今日入手した本

西洋哲学史 1 「ある」の衝撃からはじまる (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 1 「ある」の衝撃からはじまる (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯 (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯 (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 3 「ポスト・モダン」のまえに (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 3 「ポスト・モダン」のまえに (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 4 「哲学の現代」への回り道 (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 4 「哲学の現代」への回り道 (講談社選書メチエ)

 昨日のたしか毎日新聞の書評欄に山崎正和氏が紹介していたもの。いま山崎氏の「世界文明史の試み」という厚い本をぽつりぽつりと読んでいるのだが、あまりに文体が静的で血沸かず肉踊らずで遅々として進まない。書いてある内容はかなり衝撃的なもので、西洋文明は唯一の普遍的な文明で、世界はその単一の文明へと収斂しつつあるというようなものではないかと思う。ポストモダンの陣営のひとがきいたら憤死しそうな主張である。
 昨日の山崎氏の書評によれば、この西洋哲学史もまた、その山崎氏の主張の路線なのだそうである。第3巻は「「ポスト・モダンのまえに」というタイトルなのだが、第1巻の序文にあるように「「構造主義」や「言語論的転回」などの「ポスト・モダン」と呼ばれる潮流は、・・「未だ歴史に入らず」」ということで、この西洋哲学史ではパースやベルクソンあたりを下限にして、それから後はとりあげない」という潔い?方針なので、最終の第4巻も「「哲学の現代」への回り道」というタイトルで、ポスト・モダンの前で回り道してこの西洋哲学史は終わりということになるようである。
 昨日の書評で山崎氏は西洋の人間というのは何とも奇妙なことを考えるものであるというようなことを述べていた。今、朝日カルチャーセンターで國分功一郎氏のスピノザの講義をきいているのだが、この前の講義はデカルトの神の存在証明のあたりであった。神の存在証明にはいろいろのひとのいろいろなヴァージョンがあるらしいが、「もし、神が存在するとすれば、それはあらゆる属性を備えているはずである。であれば存在という属性ももっているはずである。よって神は存在する」とかいった証明をきいたときには本当にのけぞったものだった。よくまあぬけぬけとあっけらかんとしてこういうことをいうと感心した。一人の人間が神の存在証明をしてしまう。こういう態度をこそ神をも畏れぬというのである。だから西洋哲学史は同時に西洋奇人伝でもあることになる。しかし、そういう奇人変人が自然科学をつくり、西洋音楽をも創ってきたわけである。この4巻もある本を通読するかどうかはわからないが、ところどころぽつぽつは読んでみたいと思う。とりあえずは第4巻の「オッカムからヒュームへ」あたりから。