今日入手した本

完本 酔郷譚 (河出文庫)

完本 酔郷譚 (河出文庫)

 
 完本とあるのは既刊の「よもつひらさか往還」と「酔郷譚」を併せて一冊の文庫としたということらしい。ともに「サントリークォータリー」という雑誌に連載されたものだからこれが本来の姿なのかもしれない。「よもつひらさか往還」は2002年刊だから、著者生前の刊行。単行本の「酔郷譚」は2008年刊で作者死後の刊。「よもつひらさか往還」を刊行した時点では作者はもっと書き継いでいくつもりであったのかもしれないが、そのあたりの事情はわからない。
 倉橋さんが気の毒であったと思うのは、どうも酒が呑めない体質であったらしいことで、お師匠さんの吉田健一の書いた酒をめぐってのさまざまな話をどのように読んでいたのだろうかと思う。そういうひとがサントリーの広報誌?に掌篇を連載していたというのは皮肉といえば皮肉である。
 実は「よもつひらさか往還」も「酔郷譚」も持ってはいるのだがほとんど読んでいない。それでこんど文庫になったのを機会に読んでみようかということである。読まずにこういうことを書くのはどうかと思うけれど、おそらくこれは後期倉橋氏のいわゆる桂子さんものからスピンアウトしたような作で、英雄ならざる凡人を描くのなどまっぴらとした倉橋氏が描こうとした理想の貴族たちの世界なのである。それらは主には「シュンポシオン」とか「交歓」とかの長編で描かれたが、この掌篇連作はそこの登場人物たちが、吉田健一の晩年の「怪奇な話」のような幻想の世界で遊ぶ話である。倉橋氏としては清談の世界、脱俗の世界を描こうとしたのかと思うが、どうもそこでの貴族たちのハイカルチャー趣味というのが鼻につくところがあって、それでわたくしは今まで読めないで来た。
 解説を松浦寿輝氏が書いているのだが、そこで氏は倉橋氏のダンディズムということをいっている。すなわち自分の精神の貴族的な優越性への確信。倉橋氏が「酔郷譚」で描くのは「歓を尽くす」という典雅な世界であると松浦氏はいうが、そのきわまるところは食と性であろう、と。だが、「歓を尽くす」のは、動物的な本能への盲目的な埋没ではなく、貴族的に優越した精神にのみ赦された、余裕ある優雅な遊戯だとでも彼らは言いたげである、と松浦氏はいう。
 わたくしの見るところ、倉橋氏はきわめて植物的なひとであったように思う。変な言い方かもしれないが、struggle への志向、survival への志向がほとんどなかったひとなのではないかと思う。だから動物的な満腹への希求も乏しかったのではないだろうか? つまり食への執着などあまりなかったひとだと思う。それなら性のほうはといえば、こちらについてもきわめて恬淡としていたかたなのではないかと邪推する。だからどうもそういうひとたちが繰り広げる交歓というのも生々しくなくいたって植物的である。漢詩の世界、竹林の七賢人の脱俗の世界に近い。「草枕」の非人情の世界とはちょっと違うかもしれないが、なんとなく東洋的な世界であるように思える。
 ダンディズムの言語のきわまるところは詩である、と松浦氏はいい、「酔郷譚」は小説のかたちでの詩の賛歌とも読めるという。そして倉橋氏の詩の趣味は悪くはないがといって、詩人でもある松浦氏はいう。でも三好達治をほめるのはいかがなものか、と。松浦氏はあれは一流の詩ではないというのだが、なに倉橋氏は吉田健一三好達治賛美を踏襲しているだけなのではないかと思う。確かに、三好達治が日本の詩人の代表であり続けたりしたら、日本の現代詩の未来はないのかもしれないが、普通の読者がそんなことに義理立てする必要はないはずである。
 ところで、「酔郷譚」の酔郷は蘇軾の詩の一節なのだろうで、「すいきょう」と読むらしい。で、タイトルは「酔狂」や「粋狂」ともかけてあるらしい。いままで「すいごうたん」と読むのとばかり思っていた。無教養はおそろしい。