今日入手した本

その未来はどうなの? (集英社新書)

その未来はどうなの? (集英社新書)

 
 橋本氏は2年前から大病にかかっているらしく、「体力・気力・知力ともにない」などと「あとがき」に書いている。
 本書ではテレビ、ドラマ、出版、結婚、歴史、TPP、経済、民主主義といったさまざまな話題がとりあげられているが、以前の氏であれば、それぞれのテーマで新書を一冊づつ書いていたかもしれない。いささか体力の不足があるのかもしれない。
 まだぱらぱらとしかみていないが、「小太りの女が火の点いた練炭の入った七輪コンロを持って現れると」が凄い。美人論などという近づくと火傷しそうな領域に平気で踏みこんでいく勇気ある治くんである。
 「結婚を餌にして、次から次へと男を毒牙にかけた」というのは昔からの馴染みの話であるが、そこには暗黙の前提として、それをしたのは美人であるはずという見方がある。「美人じゃない女が結婚を餌にして、次から次へと男を毒牙にかける」というのは新しい。その物語はまだわれわれのストックの中にはない。それでみなが驚いた。
 明らかに彼女は男に対して優位に立っていて、「女性に恵まれない男に対して」「救済してあげている」という態度をとっている。彼女のなかでは「男女平等」だけでなく、「美人不美人同権」ということまで実現してしまっている、と氏はいう。
 氏によれば、『いつの間にか「女にとって“美人”であることは、基本的人権と同じような権利である」という考え方が、女達の間に浸透しました。それで、不美人はいなくなってしまったのです』ということなのである。知らなかった。そうだったのか!
 「美人問題」というのはフェミニズムのアキレス腱であると思う。きれいな女は得をするというのは男性優位社会であるからこそ生じることであるのだと思うが、男女平等という主張の中に容姿の問題を位置づけることは難しいからである。本当は多くの女性が容姿も能力の内と思っているかもしれないのだが。
 「男女平等とか女性解放を言う女はブスばっかりで、美人はそんなことを言う必要がない」と思われていたというのは、わたくしではなく、橋本氏がいっていることである。この「七輪を持った小太りの女」の事件は、フェミニズムの陥っている隘路を打破するものであるかもしれないわけである。
 などという話題は本書の中ではマイナーな部分で、民主主義を論じた部分などのほうが重要なのだろうと思う。しかし、氏自身がみとめているように、「私の言うことは本当に、小学校か中学校の先生みたいですが」というのは本当で、「無私」などといわれてもなあである。
 わたくしは、ヒュームの「およそ人間は無節操で利に走りやすい悪人であり、人間の行動には私益追求以外の目的はないと想定しければならない。いかなる統治システムもこの考え方にもとづいてつくられるべきである」というのに共感する。しかしヒュームは統治システムの存在を当然の前提としている。橋本氏は現代の民主主義社会では一人一人が王様となってしまい、統治を拒否するようになってしまっていることを問題にしている。橋本氏のいう「無私」はアダム・スミスの「共感」のようなものなのだろうか?