか? 國分氏の議論はテロリズムが無条件に悪であるという常識によりかかりすぎていると思う。マルクスが用意した政治綱領が間違いであったということは悲惨な歴史が証明したとしていいであろう。そうであるならマルクスの思想自体をそのその事実によって否定してしまっていいのだろうか? わたくしは『俗流マルクス主義がマルクス主義なのである』と思っている。しかしブルームのいう非俗流マルクス主義、ニーチェ、ウェーバー、フロイト、ハイデガーからルカーチ、コジェーヴ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ、サルトルにいたる系列によってマルクスを救い出せないかとしているひともまだ多くいる。わたくしには、國分氏もまた広い意味でこの非俗流マルクス主義の流れに連なろうとしているように思える。しかし、それを消毒して。毒を抜いて。だが、消毒されたニーチェ、毒のないハイデガーが何か力を持つだろうか?
第一次世界戦から第二次世界大戦にかけて、西欧ではファシズムに親近する思想がきわめて大きな力をもった。多くの有力な思想家がそれに近いづいた。私見によればファシズムは《どうようにすればシニックに陥らずに生きることができるか》という問いに有力な答えをあたえるように見えたのである。そしてこのシニシズムの問題は退屈の問題と深くかかわっていると思う。
清水幾太郎氏の「倫理学ノート」の冒頭にケインズが証言したD・H・ロレンスのブルームズグループへの激しい嫌悪感が紹介されている。彼らは「一瞬の感情の発露もなければ、一片一粒の敬虔な気持ちもありません。・・彼らは、蠍のようにか咬みつく油虫を思わせます・・」 ロレンスにはブルームズグループの連中の思考がシニックとしか思えなかったのである(「一片一粒の敬虔な気持ちもありません」)。合理主義にはシニックに通じる何かがある。マルクス主義が合理主義につながるのか非合理主義につながるのかは微妙であると思うが(國分氏は合理主義の系列とみているようである)、ニーチェからハイデガーさらにはコジェーヴにつながる系列は明らかに合理主義に反抗し、何らか非合理なものにそれに対抗する原理を見いだそうとする方向である。「コジェーヴのような哲学者は、自分のような者が人間であり、その他大衆は動物であると思っている」というのは、「大衆は合理主義で満足しているが、自分はそうではないぞ!」(あるいは逆で、合理主義に満足するひとを大衆といい、それには満足できないひとを人間としたのかもしれないが)ということなのだと思う。
そのあたりを詳細に論じているものとしてコジェーヴに全面的に依拠した著作であるF・フクヤマの「歴史の終わり」(原題 The End of History and the Last man )を少し見ていきたいと思う。「歴史の終わりと最後の人間」、まさに本書でコジェーヴの問題として國分氏が論じている問題である。
「はじめに」に簡にして要を得た要約がある。リベラルな民主主義の制覇によって歴史は終わった、というのである。ソヴィエトの崩壊によって社会主義的な統治システムには未来がないことが明らかになり、それがわれわれが選択しうる唯一の統治体制であることが明確になり、価値観のあいだの闘争としての歴史は終わったのだと。
人間はたんなる経済的な動物ではなくて、ヘーゲルのいう「認知を求める闘争」をおこなう非唯物論的動物なのであり、他人から認められたいと願うという点で、他の動物とはまったくことなっている。認知へ欲望はプラトンの「国家」で描かれた魂の3分説、魂には欲望、理性、気概の3つがあるという説での気概の部分、今日的な言い方でいえば「自尊心」の部分によって担われている。
ヘーゲルによれば、認知を求める闘争のなかで、進んで自分の生命を危険にさらす気概をもつ主君の階級と、死への本能的な恐怖に屈してしまった奴隷の階級とに人間は二分されることになった。進んで生命を危機にさらす貴族的戦士は人間的なのであり、死の恐怖に屈した奴隷は動物的なのである。だが、アメリカ独立戦争とフランス革命によって、奴隷がついに主人となることになり、それで歴史が終わった。
ヘーゲルの見方は、自己の肉体的存在の保存に最高の価値をおくアングロサクソン的な見方とはまったくことなる。そしてフクヤマによれば、リベラルな民主主義はわれわれの持つ認知への欲求を満たすことができる唯一の体制なのである。ニーチェによれば、近代の民主主義とは、奴隷の道徳の全面的な勝利なのであった。だが同時にリベラルな民主主義は「胸郭のない人間」、すなわち、「欲望」と「理性」だけでつくられていて「気概」に欠けた人間、最後の人間を産み落とした。
人間の持つ「認知されることへの欲求」のうち、平等への欲求はリベラルな民主主義体制によって保証されるようになったが、もう一つの優越への欲求のほうは、それによっては実現されえない。それがリベラルな民主主義体制の根源的な問題である、というのがフクヤマの本の示す問題意識となっている。
人間以外にメダルや敵の旗などの生物学的見地なんの役にも立たないものを欲しがる動物はいない。「いずれにせよカントもヘーゲルも、人間はある面においては物理学の法則の制約をいっさい受けない存在だと確信していたのだ。・・精神的な現象は物質の運動の力学に単純に還元されはしないという意味である。」
例によって恥ずかしながら、この「歴史の終わり」を読むまで(読んだのはメモによれば1998年)プラトンの魂の3分説というのを知らなかった。知ってびっくりした。医者の世界というのは困ったもので、そこでおきる議論はデカルトの心身二元論が是か非かという方向ばかりなのである。それで身体をもっぱら機械として見る方向と、全人的医療とかいって人間を統一的に見る方向とがいつも喧嘩している。プラトンの3分説では、魂とは人間のことであり、欲望というのが肉体、理性というのが精神ということになるのであろう。肉体+精神がそのまま人間となるのではなく、それだけでないものが人間にはあるのだぞということである。読んでなるほどと思った。あとになってもう少し冷静になってみれば、気概とは感情ということかなと思えてきた。そして感情なら人間以外の動物だってもっている。気概などという偉そうな言葉を使うから惑わされてしまうのである。まあ、犬やサルがプライドを持つかといわれたら、?であるし、それらが羞恥心をもつかときかれても、?であるが。だから栗本慎一郎氏にいわせれば人間は「パンツをはいたサル」ということになる。
それで問題は、人間が人間以外の動物と画然と異なったものであるのかということになる。もちろん、ニーチェ、ハイデガー、コジェーヴ、フクヤマ路線は画然相違派である。わたくしはこのような思考は、広い意味でのキリスト教の伝統のなかから生まれたものであると思うけれど、要するに人間はただ生きているだけでは他の動物と同じなのであって、そのような状態から抜け出て超越しようとするときにはじめて人間になれることになる。
以下しばらく養老孟司氏の「剰余とアナロジー」によって書く。氏によれば、カトリックでの人間の定義は「理性と自由意思と良心をもつもの」なのだそうである。これらは人間以外の動物にはないといいたいのであろう。一切衆生悉有仏性という方向とは違うのである。一方、カッシーラーによれば、ヒトは「象徴、すなわちシンボル、を操るもの」である。岸田秀氏によれば、ヒトは本能が壊れた動物である。そのため、ヒトは生存しつづけるために、幻想を必要とする。ヒトの脳には剰余が生じた。それがすべての問題の根源であると養老氏はいう。それならチンパンジーは暇つぶしに何をするか? 小枝を千切る、葉をむしる、匂いをかぐなどということをする、あるいはあおむけにひっくりかえって手で腹をたたく、などをするのだそうである。カッシーラーは言語、宗教、芸術、歴史、科学といった高級な方面を論じるが、養老氏は碁や将棋やゴルフ、あるいはお金といったものをとりあげる。メダルや旗はどちらかといえば宗教といった方向にむかうものであろう。
國分氏の場合でも、剰余が議論の出発点となる。脳の能力の余りがすべての原因におかれる。それが文明の高度化をもたらす一方、退屈をももたらすとされる。しかし、それをヘーゲル−コジェーヴ的な超越の方向に使用することは禁じられる。ハイデガーは退屈しているひとに「グダグダしていないで、心を決めて、しゃきっとしなさい!」とアジるひとなのである。ハイデガーは人間だけが退屈するとしたが、養老氏によればチンパンジーも退屈するらしい。國分氏はハイデガーの論を環世界についての理解を批判し、なぜハイデガーがそのような誤りに落ち込んだのかという理由として、それはハイデガーがなんとしても人間だけが自由であるとしたいがためなのであるとする。しかしそれでは人間は決断の奴隷となってしまうと國分氏はする。見ず、聴かず、ただ決断する人間となってしまうではないか、と。見る前に跳ぶのは危険である、と。決断は苦しさから逃避させてくれる。人間は従いたがるのである、と。人は奴隷になりたがるのだ、と。決断という言葉には英雄的な響きがあるが、それは心地よい奴隷状態なのだ、と。そしてハイデガーは決断した後の人間については何も考えていないことを強く批判する。
そして、わたくしとしてはかなり脈絡をたどりがたい議論によって、考えるという行為が、人間にとっての環世界の破壊にともなう新しい環世界の創造であることがいわれ、哲学もまたそのなかの一つの営為であることがいわれて、最後の結論の章へと続く。
結論の部分は稿を改めて論じることにしたい。
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