内田樹「街場の読書論」(4)何で文学書が売れないか?

 
 本書の最後に「補稿」として「「世界の最後」に読む物語」という文がある。執筆の日付がないからブログからの転載ではなく、書き下ろしなのであろう。タイトルから想像されるのとは違って、「文学作品が売れなくなった」という話題に関してである。「中央公論」の編集者が目の前で「文学は必要なのでしょうか?」といっているという深刻な話である。
 内田氏はいう。例外はあるが、全体として文学作品は売れていない。何故か? それは提供されている作品のクオリティーが低いからである。しかし出版社側は、読者の質が落ちたからとしている。それは間違いである。なぜなら、世界で評価されている作品は日本でも売れている。たとえば、村上春樹桐野夏生井上雅彦。日本の読者のレベルが落ちているのであれば、このようなことは起きえない。(ここまでの段落を(1)とする)
 しかし、と出版社のひとはいう。売れているのはダイエット本や自己啓発本ばかりですよ。反論して内田氏はいう。出版はビジネスではない。書物はもともと商品ではない。書物が市場に流通するようになったのはたかだかこの200年である。書物の歴史はそれよりもずっと長い。図書館でたくさんのひとにくり返し読まれる本も、買われただけで読まれない本も同じ一冊であるが、著者からすれば、ほしいのは読者であって購入者ではないはずである。「ツァラツストラ」第4部は自費出版で40部刷られたが、世にでたのはたったの7部。スタンダールは「赤と黒」の末尾に「To the Happy Few」と書いた。フーコーは「言葉と物」を出版するとき、理解できる読者をフランス内で多くて2千人と見込んだ。彼らの本は読者をつくることからはじめたのである。今ある読者のレベルにあわせた本など真の古典にはなりようがない。「人々が安住している世界に亀裂を開け、見たこともないものがそこから吹き込んでくる。それは恐怖や不安の体験でもあるし、同時に解放と愉悦の経験でもある。それを可能にするのが「文学」や「思想書」の力である。」(ここまでを(2)とする)
 わたくしから見ると(1)と(2)は真逆である。(1)では現在の日本人の読書力は落ちていないということが、売れるべき本が売れているということから正当化され、(2)では、本当にまともな本は、同時代にはまだ読者がいないような本なのであり、それが世に浸透してゆっくりと読者を作っていくことで少しづつ読者ができてくるのだということがいわれている。
 出版社はビジネスとしてやっているのだから、(2)のようなことをいわれても編集者は困るはずである。第一、雲霞のごとく出版社が内田氏のもとにおしよせるのも、現在の出版事情のなかで内田氏の本が例外的に売れる、つまり商売になるからである。
 
 議論はまだ続くでのあるが、ここまでのところについて少し考えてみる。
 現在、文学書が売れなくなっているのは事実である。それについての解釈は二つあるはずで、一つは現在の事態がおかしいというもの、もう一つは以前の状態がおかしかった(バブルだった)ので、現在の状態が正常であるというものである。わたくしは後者だと思っているので、現在の状態が異常だとは思わない。
 別に文学書が売れなくても作者以外の誰も困らない。現在、文学の中心は小説であるとされている。昔、小説が担っていた機能は現在はテレビドラマとかマンガとかあるいはテレビゲームであるとかいった方向に分散して担われているので、それで小説を読むひとが少なくなってしまったというだけなのではないだろうか?
 その証拠に、あとにも書かれているが、時代小説というのは売れているらしい。また書かれてはいないが、ライトノベルというのも凄く売れているようである。とすればいわゆる純文学が売れていないというだけのことで、たしかに純文学ということについていえば、「提供されている作品のクオリティーが低い」ということはあるのかもしれない。しかし日本は翻訳天国なのだから、そんなクオリティーが低いものを無理して読むこともないので、外国の小説の翻訳を読めばいい。あるいは読めるひとは原語で読めばいい。小説を読むというのはひまつぶしの一つなのであるから、昔にくらべたら格段にひまつぶしの手段が増えた現在、それが読まれることが少なくなるのは不思議でもなんでもないはずである。
 しかし、内田氏の考える文学というはとてもひまつぶしなどと呼べるようなものではなく、「人々が安住している世界に亀裂を開け、見たこともないものがそこから吹き込んでくる。それは恐怖や不安の体験でもあるし、同時に解放と愉悦の経験でもある」というなかなかとんでもないものである。自分が安住している世界に亀裂を生じさせたいと思うひとはそれほど多くはないはずだし、あえてそれをしたいと思う変人の数はそうは多くはないであろうから、またしても小説が売れるはずはないことになる。
 というようなことを書いていると、どうしても頭に浮かんでくるのが村上春樹氏のことである。内田氏は現在日本における村上春樹擁護陣営の最右翼の一人である。その擁護の根拠の最大のものが氏の作品は世界中で受容され支持されているということである。一方で、内田氏は思想への強いこだわりがあるから、ニーチェのような世界の根源にふれるような思想家は同時代に容れられないことがしばしばあることを知っている。それで揺れる。
 間違いなく村上氏は、未来の読者にむかってではなく、今現在いる読者にむかって書いている。氏の書くものがおそらく世界中のひとびとが現在かかえている問題のどこかに触れるから、氏の小説は売れるのであろう。時代小説やライトノベルは日本でだけしか売れていないものであろうが、それが売れるのはやはり現代の日本人がかかえる何かの問題に触れるからでもあるのだろう(純文学といわれるものが提供する物語の多くがあまりに陳腐で、あまりにつまらないものであることが大きな原因かもしれないけれど)。
 
 内田氏の論の続きをみていく。
 内田氏によれば、日本の純文学がこうまでダメになってしまったのは批評家のせいである。「この作品には階級的自覚がない」とか「ジェンダー・ブランドネスがはしなくも露呈し」とか「第三世界に対する加害者意識の恥ずべき欠如」とか「方法論的自覚のないまま俗情と結託し」とか言いたい放題のことをいって作品にけちをつけることばかりをしている批評家がいけないというのである。
 しかし、こんなどうでもいい批評家の戯言を気にして筆を押さえる小説家などというのがいるのだろうか? そんなのは三流四流の小説家である。こんな小説の揚げ足取りみたいなことばかりをしている批評家も三流四流である。
 『今の自分とは違う身体のなかに入り込み、こことは違う場所で、こことは違う空気を吸い、想像を絶した快楽や苦痛を経験する、そういう解放感と快楽があるからこそひとは文学を必要とする』、そう内田氏はいう。しかし批評家たちは「作品がもたらす快楽を称えるのではなく」、個々の作品が持つ些細な瑕疵を針小棒大にあげつらい作品を批判しているとして、そういう批評家たちに内田氏は憎悪の念さえも抱いているようにみえる。
 しかし現在、『今の自分とは違う身体のなかに入り込み、こことは違う場所で、こことは違う空気を吸い、想像を絶した快楽や苦痛を経験する』などという経験をさせるような小説をめざして書いているような作家がはたしてどれくらいいるのだろうか?
 わたくしは小説をあまり読まない人間なので、以下に書くことは文献的知識による部分が多いのだけれども、戦前の横光利一から第一次戦後派の野間宏、あるいは中村真一郎福永武彦、あるいは武田泰淳、さらには三島由紀夫丸谷才一、また大江健三郎にいたるまで、以前からの日本の文学の伝統である身辺雑記に毛の生えたような小説ではない、西欧では主流である壮大な長編小説を書こうとして、例外はあるかもしれないけれども多くの失敗作を残してきた。一方、以前からの日本の文学の伝統というのは短歌や俳句の列に連なるものかもしれなくて、小説よりも散文詩に近いものかもしれない。(俵万智のような例外を除けば)短歌や俳句というのはそれを読んでいるのは選者と本人くらいかもしれないし、現代詩の読者の数というのはきわめて限られたものであろう。
 現在小説を書いている多くのひとは西欧風の大長編などという志向は捨てて、短歌・俳句・散文詩的な小説を書く方向にあり、そうであるなら現代詩の読者程度の数しか読者がいなくても当然なのではないだろうか? そして俳句や短歌をつくるひとがもっばら選者の意をむかえようとするように、編集者や批評家の意をうかがって小説を書くひとがほとんどとなれば、普通の読者が読んで面白いものが出てこないのも当然である。
 そういうなかで小説界の俵万智村上春樹なので、何で氏ひとりが突出しているのかといえば、才能のレベルが全然違うということに帰するのではないだろうか? わたくしのように現在の短歌についてはまったく無知な人間でも俵万智の歌だけは知っている(しかし、俵氏の歌も無名の高校教師時代のものはよかったが、プロの歌人となってしまってからはつらいものがあるように思う)。村上氏も文章家としての才能と物語作家としての才能の双方を備えている希有なひとと思うが、売れているのはそのためであって、読者に『今の自分とは違う身体のなかに入り込み、こことは違う場所で、こことは違う空気を吸い、想像を絶した快楽や苦痛を経験』させることを意図しているのではあろうが、氏が売れているのは村上氏が思想家として優れているためでは決してない。だが、これだけ売れてしまうとそれを自己の使命であると思ってしまう危険性は多分にあって、それが現在の村上氏の危機なのではないかと思う。たぶん文学好きは「1Q84」のようなものよりも、「神の子どもたちはみな踊る」や「東京綺譚集」のようなもののほうをもっと書いてほしいと思っているのではないだろうか?
 そうわたくしは思うのだが、内田氏はイデオロギーという言葉をもちだしてくる。それによれば、ある批評家が自分の個人的な判断は「巨大な集合的合意」のなかにあると思っていれば、自分は多数派の側と考える。そうであるなら、自分がいったことは別の人間がいってもいいということであり、その批評家の替えはいくらでもいるということである。しかし、批評家は「わたしの言葉はわたしが言わなければ誰によっても言われることがなさそうであるか否か」という自己点検をしなくてはならないと内田氏はいう。そしてこれが自分によってしかいわれることがない言葉であると思えば、その思いを伝えるために細心の工夫をし、言葉遣いに気をつけるだろうという。
 それにもかかわらず粗雑な言葉使い、粗雑な論理で、断定的で無慈悲な言葉を平気で書きつけることができるのは、自分の言葉は「巨大な集合的合意」を背景にしていると信じているからである。そういう言葉を可能にする背景を、内田氏はイデオロギーと名づける。そのようなイデオロギーを背景にする批評家は、作家もまた代替可能であると思っているから、冷酷な言葉で作品を一刀両断することになんらの疚しさも感じないのであると氏はいう。
 ここら辺の内田氏の議論は性急で、随分と論旨が乱れているように思う。現在、文学が読まれなくなっているという個別の事実と、氏が抱いている一般的信念が強引に結びつけられてしまっている。
 わたくしはかつて氏の「「おじさん」的思考」におさめられた「「大人」になること―漱石の場合」という「虞美人草」を論じた文章や、「ためらいの倫理学」におさめられた同題のカミュ「異邦人」論に多くのことを教えられた。内田氏はそのような精緻な文学の読みができるひとなのである。最近の氏は一般論を語るために個別の事象ををかなり強引な解釈をして論じるということが多くなってきている。そのやりかたや語り口の芸に固定したファンがいるのだろうと思うから、それでかまわないのだが、わたくしとしてはいつかきいた話のくり返しではなく、「誰によってもまだ言われていない」言葉のほうをききたいと思う。最近の氏は「イデオロギー」的になってきてしまっているのではないだろうか?
 

街場の読書論

街場の読書論

「おじさん」的思考

「おじさん」的思考

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)