高野文緒「カラマーゾフの妹」

   講談社 2012年8月
 
 昨日、80ページくらいまで読んで、つまらないなあ、読み続けられるだろうかと書いたが、100ページ目あたりで「悪魔」がでてきて、あぁ「巨匠とマルガリータ」のパクリと思い、少し風景が変わって、これで読み続けられるかなと思ったのだが、この「悪魔」も大した奴ではなくて(「カラマーゾフ」に悪魔がでてくるのだったら、大審問官のむこうをはるような大物であって欲しい)、その内に電子?計算機だとかロケットなどがでてきて、あれあれ?と思っているうちに、なんとなく読み終わってしまった。
 これは「カラマーゾフの兄弟」の後日談という設定なのだが、イワンもアリョーシャもグルーシェニカもスメルジャコフもドストさんが書いた人物とはまったく別人と考えたほうがいい(ミーチャはすでに死んでいて出てこない)。原作のフュードル・カラマーゾフの殺人という筋だけを借りたもので、登場人物は名前だけの借用である。イワンもアリョーシャもグルーシェニカもスメルジャコフもこんな書き方をされたのでは、浮かばれないというものである。何だか全然、厚みがない。
 ミステリというのは謎解きが合理的でなくてはならないという制約がある。密室殺人で犯人は壁を抜けることができたというようなことがでてきたら、読者が許さない。しかしドストさんがいいたかったことは人間は合理的なものではないということなのである。だから、困ったことになる。ここでは精神分析的な説明とか多重人格とかがでてくるのだが、こういうものこそドストさんが嫌った合理的説明なのである。わたくしは犯行の動機が幼少時のトラウマだったという作品が嫌いなのだが、一般にはそういう説明が説得的と思われているのだろうか? 精神分析学は現代ではきわめて支持するひとの少ないマイナーな学問分野となっていると思うのだが、文学の世界ではいまだに不動の真理に近い扱いをされているのが不思議である。
 作者はSFの世界ではすでに実績のあるひとのようで、本の半ばからは当時のロシアを舞台にしたSF的様相も呈してくる。その当時に二進法を使った計算機だとかロケット弾などがあることになっている。プリンターなどというものまで出てくる。しかし、それも読者の目先を変えて、話をなんとかつないでいるだけのように思える。
 一番思ったのは、これを翻訳したとして海外で受け入れられるだろうかということである。ミステリというのは一晩の暇つぶしであるが、一晩の暇つぶしのために全精力を傾けるというのがプロというものである。毎年末に今年のミステリベスト10といったものが発表されて、最近はそんなことはしなくなったが、以前はその数冊を読んだりしたことがあった。その時に感じたのが日本と海外のミステリのあまりのレベルの差ということである。背景にはマーケットの規模の違い、読者層の厚さの違いということがあるのであろうが、海外の作品の密度がきわめて高いのに対して、日本のものはどれもすかすかという印象をもったものであった。本書も正直、非常にレベルの高いアマチュアの作品という印象で、プロとして読者からお代をいただく水準に本当に達しているのだろうかという疑念が残った。
 本書は本年度の江戸川乱歩賞受賞作で、江戸川乱歩賞から出た桐野夏生氏などは翻訳されて世界中で読まれているそうだから、日本のミステリのレベルがすべて低いということではないのだろうと思う。そしてその桐野氏は賞の選者の一人であり、本書を誉めている。だが、選評にある「この荒唐無稽さを乗り越えてしまえば」というのが問題で、「この荒唐無稽さ」を許してしまうのが日本のミステリ業界(というようなものがある??)の甘さなのではないだろうか? 「世界標準」では、許容されないうように思う。オリンピックに参加したが、一次予選敗退というレベルでいいのだろうか?
 そもそも江戸川乱歩という人が、日本でだけ通用する特異なローカルなひとということはないのだろうか?
 

カラマーゾフの妹

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