今日入手した本

 「本書は最初から最後まで嫌味の霧に包まれた本にしたかった」のだそうである。「クラシックは基本的には豊かな人の音楽である。あるいは豊かであろうとする人の音楽である。豊かでもなければ、豊かになろうとしてもいない人の音楽ではない」などと書いているのであるから、なかなかどうして嫌味どころの話ではない。
 本書の主題の一つは、まだちらちらと目を通しただけであるが、ハイカルチャーにおけるスノビズムの問題であるらしい。わかりもしないのに、高級な人間あると思われたいためにわかったふりをしている聴衆の存在なしにはクラシック音楽の世界は成り立たないらしい(というよりもそういう人たちがいてさえも、存続が困難になりつつあり、絶滅への道をたどりつつあるように見える)。
 スノビズムが働かなくなるとどうなるかの典型が現代詩の世界かもしれなくて、スノッブは俳句や短歌にいってしまう。小説だってスノッブの関心をひかない存在になってしまったので、あっという間に読者が同人誌に毛の生えた程度にまで減ってしまったのではないだろうか。
 わたしがクラシックの演奏会にいくといつも感じるのは、女性がもっと着飾ってくればいいのにということである。仕事帰りの普段着で来て、演奏が終わると、まだ拍手が続いているのにそそくさと席を立つ(そうしないと遠方まで帰るのが大変なのであろう)、許氏にいわせれば貧乏くさいということになるのかもしれないが、スノッブが一番集結しそうなオペラの演奏会でさえそうなのだから、まだまだスノッブの道も遼遠なようである。
 しかし、許氏がいいたいのはそういうことではなくて、現在のクラシックの演奏でまともものはほどんどないぞということなのである。わたくしは許氏の以前の本でファイジル・サイというピアニストとケンプのバッハ演奏について教えられた。それだけでも十分なのであるが、わたくしはむしろ日本のクラシックの聴衆の問題は3流や4流の演奏を聴く機会が少ないほうことなのではないかと思っている。裾野すなわち素人の演奏に毛の生えた程度の演奏が周囲にほとんどなく、プロの演奏しか聴かないというのは、通俗小説などは読んだことがなくて読んでいるのは傑作といわれるものだけというのと同じなのではないだろうか?