その13 朝日カルチャーセンター 荒川洋治「吉本隆明の詩について」

 
 現代詩作家荒川洋治氏の「吉本隆明の詩について」という単発の講座をきいてきた。
 荒川氏は長年ラジオのパーソナリティをしているのだそうで、とても話がうまいというか達者で、本来は90分の講座なのだが途中10分の休憩をはさんで120分、聴衆を飽かせることなく、多いに笑いもとりながら(ネタは主として相田みつを、そして現代詩人の自分の詩の朗読を臆面もなくする自己愛))、しかもきちっと自説も展開していくということで、大したものだと思った。
 吉本の氏についてだから、「ちいさな群への挨拶」と「異数の世界へおりてゆく」という有名な二つの詩をとりあげ、それを田村隆一の「保谷」、石原吉郎の「馬と暴動」、石垣りんの「希望の方角」とくらべながら読んでいくということもするのだが、主な論題は吉本の「言語にとって美とはなにか」(わたくしは読んでいない)で展開される散文と詩の違いであった。吉本氏は、散文は「意味」、詩は「価値」に傾斜するということをいったのだそうで、吉本の詩は(少なくとも今回とりあげた二篇は)著しく「価値」にかたよっているとし、田村と石原の詩もまた同じであるが、石垣の詩はそれらにくらべると随分と「意味」の側にあるが、数行「価値」にかかわるところがあり、それで詩になっている、最近は吉本や田村のような「価値」を充満させた詩はほとんど書かれなくなっているが、それは吉本や田村の時代には大きな一つの敵が見えていたのに対し、現在では敵が分散してしまい、向かうべき敵が見えなくなってきてしまっていることが大きいのではないかといったことを述べていた。ではあるが、吉本の時代には敵が見えていたために、それへの敵対を歌ったアジテーションの色彩の強い詩は多くの若者に共感をもって読まれ、それにより散文ではない言語、意味を伝えることを最終の目的としない言語を受け入れる素地を多くの人間に作ったということはとても意味があることであったのではないか、と述べていた。現在では詩はほとんど読まれなくなった。意味を伝える言語だけしかひとは受け入れないようになった。読んですぐにわかる言葉しか受け入れなくなった。そこで荒川氏は吉本の「意味」と「価値」とは異なる基軸を提唱する。散文は社会の言葉、詩は個人の言葉、という軸である。現代はほとんど社会の言葉だけになってしまっている。われわれはもっと個人の言葉をとりもどさなければならない。詩はそのためにあるのだというのが結論であった。
 なお、谷川雁村上一郎の話をふくめ、今回の講座で述べられたことの多くは、氏の近刊「詩とことば」(岩波書店)と重なるようである。