その3 お勉強こと始め

 
 4月から開始したお勉強生活の第一日。
 朝日カルチャーセンター、國分功一郎氏「スピノザ入門」第一回。
 月一回、全12回の初日。びっくりしたのは教室が満員だったこと。10〜15人くらいの生徒であるかと予想していたのだが、大きな教室ではないが、それでも100人弱は入りそうな部屋がほぼ満員。スピノザという地味な哲学者についての講義にこれだけのひとが集まるというのは予想外であった。
 わたくしは医学部の講義の第一回で、講義というものに嫌気がさして以来、まじめに授業というものをきいたことがあまりないような気がするのだが、教科書をみれば書いてあることをただ伝授されるというのは血も沸かず肉も踊らないものである。自分とはかかわりの無い、自分の外に客観的にある事実を伝達するというだけであるなら本を読めばいいわけである。
 そうではなくあることについて自分はどう考えるのかということについて、その著者の本を読むのと、その著者である人間から口頭で話をきくというのは随分と異なるものである。生身ということの持つ重さなのであろうか?
 実は、今日の第一回の導入のテーマもそれに関わっていた。西洋近代を支配したデカルトに由来する知性あるいは知識に過大に重点をおく方向とは違う、もっと個的な経験あるいは体験を重視する哲学としてのスピノザである。
 なにしろ生身の哲学者に会ったのは初めてだったのだが、ちょっと意外であったのが、哲学者というのは哲学というものの存在を信じているのだなということである。哲学者は哲学というものもまた疑いの対象にするのではないかと思っていたので、その点、ちょっと意表をつかれた。ヘラクレイトスからアリストテレスプラトンを経て現在につながる西洋哲学の伝統がそれ自体で実体として存在するものと感じられているようなのである。数学者にとって数学という対象が実体として存在するということわかるような気がするのだが、それと同じような確実性をもって哲学という実体が存在するというようには、わたくししにはどうしても思えないところがある。
 
(2012・4・8 追記) 朝日カルチャーセンターの案内をみてみたら、この講座は数少ない「満員」の講座の一つであった。人気講座らしい。國分氏はなかなかの好男子(死語?)なのだが、女性ファンが殺到しているわけではなく、大多数の受講者は男性なのだが。