橋本治「その未来はどうなの?」(3)

 
 「歴史の未来はどうなるの?」というちょっと変なタイトルの章で、橋本治氏はこんなことをいう。「今とは関係ない昔のことを頭に入れて、なんの役にたつんだ?」という意見がある。たしかにそうだ、と。その例として氏は、織田信長の名をだす。歴史の教科書で信長の名がでてこないものはない。なぜか? それは歴史の教科書が「天下の統一」ということを中心の視点にしているからだと。信長は天下を統一したひとではない。しかし統一を準備したひととして重要であるとされる。ではなぜ信長は天下をとろうとしたのか? 諸国の戦国大名を従えて天下に号令をしたいと思ったのであろう。しかし、自分が天下を統一すれば日本が平和になるなどというのは、後世のテレビ台本家の頭のなかにはあっても、信長の頭にはなかった発想であろう。そして信長は天下を武力によってとろうとしたのであり、議論によってではない。「維新の志士」もまた同様。腰に差した刀は伊達ではなかったのである。
 しかし「戦いの勝者が正義を手にすることができる」という「世界の歴史」を貫いてきた見方は、現在ではもはや通用しなくなった。世界の情勢は変わったのであり、世界は前例のない事態に直面している。それであるなら歴史に学ぶということはもはやできない時代になっているのかもしれない。そこでのキーワードは中央集権化と民主主義国家化である。明治によってまず中央集権化し、それが戦後に民主化したというのが日本の歴史の一番大きな骨格であり、明治以前の歴史は、明治の中央集権国家を準備するためのものとして存在している。中央集権化に対しては地方分権化という対抗軸がある、しかし民主主義に対して反=民主主義、独裁という方向にいくという対抗軸はもはやない。民主主義体制というのはいわば「歴史の終わり」なのであるというのが橋本氏の主張であるように思われる。
 F・フクヤマの「歴史の終わり」は、東西冷戦が終結したことによって、もはやわれわれの選択肢は自由主義しかなくなったというようなことを主張した本であった。しかしその後、西欧社会とイスラム世界の対立などが表面にでてきた、ハンチントンの「文明の衝突」などがでてくるようになると、フクヤマの主張は能天気な楽観主義と嗤われることとなった。橋本氏は北朝鮮さえ民主主義人民共和国などと名乗っていることが、民主主義が世界で普遍的な体制とみなされるようになった格好の例であるとしているが、イスラムの側の国で民主主義を標榜している国はないだろうと思う。イスラムの側にはまだ「聖戦」という言葉が厳然と存在しているはずである。「戦いの勝者が正義を手にすることができる」ということが、そこではまだ信じられているはずである。橋本氏の主張は西欧世界ではおおむね妥当するにしても、世界がそうなっているとはとてもいえないと思う。
 この橋本氏の論を読んでいて不思議なのは、歴史を論じていて「国民国家」という言葉が一度もでてこないことである。わたくしの歴史理解の一番の根っこにあるのが「国民国家」の問題で、「国民国家」と「民主主義」というのはどこかで相反するところがあると思う。世界が「民主主義」化することによって「歴史の終わり」をむかえるという見方は「中央集権」→「地方分権」という見方とはパラレルになりえても、「国民国家」→「個々人」というようには決してならないだろうと思う。
 ついせんだってのオリンピック騒ぎにしても現在の中国や韓国との問題にしても「国民国家」の問題はまだリアルな問題であって、過去の問題には決してなっていない。「愛国心はならず者の最後の砦」といったのはジョンソン博士だったかと思うが、国という意識などまったく持っていなかったであろう江戸の人間、あるいは西南戦争で武士の敵ではないまったくの弱卒であった農民兵を日清・日露戦争の兵隊に変えていくために明治国家のした無理というのは途方もないものであったのだろうと思う。
 戦前の人間にとっても国家というのは今とは比較にならないくらい重いものであったはずである(わたくしが思いうかべるのが、たとえば遠藤周作の「どっこいしょ」)。わたくしにとって、国家は軽い。あるいはリアルでない、ぴんとこないものである。などといっても鳥や獣のように国境を自由に越えることができるわけではない。映画「カサブランカ」は国境を越えるにはパスポートがいるという話であった。ベンヤミンはそのために死んだはずである。
 わたくしの一番の願望は「非国民」になりたいということかもしれない。脱国家などというつもりは毛頭なく、税金もちゃんとおさめるし国民の義務ははたすつもりだけれども、「よい日本人」などというものには少しもなりたくない。国家から「こういう人間たれ!」などといわれたくない。
 橋本氏は、織田信長の人気は日本の歴史ではめずらしい「自由人」であることによるところが大きいという。日本人の多くは「制度の中に埋没」してしまう中ではそれが目立つのだ、と。わたくしは「自由人」などという偉そうなものになろうというつもりは少しもない。鶴見俊輔さんのいいかたでの「悪人」であることをゆるしてもらえるならば、それで充分である。わたくしにとって会社も国家も「一つの制度」であって、わたくしの外側にあるものである。わたくしの内面にはかかわってきてほしくない。
 橋本氏は「ひととひととの関係」を非常に重視するひとで、「わたしひとり」であることは不幸で「わたしたち」であることが大事ということを、いつもいっている。本書の「まえがき」でも、『私のあり方は「世の中のあり方に従う」ではなくて、おおむね「結果として世の中のあり方に逆らってしまう」なのですが、・・方向がどうであれ、「自分のあり方は世の中に合わせて決める」なんてことを言うと、「なんという自主性のないことよ」と言われてしまうのでしょうが、人が世の中や種々の人達との関わりの中で生きているものである以上、「世の中のあり方を無視して気ままに生きる」は、期間限定で成り立つ一時期なものにしかならないはずです』といっている。
 わたくしは「世の中のあり方を無視して気ままに生きる」では決してなく、「世の中のあり方に従ってはいくが(従ったふりはするが)、世の中のほうもわたくしのことを抛っておいてくれると嬉しい」というような非常に軟弱なことを考えているだけである。面従腹背? 丸谷才一氏が「裏声で歌へ君が代」でいっていたのもそんなことだったと思う。それを江藤淳氏が「フォニィ」とかいって激しく罵っていた。江藤氏は国家がわがことである「公」のひとであった。橋本氏は全然そういうひとではないが、それでも「公」ということへの関心が、わたくしよりもずっとあるひとである。
 それでTPPなどというまるでわたくしには関係ないことも論じている。それは稿をあらためて。
 

その未来はどうなの? (集英社新書)

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歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

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いま私たちが考えるべきこと (新潮文庫)

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