今日入手した本

 

リトル・ピープルの時代

リトル・ピープルの時代

 
 この本の評判は前からきいていたのだが、その表紙がいやで手にとっていなかった(仮面ライダーが描かれている)。今日なんとなく書店で手にとってみて、まともな村上春樹論らしいことがわかって買ってきた(少なくとも序章と第一章は)。第二章はわたくしが大の苦手のサブカルチャー論のようで、ここは読まない可能性大(大塚英志氏や東浩紀氏あるいは斉藤環氏などのサブカルチャー偏愛というのがどうしても理解できない人間で、これはもうこれから変わることはないだろうと思う。ある方向へのアンテナがまったく欠如しているのだろうと思う)。まだ100ページくらいしか読んでいないが、第三章も第二章の延長のようだから、結局、第一章だけで終わるのかもしれない。途中までの印象では、村上春樹という作家の現代での位置という問題をきわめてまっとうに論じているように見える。基本的には内田樹さんの路線かなとも思うが、内田氏ほど礼賛一筋ではなく、その危うさということについてしっかりと目配りをしているようである。
 私見では村上氏はマイナーポエットなのだが、あえて自分の資質ではないかもしれないドストエフスキー的方向を自己の責任において引きうけている、その危うさのようなものを宇野氏はうまく摘出している。しかし、あえてドストエフスキー的たらんとしているのだから、村上氏のなかには暗いもの、わけのわからないもの、狂的なものがたくさんあるに違いない。しかし、そういうものは隠し味としてあったほうが文学としては豊かになるのではないかと思う。長編ではそれが表にですぎているかもしれない。
 本書の序章と第一章は氏の長編を辿っていくので、いわば村上氏があえて自分で引き受けようとしている役割がうまく果たせているか、そこにどこか計算違いがないかということが検討されている。したがって文学作品として味わうという方向は最初から放棄されている。文学作品を通して社会的な問題を論じるということが文学作品に対する姿勢として真っ当なものであるかということには大きな問題がある。しかし村上氏自身がそういう読み方をしてほしいという気持ちを持っていることもまた間違いないようなのである。
 補論というのが3つあって、その一つで映画『ダークナイト』が論じられている。ほとんど映画をみないわたくしが珍しくこのDVDはもっている。糸井重里氏が絶賛しているので買ったのだと記憶している。DVDでの印象であるが、何とも不思議な作品であった。バットマンという漫画のキャラクターが「悩む英雄」などといういかにも文学的な存在となり、ついには「汚れた騎士」という役割を甘受する道を選ぶという話で、最後のほうでダーク・ナイトが「Dark Knight」であることが解ったときはびっくりしたものだった。てっきり「暗い夜」だと思っていたのである。無邪気に西部劇などを作っていたアメリカとなんと違うアメリカになってしまったことかと思った。しかし、娯楽作品でああいう真面目な議論をすることはルール違反なのではないかという気がいまでもしている。ということで、本書は(おそらく)村上春樹バットマン論なのである。