橋本治「浄瑠璃を読もう」(3)

 
 『人形浄瑠璃に「お姫様」が登場すると、彼女の仕事は「恋をすること」になってしまうのが通り相場』と橋本氏はいう。『ただもう一途に恋をする。はたの迷惑も考えず、「逢わせてたべ」と泣きすがる。「お姫様」ばかりでなく、「若い娘一般」がそうである』と。
 『「それはそれ、これはこれ」という形で、モラルの規制と恋愛の自由は、たやすく分離して同居している。』 それならば、『江戸時代に、「恋愛は自由」だったのだろうか? それともいけないことだったのか?』 『答えは・・現実的である。・・「恋愛の衝動は誰にでも訪れる。しかし、それが幸福な形で結実するかどうかは分からない」という、いたってノーマルなジャッジをするのである』と氏はいう。
 『彼女達は、他の人間がそうそう没頭出来ない「恋愛」というものに手を染めて、「社会の維持」で身動き出来ない人間達のため、「恋愛というすきま産業」を提示するのである。・・優先されるのは、男が担当する「社会秩序の維持」で・・「社会の安定があってこそ、あなたの恋愛もある。・・しかし、あなたに“恋愛の自由”を存在させる“社会の安定”が崩れたら、そうはいかない」なのだ。
 『昔の女の「社会参加」は、「結婚して妻となり、「家を支える」だった。「家」を社会の一単位とする形で世の中が出来上がっていたから、「専業主婦になる」は、安定した社会を維持するための社会参加だったのである。だから立派な専業主婦になると、恋愛なんかをしている余裕はなくなる・・』
 三島由紀夫に「第一の性」というふざけた本があって、こんな一節がある。『文楽の人形芝居を御覧になった方は、すぐに気がつかれる筈だが、そこでは深窓のお姫様が、「一度でもいいから、あなたと寝てみたい」などと恐るべきことを口走り、男のほうはモジモジ、ウロウロ、煮え切らない態度でひたすら守勢に廻っている。/ 文楽研究家の意見によると、これは人気のある女形の人形を活躍させるための、自然に反した技巧である、と言うことになっているが、この説はどうも学者の垣のぞきの感があり、本当は、わけ知りの浄瑠璃作者が、男女関係のリアリズムを知っていたたためではないか。・・愛とは、暇と心と莫大なエネルギーとを要するものですが、男には暇もなければ、心も発散的、しかもエネルギーの大部分は仕事にとられる、これでは「愛」の適格者とは言えない。』
 橋本氏と三島氏は同じことをいっているのだろうか? 三島由紀夫は明かに男のほうが女よりも偉いと思っていて、男は実に様々なことができるが、女はそのごく一部しかできないが、その部分においては男を凌駕するという男尊女卑の考えを露骨に示しているが、橋本説の根幹は「家」なのである。「家」というものが存在しなくなると、「恋愛」というものも暴走はじめるぞということである。
 浄瑠璃というものが我々にとって切実なものでなくなってきている最大の理由は「家」といものが我々にとって切実なものではなくなってきているということであろう。狭い意味での「家」は我々にとってほとんど実感のないものとなってきている。しかし「お家騒動」という言い方での「家」、広義の「家」はまだそうとはいえないかもしれないわけで、よく考えれば、「仮名手本忠臣蔵」だって「義経千本桜」だって「菅原伝授手習鑑」だって、みな「お家の大事」の話である。
 もしも会社というものが我々にとっての「家」であるという感覚が無くなってしまえば(もう国がわれわれにとっての「家」であるという感覚をもつひとはほとんどいないであろうから)、これからは男にとっての「仕事」もまた「恋愛」であるということになるかもしれない。橋本氏は浄瑠璃でのイケメン像から、草食系男子の伝統は江戸時代からあるのだといっているのだが。
 『男というものは、シャンとして黙って立っていれば、必ず誰か女がやってきて愛してくれる』と三島由紀夫はいう。その通りだとは思うのだが、しかし、これからは「男がシャンとして黙って立っている」ということがどんどんと難しくなっていくのだろうと思う。
 

浄瑠璃を読もう

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第一の性 (1973年)

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