橋本治「浄瑠璃を読もう」(5)

 
 次は『ひらかな盛衰記』。
 これは『源平盛衰記』の分かりやすい「ひらがな版」なのだそうである。であるが、『源平盛衰記』自体が学者しか読まない一般の読者にはなじみがないものとなってしまっているので、もっと説明が必要になって、橋本氏によれば『源平盛衰記』は『平家物語』の異本のひとつなのだそうである。
 さて橋本氏によれば、ここでの「ひらかな」とは「女のこと」でもある。『「ひらかな」とは、「男達の物語」でしかないような歴史に、女達も存在する「家族」という要素を持ち込んで、俗化し、立体化する作業でもある』ということである。時々あるNHKの大河ドラマのようなものなのであろう。
 梶原景時木曾義仲の話なのだそうだが、重要な役として景時の息子、梶原源太景季がでてくるらしい。この景季、「鎌倉一の風流男」なのだそうで、当然イケメン、文楽のイケメン首は「源太」と称されるのはそれによるという。そして『「いい男と決まっている男は、どうあってもいい男である」という公理があって、すべてはそこから始まる』という。「色男、金と力はなかりけり」で、金と力だけでなく知性もまた持たないかも知れない。まともな判断力もない色男が困っていたら困っていたらどうするか? これを「色男」と思う人間は、これを助けるのだ、と。なぜ? それは信仰のようなもので、理由などないのだ、と。源太の恋人というのか、源太を思う人として千鳥という女性がいる。これが源太を養うために遊女となって梅が枝と名乗っていて、源太のために大金が必要になって、一心不乱に手水鉢を柄杓で叩く。と、「あら不思議」で小判の雨が降ってくる。それで源太は鎧を取り戻し、無事戦場におもむくことができ名誉回復、ふたりは結ばれました。めでたしめでたし、で話が終わるのだそうである。『まとも頭で考えれば、「なんだこの展開は?」というような話だが、まともに考えなければ、これは「江戸時代のシンデレラ」ということがわかるだろう』、と。『源平の合戦がシンデレラ姫の話になるなんて無茶だ」と言っても、そうなっているのだから仕方がない。』
 わたくしが驚いたのはそちらの方面ではなくて、梅が枝の手水鉢というのがそういう話だったのかという方である。てっきり梅の絵が描いてある手水鉢で、出典は落語かなにかと思っていた(恥)。
 前回の記事で、「ひらがな」対「漢文」というようなことを書いたが、つまり女対男、私的な世界対公的な世界でもあるということである。そして浄瑠璃は江戸時代の町人のもので、町人は公的な世界(政治の世界)に一切参加することができなかったから、公的な世界もまたすべて私的な論理で乗り切ってしまう、それが浄瑠璃の世界となるということでもある。
 三島由紀夫は『第一の性』でこんなことをいっている。『身も蓋もないことを言えば、女性的原理がわれわれにとって永遠に不可解であるごとく、男性的原理は女にとって永遠に謎なのです。そして、男性的原理の象徴である英雄なるものを理解するには、女には女のやり方しかないわけで、毛糸の人形の一カ所から、綻をみつけて毛糸を引っ張るように、「ニコッと笑った顔が可愛いわよ」などという観点からだけ英雄を眺め、その観点から毛糸をズルズル引っ張り出して、ついには毛糸の人形をバラバラにしてしまって、ただのこんがらかった毛糸の玉にしてしまうのです。・・男の愚劣な英雄ごっこは、ただちに肉体の領域を通り抜けて、精神の領域までひろがってゆき、根本的動機は実に幼稚なのだが、ひろがりゆく先は、世界の政治・経済や、思想や芸術すべての英雄ごっこ、あらゆる大哲学や大征服事業や大芸術を生み出した英雄ごっこへと到達するのです。つまり男の足は、女よりもずっと容易に、地につかなくなりうるのです。「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての栄光のもとであります。』
 橋本治というひとはこのような英雄志向というのをほとんど欠いたひとのように思う。「足が地についた人」である。とすると三島からいうと「女」ということになってしまうのだが。
 
 片山杜秀氏の「未完のファシズム」を読んで、氏の「ゴジラと日の丸」というコラム集を思い出したが、見当たらないでいた。最近、本棚の後ろからようやくでてきた。それをパラパラとみていたら「橋本治の情念の質には、ちょっとのけぞる」という91・12・18という日付のコラムがあった。橋本氏の『橋本治画集』への感想である(わたしは橋本氏の本のかなりを持っているが、この本は持っていないし見ていない)。そこに「全体のトーンとして見えてくるのは、強烈な伝統志向、濃厚な日本情緒、やみがたいノスタルジーといった、桃尻っぽくない手合いだ」とある。ここで桃尻っぽいということで言われているのは、成熟の拒否というようなことで、片山氏の言い方では「腰を据えるな据えたら負けよ、少女の戯れ結構じゃないか、それで世界を語りゃいい、ホイホイ、てなもんである。あくまで固まらず、悟らず、縛られず、未完成、未成熟の上に開き直り、世界を滑走しつづける」というようなことである。
 『橋本治画集』には、「闇にひかれる屈折した情念」といったものもあって、そこには、血ぬられた業を描く歌舞伎作者である鶴屋南北を卒論とした橋本治がいるのではないか、そう片山氏はいう。軽やかな桃尻娘とは対極的なドロドロとした情念の世界が歌舞伎にはある。しかし、ところで歌舞伎のドラマには、偶然の積み重ねが続き、完成を嫌うようなところがある。芝居の途中で役者が「まず今日はこれぎり」と口上を述べると芝居が終わってしまう。という点では桃尻的なのであり、橋本氏の一番の根っこには歌舞伎があるのではないかとする。
 「浄瑠璃を読もう」の「あとがき」に、「はっきり言って私は、義太夫節が音楽として好きで、面倒臭い話なんかどうでもいいんです」と氏は書いている。いまどき義太夫節が音楽として好きというひとはあまり多くはいないのではないかと思う。それが橋本氏の難解の根っこにあるのだろうと思う。
 

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