渡辺京二「細部にやどる夢」

  石風社 2011年12月
 
 渡辺氏の名前をはじめて知ったのはたぶんもう10年以上も前のことで、新聞の読書欄のどこかで、どなたかであったかはもう忘れてしまったが、在野の碩学として氏の名前を紹介している記事を見たときであると思う。それで読んでみたのだった。一時は傾倒したもので、本棚には「渡辺京二評論集成1〜4」をふくむ7〜8冊の氏の著作がある。かなりの傍線がひいてあるから、相当熱心に読んだことは間違いない。
 凄い学識をもち、それによってあたるを幸いすべてを薙ぎ倒す抜き身の刀みないなひとという印象であった。たまたま「評論集成3」にある「ポストモダンの行方」という論(1988年の講演での記録)をよみかえしてみたが、あらためて凄いものだと思った。とても広い範囲のことを論じているひとであるが、その関心の焦点は《「近代」とは何か?》というものではないかと思う。わたくしも若いときに吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」を読んで以来、西欧近代という問題がいつも頭の片隅にあるので、それで渡辺氏の本の論題の多くが自分の関心と重なることになったのであろう。
 渡辺氏の本によって知ったひとの一人に石牟礼道子氏がある。名前は以前から知ってはいたが水俣病告発文学者などという全然見当違いの受け取りかたをしていた。渡辺氏の本によって、石牟礼氏はD・H・ロレンスにどこか通じる根源的な近代批判者なのかなと思うようになった。渡辺氏の著作でもイリイチソルジェニーツィンパステルナークが共感的に論じられているが、石牟礼氏もその列につながるひとになるのであろう。
 おそらく渡辺氏の著作で一番知られているのは「逝きし世の面影」であろうと思うが、これが同じ著者の本かと思うくらい「評論集成」などの文章とは印象の異なるものである。角をとれたというか丸くなったというか、刀が鞘におさまって、江戸末期の日本文化成熟の賛歌のようでさえあり、それだけ読むと保守派の「昔はよかった!」である。しかし、イリイチソルジェニーツィンに共鳴していた氏としては、一貫しているということなのであろう。
 この「細部にやどる夢」は副題のように西洋文学について論じたものである。わたくしが読んだことのない本のオンパレードで、「私の名作から」と「世界文学再訪」に挙げられた18冊の本で読了しているものは一冊もなかった(かろうじて「荒涼館」を半分ほど読んで挫折してるだけで、あとは手にしたこともない本ばかりである)。どうみても、俺はこんな本も読んでいるという威圧を感じざるをえないのだが、ここでは「書物という宇宙」と「勉強するなら西洋文学」の2編についてみてみたい。
 「書物という宇宙」では「自分の読書遍歴が自慢話みたいになっちゃうのは本意ではありませんので、本を読んだからといって偉いことは何もないとまず申しあげておきます。・・本はまあ全然読まぬより、少しは読んだ方がいいだろうという程度のものにすぎません」という。ここが違和感を感じるところで、中学のころに知った(正宗白鳥の?)「ひとは本を読むと馬鹿になる」というのがずっと頭に残っていて、どうすれば本を読んでも馬鹿にならないでいられるかというのが読書の一番の要諦ではないかと思っている。というか、ほとんどのひとは本を読むことで馬鹿になるので、その馬鹿から回復するために(あるいは本を読むことでできた傷から回復するために)、また本を読むことになるのだと思う。多くの読書はなんらかの問題を解くためになさせるのだろうが、本を読むひとの抱える問題のかなりは読書自体に起因しているのである。
 渡辺氏の最初の本との決定的な出会いは小学校3年のときの「プルターク英雄伝」なのだそうである。そのときから氏は子どもでなくなったという。まわりにはそんなものを読んでいる子どもはおらず、内面的な孤立がはじまった、と。そして中学2年の冬に読んだ「戦争と平和」が決定的で、あっという間にヨーロッパ19世紀文学のとりこになってしまったのだという。ここでいささか疑問が生じるのだが、人生の経験がほとんどない中学生が「戦争と平和」の世界に共感できるものなのだろうか?
 渡辺氏は「書物というのはことばで世界を把握しようとするいとなみ」で、ことばで世界をつかむというのは「世界そのものを生きることでは」なく、「生きるべき世界から一歩身をひいた構え」なのだという。この論理にしたがえば、本を読むということから「世界から引いた世界」にいってしまうことになるのだが、これは逆で「世界から引いている」あるいは「ずれている」と感じるひとが、その理由をたずねて本を読むようになるのではないだろうか?
 世界からはずれてなどいないほうがいいわけで、もしもずれているひとが本に走るのであれば、「本はまあ全然読まぬより、少しは読んだ方がいいだろうという程度」ということにはならない。本など読まないですむひとのほうがまともで、読むようなひとはどこか病んでいるわけである。そして本を読めば読むほどさらに「世界から引いて」いくことになり、病はますます深くなっていく。
 自分のことを考えてみると、小学校のときは世界からずれていなかったように思う。それがどういうわけか中学にはいった途端にどこからともなく居心地の悪さが生じてきて、周囲の光景が何か現実感の乏しいもののように感じられるようになり、手応えのなさというのか居場所のなさというのか、うまく表現できないのだが、とにかく世界がかわってしまった(などと大げさに書いているが、区立の小学校から進学校である私立中学に進んで、それまではそれなりに出来る子どもであったものが、並みの学生になってしまったという単なる不全感に過ぎないのかもしれない)。それで本を読むようになった。自分の場合を考えるとずれの意識が先であって、本を読んだからずれてしまったのではないように思う。
 渡辺氏は1930年生まれとあるから、わたくしより17歳くらい年上で、大正教養主義の殻を少し引きずっているのかもしれない。「本は全然読まぬより、少しは読んだ方がいい」というあたりにそれが見えるのかもしれない。
 「勉強するなら西洋文学」では、文学(狭義には小説)は面白いから読むもので、本質的には娯楽であると渡辺氏もするのだが、しかしその娯楽に古代からの「世界とこの人の世をどう受けとめるかという探求的なテーマがあつかえることがわかってくると、小説は娯楽という以上の真面目で深刻な相貌ももつようになったのだという。そのゆえにそれは研究の対象にもなりうるものとなったのだが、もしも文学を勉強したいなら西洋文学がいいよ、というのがこの「勉強するなら西洋文学」という文の眼目になっている。
 渡辺氏によれば、日本近代文学は相当レベルの高いものではあるが、「どうも息のつまる世界」であり、私たちを「ぎゅうぎゅうと狭い世界に誘いこんで」、「なんだか偏屈陰鬱で、気むずかしい人間にしてしまいそう」で、しかもそれは「世の中と人間を見切ってしまおうとする玄人、通人、達人の世界」なので、「修行と解脱を求められ」そうであるという。さらに日本人は文学は風流だと思っているともいう。(昨日のエントリーで「文学はなぜ読まれなくなっているか」をとりあげたが、この辺りは渡辺氏のそれへの答えなのかもしれない。たしかに村上春樹の少なくとも長編は、渡辺氏のいう日本文学の特徴から遠いところにある。それが売れている原因なのかもしれない。)
 しかし、西洋文学は全然違う。それは論理の世界であり、強靱な思索と広大な想像力に支えられている。それが西洋近代文学という人類史上にただ一度だけ出現した文化現象の根本的性格なのである。そう渡辺氏はいう。だからそれは勉強のし甲斐があるものである。
 そして氏によれば、昭和30年代までは日本人はなかなか勤勉にそれを勉強していたという。その証拠に、岩波文庫、角川文庫、新潮文庫などには、小説はむろんのこと、批評や評論まで今では専門の研究者しか知らないようなものが収められていた。それが1980年あたりを境に急速に崩壊し、今では新潮文庫や角川文庫には西洋文学の古典は超有名作のみ、岩波はまだがんばってはいるが、昔にくらべれば寥々たるものであるという。
 本棚から「静かなドン」(新潮文庫 昭和31)を出してみてみた(たぶん、中学のころに読んだのだと思う。昭和31年となっているのは、あまり売れないため初版のままであったのだろう。この本も新潮文庫にはもうないであろう。社会主義リアリズムなどという言葉はもはや死語であろうから、この本を読むひとがこれからでるとは考えられない。) 巻末の宣伝の部分で、仏文学ではジイドの本が25冊あがっていた。モーリャックが6冊。独文学ではカロッサが7冊、シュニツラーが6冊。トマス・マンも4冊あった。露文学では、プーシキン4冊、ツルゲーネフ8冊、チェーホフ12冊。この大部分はもはや文庫で入手することは困難であろう。
 窮屈な日本文学とは異なり、西洋文学の世界ははるかに広く、その中にはいると魂の振幅がぐっと大きくなる、と渡辺氏はいう。「絶望や恐怖に誘いこまれるかと思うと、解放されて息がのびやかにつけるようになる。世界が拡大されると同時に縦深的になる」と、内田樹氏が「街場の読書論」でいっていたのと同じようなことをいう。
 「大事なのは、西洋近代文学とは歴史上ただ一度だけ出現した人類の貴重な文化現象だということ」で、それは「17世紀の半ば頃出現し、18世紀の末には一応形をなし、19世紀を通して20世紀の半ばまで深化した」「いまや終焉を迎えつつある独特の文化現象」であり、それは「近代というものが考え方、生きかた、暮らしかたのあらゆる面で展開し熟成してゆく過程を反映するいとなみであった」のだから、「近代とは何であったのか、批判的にとらえ返してゆこうとする今日の課題にとって、何物にも替えがたい資料の一大宝庫といってよい」、「近代という人類の新しいありかたをもたらした動的過程の何よりの証言として西洋近代文学は存在する」のだから、「これは実に勉強し甲斐のある一大現象」なのだと渡辺氏はアジテートする。
 こういうあたりを読んでいると、渡辺氏は西洋崇拝のひとなのだなあと思う。西洋近代の成果をなにより大事な自分の核としている。私見によれば西洋近代がもたらした最大の贈り物は「個人」というもので、小説はその個人を描くものである。小説は英雄ではなく市井の平凡な人間を描く。そしてその内部に英雄のものと変わらないドラマがあることを示す。とすれば確かにそれは近代について考えるきわめて貴重な資料となるのであろう。そして、われわれは個人になったことで「幸福」になったのかという問いもまた必然としてでてくる。イリイチソルジェニーツィンパステルナークもそして石牟礼道子も、その疑問についてそれぞれ考えたわけである。しかし、われわれはもう「個人」というものを知ってしまったので、それを知らない過去に戻ることはできない。そのことがなければ「逝きし世の面影」は単なる「昔はよかった!」になってしまう。しかし、それは「逝ってしまった」のであり、もう生き返ることはない。
 たとえば、といって渡辺氏は「チェーホフ全集」を読むことを奨めている。ある個人訳全集はわずか12巻なので、ひと月あれば読めるでしょう、とこともなげにいう。本棚の奥のどこかに「チェーホフ全集」があるはずだから、読んでみようかと思う。以前、その一部を読んだときの記憶では、チェーホフの作品はなかなか重く、そうすらすらと読めるものではない。とても二日に一冊などは読めそうもない。しかし、月に一冊でも一年である。と思って本棚をみたらあるのは中央公論社の全16巻の全集(昭和43年ごろ刊行)で、そのうちの5巻しかなかった。なんでこのような買い方をしたのか思い出せない。お金が続かなかったのだろうか? 配本の最初のほうだけがあるようである。実際に読んだのは主として筑摩書房の世界文学体系46(1967年 第22刷)のチェ−ホフの巻で、細かい活字の3段組、480ページの読みにくい本だった。とりあえずこれを読み返してみようか? しかし、これには「煙草の害について」が収載されていない。とすると「全集」も一部読んだのだろうか? 本の整理が悪くてどうにもならない。本棚をもっとわかりやすく整頓しなくてはといつも思う。しかしそんな時間があったら本を読んでいたいのである。
 

細部にやどる夢―私と西洋文学

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日本近代の逆説―渡辺京二評論集成〈1〉

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逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))

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