國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(5)

 
 最後の「結論」なのであるが、これが肩すかしをくった感じがする、きわめて淡泊なものである。3つある。
 
 結論1) ああしなければいけないとか、こうしなければとか思い煩うことはない。
 結論は本を読んできて最後に読むものであるから、読者は今までこの本を読んでいたことによって暇と退屈について新しい見方を獲得したはずである。自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間は、何かが変わる。よってこの本をここまで読んできたということが、すでに暇と退屈の倫理学において何かを実践していることになる。本を読めば考えることをするから、考える前と考えた後で人は変わる、というところまではわかるのだが、それが倫理学の実践であるというのがわからない。。
 それを補足するため、スピノザの「反省的認識」という論が紹介される。われわれは何かを理解するときに、あることを理解するばかりでなく、理解するとはどのようなことであるかをまた理解する。これが解るということなのかという実感を得る。ひとは実際に何事かを理解することを繰り返すことで、自分の知性の性質や本性をもまた発見していく。そうでなければ理解は単なる情報の取得となってしまうし、下手をすると、かえってその情報に囚われてしまうことにさえなる。
 なんとなくわかったようにも思うが、この議論では自分の知性の性質や本性を発見することは有意義であることが前提とされてしまっている。それが果たして望ましいことなのか、一種の自分探しのような不毛へと向かうことはないか、それもまた議論されねばならないように思った。
 わたくしが思うところでは、理解するということは一見異なっていると思えるものの根底に存在する類似した何かを感じとることである。たとえば、ブルームの本の指摘についていえば、ニーチェとかハイデガーとかが左派の系列に入れられている。これはわれわれのもっている常識に反する。そのような指摘を読んで、「ああ!」と思う。その「ああ!」が何であるのかは容易に言語化できないものであるのだが、その指摘を読むことによって、われわれのニーチェハイデガーについての理解が深まり、同時に左派、左翼というものについての認識の幅も広がる。
 この理解は頭がするものなのだろうか?ということが問題となる。國分氏は実感ということをいっている。この実感というのは頭脳の仕事なのだろうか? それとも体がしているのだろうか? あるいは頭も体も区別のないわれわれの身体全体でしていることなのだろうか?
 こんなことを書いているのは、脳科学者ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」を想起しているからである。われわれがある経験をするときに身体にはさまざまな変化が生じるが、同時のその身体変化は脳によって把握され、その「身体マップ」が脳に形成される。われわれがする理解というのは一見異なっているものに身体が同一の「身体マップ」を形成することなのではないだろうか? このダマシオの本、日本語では「感じる脳」と訳されているが、原題は「スピノザを求めて」である。ダマシオはおそらくデカルト的な心身二元論を克服するものとしてスピノザに注目したのであると思われるが、わたくしにはスピノザの「反省的認識」というのは理解するのは脳の機能であるが、理解するとはどのようなことであるのかを知るのは身体であるということをいっているのではないかと思う。
 國分氏の「暇と退屈の倫理学」を読んでいてずっとある種の物足りなさのようなものを感じていたのだが、それはここに書かれていることの多くがまだ理屈であって、國分氏の実感にまでいたってないのではないかということである。つまりここでの言い方をかりれば、情報として提示されているが「反省的認識」に届いていないというようなことになるのかもしれない。だから少なくともわたくしは肉体的に揺り動かされるような感じを本書から受けることは残念ながらなかった。いろいろな知識は得たが、その知識の根底にありそれらを束ねている太い何かを感じることができなかった。「論述の過程を一緒に辿ることで主体が変化していく、そうした過程こそが重要である」と國分氏はいうのだが、そのような変化はおきなかった。
 
 結論2)贅沢をとりもどそう。
 消費と浪費の区別の話である。消費は記号を受け取るだけで物をうけとらない。だから物をうけとる行為である浪費をしなくてはならないという論理になる。この浪費が贅沢といわれる。このような議論を呼んで感じるのは、物を受け取らない場合を消費と呼び、受け取った場合を浪費と呼ぶという単なる定義をしているだけなどではないかという不毛感である。ある行為をみて、それが生産的であると見えれば浪費と呼ばれ、非生産的であれば消費と呼ばれる。だからわれわれは浪費をしなければならない、贅沢をしなくてはならないといわれても、実践としては何をしていいのかわらかない。消費と浪費の区別は事後的になされるしかないのではないだろうか?
 國分氏は贅沢ができるようになるためには訓練が必要であるという。たとえば、食べることを楽しめるためには訓練が必要であるという。楽しむためには訓練が必要というと通常はハイカルチャーが連想されてしまうが、食べることにも訓練がいり、もちろん文学や絵画や音楽の場合でもそうだという。そしてハイカルチャーしか頭にないラッセルや食べる楽しみを知らなかったであろうハイデガーが可哀想な人たちであるとされる。しかしラッセルは数学原理を考えたりするのがもう楽しくて仕方がなかったのだし、ハイデガーも詩について(あるいは言葉について)異様な感受性をもっていたひとなのだから、それでいいのはないだろうか?
 最初にでてきたモリスというひとの「革命がおきたら退屈が心配である。」 それに対して彼が考えた対策、日常生活の中に芸術をもちこむこと、生活をバラで飾ろう!という運動が再度とりあげられて、そのような「バラ」状態になれば、人間関係も産業構造もすこしずつ変化していくだろうという。だから「暇と退屈の倫理学」は革命を目指しているわけではないが、社会総体の変革を目指しているのだということがいわれる。
 しかし、この本にはほとんど仕事のことも人間関係もでてこないのである。それで社会総体の変革などができるだろうか? 本書の一番の問題点は退屈に対抗するものとしてモノばかりがでてくることである。食べ物であり、葉巻であり、バラである。なぜ人間関係がでてこないのだろう?
 狩猟採集の時代から農耕をへて都市の時代になっても、つねに人間は一人では生きられないのであり、人間関係の中を生きていかなくてはならない。そしてわれわれが人間関係を取り結ぶ場として圧倒的に大きいのが仕事の場である。われわれの生のダイナミズムの大部分はそこにあり、食べ物とかバラは静的なのである。ダイナミズムというのは決断に通じるところがあるので、意識的に話題として避けたのかもしれないとは思うのだが・・。
 それに芸術の相当部分は、絵画にしても音楽にしてもあるいは文学にしても、ロマン主義に通じるものを持っている。國分氏の主張は超越を指向するな!、日常の中にとどまれ!、というものであると思うが、芸術はしばしばひとに地に足をつかさせなくする毒を含んでいる。生活の中に持ち込める芸術というのは随分と微温的なことに限られてしまうのではないだろうか? そもそも生活と芸術は背馳することろが大きいのではないだろうか? ハレとケ? 國分氏は徹底的にハレを排除し、ケのなかで生きる方向を探るのだが、そこに芸術を持ちこむとケがケでなくなってしまうということはないだろうか?
 
 結論3)楽しむことは思考することにつながる。
 ここの部分は理解できなかった。一応書いてみれば、食べることを楽しめば食べ物について考えるようになる。映画をみていれば、映画について考えるようになる、というようなことなのだろうか??
 〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。というのが結論である。なんのことかわからないが、無理に解釈してみると、人間は退屈せざるをえない、それで食べたり映画をみたりしているといろいろと考えるようになり、それによってさまざまな環世界に生きることが可能となり、人間の宿命である〈能力の余り〉を使いつくすことが可能となる、というようなことなのだろうか??
 氏によれば、退屈と気晴らしが入り交じった生が、人間らしい生なのであるが、世界にはそうした人間らしい生を生きることが許されない人がたくさんいる。退屈というのは自分にかかわる問いであるが、退屈と向かいあえるようになったひとは他人についても考えることができるようになる。すなわちどうすれば皆が暇になれるかという問いである。それが「暇と退屈の倫理学」の次の課題となるとして本書は終わる。
 しかし、こんなに簡単にいってしまっていいだろうか? 「私」と「公共」の対立というのは倫理学上の一大問題であるはずなのだが・・。退屈であるひとと、飢えているひとはそれぞれまったく別の問題に直面しているわけで、飢えているひとのほうが退屈に直面しないだけ「幸せ」であるといった見方だって成立しないこともないはずである。歴史の終わりとか最後の人間とかいうのはそういう見方をどこかで反映してはずである。飢えているひとは飢えなくなる未来という目標をもっているだけ幸せである。最後の人間はなんら指向すべき未来をもたない不幸な存在である、とか。
 
 『「われわれをこのおしまいの人間にしてくれ! そうすれば超人はあなたにあげる!」民衆はこぞって歓喜し、舌をならした。』(「ツァラツストラはこう言った」)
 
 『人間は食つてゐなければ死んでしまふのだから、・・食ひしんぼうでだけはありたいものである。嫌でもしなければならないことは楽んでやれた方がいいに極つてゐて、食ふのが人生最大の楽みだといふことになれば、日に少なくとも三度は人生最大の楽みが味へる訳である。/ 併しこれは平和の時の話で、戦争中は全くみじめなものだった。・・一体、あの頃の我我は数字で言つて、どの位腹を減らしてゐたのだらう。もしさういふ計り方があるとすれば、零下何十度と言つた感じの数字が出て来るに違ひない。これは「満腹感」といふ言葉が発明されたことによつても解る。(吉田健一「満腹感」)
 
 われわれをおしまいの人間にしてくれ!」と叫んでいる末人たちの中にも、食うのが最大の楽しみという食いしん坊もたくさんいるだろう。超人であるツァラスストラは(そるいはその創作者のニーチェさんも)どうも食べる楽しみといったほうには関心がないようなのだが、ニーチェさんがただ生命維持のために食事をし、その味については関心のないひとであったとしても、それはそれでかまわない。しかし食べ物に関心のないひとの議論はどうも地に足がつかなくなる傾向がある。
 吉本隆明が信用できるひとであったのは、「近所のスーパーでほうれん草をかっておひたしにし、味の素をふって醤油をかけるのが旨い」なんてことを平気でいえるひとだったところにもある。
 國分氏もさかんに食べる楽しみについて語るのだが、どうもその議論は舌先での議論のように思える。食べ物の議論はもっと腹の方でしなくてはいけないのではないだろうか? 「うまい!」というのは全身的な体験である。
 國分氏は懸命に身体のひとたらんと努力しているように思うのだが、まだそれは意思によるものであって腑には落ちてはいないように感じる。だからここで氏が語る人間というのがかなり平板で奥行きのないものとなってしまっている。人間はもっともっと複雑なものだし、人間には本当にいろいろなひとがいるのに、というのが読んでいていつも感じていたことだった。
 
 本書を最初手にとって目を通したとき、進化の観点、生物学の観点があり、ラッセルとかハイデガーとか、レオ・シュトラウスとか、コジェーヴだとかが論じられており、ロマン主義の問題とか、最後の人間だとか、動物としての人間だとか、こちらが関心を持つ話題が満載で、若い方はこういう問題についてどう考えるのだろうかととても興味を持ったのだが、詳しく読んでみると、論じかたにはまだかなり生硬で生煮えの部分が残っているように感じた。たとえば、「本書は〈暇と退屈の倫理学〉と題されている。倫理学であるから、やはり、何をなすべきかが言われなければならないだろう。倫理学とは、いかに生きるべきかを問う学問であるから。」という文がある。こう書かれることによって、倫理学というものがすでに存在していまっている。現在、「倫理学」という学問は至って人気のない分野であろう。そこに時代錯誤的な響きを感じるひとさえ多くいるかもしれない。清水幾太郎氏の「倫理学ノート」によれば、ムアはその「倫理学」で、『倫理学では、「善とは何か」という問題と「何を為すべきか」という問題がつねに混同されてきた』としているという。ムアは主として前者の「善とは何か」というほうを倫理学と呼んだらしい。今、善とは何か、悪とは何かというようなことを論じるひとがいたら、かなり奇妙な目でみられるのではないだろうか。また「われら何をなすべきか」というような問いを正面からかかげるひとがいたら、不思議なひとと思われてしまうかもしれない。
 「善とは何か?」「われら何をなすべきか?」という問いを恥ずかしいものとしてしまったのがポストモダン思想なのである。だから読者は「暇と退屈の倫理学」というタイトルの比重は明らかに「暇と退屈」のほうにあり、あとの「倫理学」は、まあほかに呼びようがないからとりあえず「倫理学」とでもしてみましたというようなエクスキューズをそのなかにふくんでいるであろうことを、ほぼ自動的にその言葉のなかに読み込んでしまう。この本のタイトルは「暇と退屈についての試論」でも「暇と退屈について」でもよくて、この本を手にとるひとは「暇と退屈の倫理学」というタイルをみても、ほとんど「暇と退屈について考える」というのとかわらない受け取りかたをするのではないだろうか? 「倫理学であるから、やはり、何をなすべきかが言われなければならないだろう」といきなり言い出されると面食らう。そうであるなら現代における「倫理学」の位置というところがまず論じられなければいけないだろう。どうも國分氏は。言葉があるなら実体があるはずという指向が目立つように思う。そういう風に感じるのは、わたくしがごりごりの唯名論者であるからなのだろうと思うが、そもそも文化系は実在論に、理科系は唯名論にむかうというようなことがあるのだろうか?
 これはまったくのわたくしの推測であるが、氏の身体にはニーチェハイデガーコジェーヴの路線への共感が深いところであり、またロマン主義への傾斜もある。その一方、頭脳は冷静な論理としてそれらは否定されねばならないことを明らかであるとする。その分裂のため、今の段階では新しい方向の構築よりもニーチェハイデガーコジェーヴ路線の克服のほうにより多くの力を注がざるをえないのかもしれない。
 本書の最初に「この本は俺が自分の悩みに答えを出すために書いたものである」とある。その悩みというのが何なのか最後までよくわからなかったのだけれども、ひょっとすると、氏の中にある二つの指向の分裂ということであるのかもしれない。
 わたくしはこの本を「スピノザの方法」の著者のもう一つの本ということで読んだのだけれども、二つの本が同一の著者によるものであるということがいまだに信じられない。かたや博士論文の学術書、こなた一般書ということもあるけれども、とてもそれだけでは説明できない落差がある。これは謎として残ったままとなった。
 

暇と退屈の倫理学

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ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

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三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

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倫理学ノート (講談社学術文庫)

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スピノザの方法

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