青山拓央「分析哲学講義」(2)

 
 昨日、とりあえず「講義1」の部分だけ感想を書いたが、その残りの部分について。
 なんとか最後まで読んだが、感想はわたくしは哲学というものに縁無き衆生であるのだなあというものである。
 本書では「哲学する」という言葉がかなり頻回にでてくる。「はじめに」の冒頭にすでに「分析哲学をすることは、たんに哲学をすることや、たんに正確に考えることと同じ営みの一部です」とある。「哲学する」とか「哲学をする」という言い方は日本語としてまだ熟していないだろうと思う。「数学する」といはいわないのと同じように。だから、最初に「本書は分析哲学の入門書」とあるにもかかわらず、この本は「哲学する」という言葉が通じるひとを対象として書かれているよう思えてしまい、わたくしのような人間は相手にされていないと感じてしまう。第一章(講義1)の末尾に、氏が大学で教えていると生徒のなかに毎年少数ではあるが必ず「放っておいても哲学をしてしまう性行をもつものがいる」ということをいっているが、本書はそのようなひと(まだ初心者ではあるが哲学に感受性を持つもの)を本物の哲学の学徒へと鍛えていくことをねらいとしているように思える。だから哲学の世界の内部で閉じている仲間うちでの話のようで、その外にいるひとに分析哲学がどのようなものかを教えようという構えにはなっていないと感じられてしまう。
 だから、はじめから分析哲学というものがすでに自明なものとして存在しているとして話がはじまっていまう。それが何に応えるものとして、どのような問題意識のもとに、誰を論敵としてでてきたものなのかはほとんど語られない。あるいは、米英の哲学がほとんど分析哲学で覆われてしまっているとすれば、現在、哲学というものがどのような課題に応えるものとして存在しているのか、ということが本書では見えてこない。心身問題であるとかあるいはもっと卑近な問題としては痛みの問題であるとか、わたくしにかかわる医療と大いに関連することを論じている部分があるにもかかわらずである。心身問題を論じても、痛みの問題を論じても、みなそれが頭の話になってしまって身体がみえてこない。分析哲学とは言語を分析する学問である。言語は脳の機能である。とすれば、分析哲学とは脳の機能についての学問なのだろうか? そうであれば、そこから肉体が消えてしまうのは当然なのかもしれないのだが。
 本書を読んでいて強烈な違和感を感じた部分として、「現在の日本の大統領は女性である」という文を分析しているところがある。この文が現実とどのように対応するのかというようなことの議論なのだが、これはラッセルの分析なら『「現在の日本の大統領であるような人物がいる」かつ「現代の日本の大統領であるような人物は、多くても一人である」かつ「現在の日本の大統領であるような人物は、だれでも女性である」』となるとして、こう書いてもわかりにくいのは、英語においての表現なら、最初の文には定冠詞theがでてくるが、後の文章では定冠詞を含まないということが日本語で書くとわかりにくいとからというようなことをいった後、ちょっと不自然な日本語になるがといって、「現在の日本の大統領であるような何らかのもの(人間)が、少なくとも一つある」かつ「現在の日本の大統領であるような何らかのもの(人間)が、少なくとも一つある」かつ「現在の日本の大統領であるようなすべてのもの(人間)は、女性である」と言い換える。「現在の日本の大統領は女性である」のような文は確定記述句と呼ばれるのだが、なんのことはない定冠詞をふくむ文のことらしいのである。
 清水幾太郎氏は、「倫理学ノート」のなかで、「ムアは、言語の ― 英語の ― 分析を倫理学および哲学の殆ど唯一の問題たらしめることによって、ドイツ語国民やフランス語国民を含めて、私たち外国人を無力な傍観者の地位に追い立てた最初の人物となった」といっている。
 青山氏は、この日本語から日本語への翻訳?を滑稽なことをしているという意識なしにしていると思う。正確に表現するとどのような表現になるかを示しているとしているのだろうと思う。しかし、大部分の読者はこういう部分をまさに言葉の遊びとしか感じないのではないだろうか? だいぶ以前、定冠詞と不定冠詞の違いを説明した文で「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさん〈が〉いました。おじいさん〈は〉山に芝刈りに、おばあさん〈は〉川に洗濯にいきました」という文の、〈が〉が不定冠詞、〈は〉定冠詞に相当するというのを読んで、えらく関心したことがある。そういわれてみると、最初の方の文は「大統領〈は〉女性」である。その翻訳は「大統領〈が〉」となっている。日本語で「現在の日本の大統領が女性である」という文は単文としては成り立たない。これは「現在の日本の首相が男性である」という文が単文としては成り立たないのと同じである。しかし「むかしむかしあるところに日本の大統領がおりました。女性でした」は成り立つ。などということが意味のある議論になるとは思えないが、なんだか、哲学の門外漢としては青山氏がそのようなことに熱中しているようにみえてしまうのである。
 清水氏がいうように、分析哲学が「英語の分析を倫理学および哲学の殆ど唯一の問題たらしめ」たのであれば、それが米英の哲学界を席巻してしまっているのも宜なるかなである。それは英語についての学問なのだから。そうであるならそれを現代の日本でする意義はどこにあるのだろうか?
 清水氏は(ムアやラッセルがそのような哲学をはじめたのは)形而上学への強い嫌悪および恐怖があったからであるという。そこでの形而上学とはその当時の英国の哲学界を覆っていたヘーゲル流の大言壮語の哲学である。だからこそ「哲学者の難解で曖昧な言葉に分析を加えて、これを平明で正確な用語に翻訳するという仕事に生き甲斐を感じることができた」のだという。そして清水氏はそのような形而上学から力を奪ったのは、ムアやラッセルの運動ではなく、科学、技術、産業の発展であったかもしれないという。
 わたくしは昔から「クレタ人のパラドックス」という話のどこが問題なのだかよくわからないできた。一つには嘘つきがいうことがいつも嘘であるのなら、彼はつねに本当のことを語っているのではないかという屁理屈からなのだが、もう一つはわれわれはあるひとが嘘をいっているかどうかを、その言葉だけから判断するだろうかという疑問からである。われわれはそのひとの顔つきや風体や態度物腰、さらには口調など、実にさまざまなものを根拠に判断していると思う。それなのにただその言葉だけを問題にするというのはいかがなものかと思ってしまう。まさに哲学音痴である所以なのであろうが、それで思い出すのが、中井久夫氏らによる「天才の精神病理」のヴィトゲンシュタオンの項で紹介されているいるスラッファというひととの逸話である(これは結構有名な話らしくほかでも読んだことがある)。
 ヴィットゲンシュタインが、命題とそれが記述しているものとは同一の論理的形態をもっていると主張すると、スラッファというひとが「これはどうだ」といってあごを撫でたのだという。これはナポリ人特有の軽蔑の身ぶりなのだそうである。ヴィトゲンシュタインは身ぶりとその意味の構造的同一性を発見できず、かねてよりの映像説を決定的に捨てたのだという。「そういうこともあるさ、自分の説ではカバーできないこともある」などと考えずそれによって決定的に打ちのめされて、それまでの自説を撤回してしまうヴィトゲンシュタインというひとも変なひとだと思うが、そもそも仕草だとか身ぶりだとかによるコミュニケーションということが持つ意味にそれまで思いいたらず、言語というものがすべてを覆うとしていたということが信じられない。なんだか雲の上のひとである。清水氏の本はヴィトゲンシュタインが前期の「論考」の時代には雲の上にいて、後期の「探求」の時代になって地上に降りてきた(それにもかかわらず分析哲学はいまだに雲の上にいる)というようなことを主張している本であるが、「天才の精神病理」ではヴィトゲンシュタインにとっては、「論考」も「探求」もまず自己治癒のための試みであったということがいわれている。
 「精神病理」では、ヴィトゲンシュタインは古典的な分裂病圏のひととされているが、そのようなひとは、抽象的で自己完結的な“世界等価物”、たとえば数学や論理学、言語理論などの体系をつくろうとするとされている。ヴィトゲンシュタインは「論理的真理はすべてトートロジーである」とした。それはそれ故に現実については何も教えず、また現実によって反駁されることもない。それは現実に犯されない美しさを持つ。それが彼を救った。
 ヴィトゲンシュタイン部分の執筆者である中井氏は、「人は、相矛盾するようにみえる二つの事実、すなわち自分が“世界の中の一人”であるという事実と、(自分にとっては)自分があってはじめて世界があるという事実を統合して余裕感と能動感を生み出している。これはわれわれが不断ほとんど意識せず、いわば大気のように呼吸している自由感の源泉である。逆に極限状態においては、自分が隠れようもなく一人で世界と対決しており、世界は自分を無限に凌駕し、あたかも世界が自分に優先するように感じられる。これは“聖なるもの”体験として宗教的回心体験にも通じうるが、分裂病発病の危険も切迫している」という。ヴィトゲンシュタイン第一次世界大戦への従軍において、その危機をむかえ、それを克服することで「論考」にいたったのだという。中井氏はその危機によって、従来は「語りうるもの優位」の論として構想された「論考」が「語りえないもの優位」へと転換したのだという(同じ本のままで)。だからウイーン学団の「論理実証主義」者たちの「論考」理解はまったく間違ったものとしか彼には感じられなかった。哲学は知性の惑溺に対する闘いであると彼はした。ある時代の病は、人間が生き方を変えれば治り、哲学的問題の病は、考え方と生き方を変えれば治る。個人の発見した薬では治らないとしたのだそうである。
 なんだか青山氏とその本のことがどこかにいってしまったが、わたくしには清水氏や中井氏の論のほうがぴんとくるし、身につまされるのである。それこそが哲学音痴ということなのだろうが、何か具体的なものへの解答としてではない抽象的な論というのがわがこととしては感じられない。昔、どこかでポパープラトンイデア論ピュタゴラス教団の徒であったプラトンピュタゴラス教団の門外不出の秘密?である二等辺三角形の対辺に出現する無理数を救うものとして構想されたとか、カントの哲学はヒュームの論に震撼されひとは決して真理にいたれるはずがないことを得心していたカントがニュートンが真理を発見できたことに驚愕して、それを整合させるために構想したものであるとか書いていたのを読んだことがあって、なるほどと思ったことがある。プラトン専門家やカント専門家にいわせると、まったくもってナンセンスな論ということになるらしいが、わたくしはこのような補助線がないと、哲学を読めない。そしてこの青山氏の本を読んでも、分析哲学についていまだ補助線がどこにも見えてこないのである。
 

分析哲学講義 (ちくま新書)

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倫理学ノート (講談社学術文庫)

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天才の精神病理―科学的創造の秘密 (岩波現代文庫)

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