片山杜秀「続クラシック迷宮図書館」

   ARTES 2010年3月
 
 「未完のファシズム」以来、片山氏の本をいろいろ読み直しているが、これもそのうちの一冊。様々な音楽書についての書評を集めたものである。
 その中から、2005年11月の「『モオツァルト』と「近代の超克」」は井上太郎氏の『モーツァルトと日本人』の評。
 井上氏のこの本は日本におけるモツアルト受容について論じたもので、それによれば、大正から昭和にかけては、モツアルトは天才ではあるが知的論理的には不十分というようなものであった。何が不十分かといえばべートーベンにくらべてということで、その背景には近代主義進歩史観があるのだという。すべてはベートーベンに収斂する過程にすぎないと。
 こういう見方を大きく変えたのは1941年に河上徹太郎訳で刊行されたパウル・ベッカーの「西洋音楽史」だったという。ベッカーは各時代・各時代にはそれぞれの独自の価値があるのであり、ハイドンもモツアルトもベート―ベンもそれぞれに独自の価値があるのであり、それぞれに優劣はないとする多元主義的な見方を打ち出したものであった。井上氏はそこからベートーベン一辺倒からの脱却を天皇絶対の体制からの解放に結びつけようとしているらしいのだが、片山氏は別の見方ができるのではないかとする。
 河上徹太郎がこの翻訳を出したのは「大東亜戦争」開戦の年である。そして河上は翌年には「近代の超克」座談会を開催している。この「近代の超克」の理念とはベッカー音楽史の政治史への応用ではないかというのである。明治維新以来、日本は西洋の説く近代の理想を信じてきた。その理想は、進歩・普遍・国際の組み合わせである。進歩という一本の道があり、国・地域によって進み方は違っても最終的には一つの普遍的価値に収斂していくという見方である。それに対して「近代の超克」では日本には日本の道、アジアにはアジアの道があるのであって、目指す方向はいろいろあっていいとした。多元論である。そして小林秀雄の『モオツアルト』もまた「近代の超克」論の一つの変奏ではないかというのである。
 この片山氏の論はいささか強引ではないかと思うのだが、氏のベッカー「音楽史」の説明を読んでいて、まったく別のことを考えた。この本の主張は何かに似ているなあと思って、ああクーンの「科学革命の構造」だと気づいたのである。ベッカーの本は(持ってはいるが)読んでいないけれど、別にパラダイムとか、ハイドンの音楽とベートーベンの音楽は相互に理解不能などと書かれているわけではないと思う。しかし、それぞれの作品はそれとして完成しているのであり、その作品自体に意味はないが、後世の作品を準備したという点において意義があるといった見方を否定しているのであろう。クーンの本も、コペルニクスの世界もニュートンの世界もアインシュタインの世界も、それぞれが一つの完成した世界であって、不完全な理解からより完全な理解への進展を示しているのではないということをいったのであろう。
 わたくしはポパーの信者なので、科学の世界には真理というものがあり、進歩というものがあると思っているが(それが存在するということが科学の定義?)、音楽の世界には真理とか進歩というようなものはないと思っている。そして政治の世界にもまたそういうものはないと思っているので、ベッカーの本が説いていることはきわめて説得的であると思う。
 しかしでは、「個人」というものもまた多元的な価値の一つであって、普遍的な価値ではないのかということが分からない。明治に西洋から輸入された最大のものの一つが「個人」という思想であって、小林秀雄河上徹太郎もその産物だろうと思う。そしてわれわれに西洋の「個人」というものを一番よく理解させてくれたものがモツアルトとかベートーベンとかいう名前なのではないかと思う。
 私見によれば小林秀雄の「モオツアルト」はアンチ=ベートーベンの論で、ベートーベンが代表するものが西洋なのである。そして西洋とはロマン主義の謂いなのであるから、小林秀雄が描くモツアルトはもっと普遍的な美の体現者なのである。超克されなければいけない近代とはベートーベンなのであって、しかしそれに対置されるものは東洋の何かといったものではなく、もっと普遍的な何かなのである。
 
 ところでこの井上氏の本の書評の次に、フラハティという人の『シャーマニズムと想像力』への書評「モーツアルトは猫のように鳴きながらとんぼ返りした」があるが(2005・12)、それによればモツアルトはシャーマンだったのである。
 キリストはシャーマンだったのだが、キリスト教はキリスト以後にシャーマンが現れることを抑圧した。それで、西洋世界からはシャーマンが消えた。マルコ・ポーロが先鞭をつけたのだが、16・17世紀になると世界中から「音楽をし、踊り狂いながら、神的おこないを為す」人間の存在が次々と報告されるようになり、ツングース語に由来するシャーマンという言葉も定着した。
 そして「シャーマンがいたほうが、社会はなにかワクワクするものになるのではないか、そういう存在を否定してきたキリスト教支配下のヨーロッパ文明のほうがおかしいようにも思われてきた。」 そしてヨーロッパにふたたび現れたシャーマンがモツアルトだったというのがフラハティの本の主張らしい。小林秀雄とは似ても似つかぬモツアルト像である。
 ベッカーの本もフラハティの本も、ともに西洋ってどこかおかしいぜ、ということをいっている。そう思わせる鍵の一人がモツアルトらしいのである。
 

片山杜秀の本(4)続クラシック迷宮図書館 音楽書月評2004-2010 (片山杜秀の本 4)

片山杜秀の本(4)続クラシック迷宮図書館 音楽書月評2004-2010 (片山杜秀の本 4)

科学革命の構造

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