今日入手した本
- 作者: 倉橋由美子,小池真理子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/04/01
- メディア: 単行本
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「精選女性随筆集」という全12巻のシリーズの3となっている。このシリーズの選は小池真理子と川上弘美の二氏がおこなっていて、本巻の選は小池氏がおこなっている。小池氏は倉橋氏それも前期の倉橋氏の熱狂的なファンであるらしい。
それで巻頭に「わが青春の倉橋由美子」という文があるのだが、これがなんだかよくわからない文章である。
「アンモラルどころか「無道徳」を目指した」というのは本当だろうか。そういうものこそもっとも倉橋氏が嫌ったものではないと思うのだが。「三島や三島文学を賞賛しているようにも思えない」というのは? 倉橋氏は三島と同じ物を目指していたのではないだろうか? 「過剰なまでのシニシズム」というも? 倉橋氏が一生かけて目指したものはシニシズムの克服ということなのではないだろうか? 氏が嫌った「文学青年的」「文学少女」的なものとは、シニックであることになんの疑いももたないひとのことではなかったのか? 倉橋氏は三島由紀夫にシニシズムの克服を目指す先達をみたのである。そしてその死によって三島のめざしたシニシズム克服法は間違いであると悟り、それで吉田健一に乗りかえたのである。「世俗が扱う型通りの女性性を激しく嫌悪した」というのもまたわからない。倉橋氏は型通りの女性になりたくてしかたがなかったのではないだろうか?
ことごとく小池氏の書いていることがわたくしの倉橋理解と反するので面食らってしまった。テキストをどう読むのも自由ではあるが、わたくしが感じるのは小池氏というのは永年の文学少女であるなあということである。倉橋氏のなかにも濃密に文学少女的なところがあるとは思うが、倉橋氏にはそれは治癒をめざすべき病気であるとみなされていたはずで、氏が何よりも嫌ったのは病気自慢をするひとであった。
小池氏から見ると、「夢の浮き橋」以降の倉橋作品は、それまでの前衛性や戦闘性を失ってしまったものと見えるのだろうか?