川久保剛「福田恆存」

 
 「新しい左翼入門」で左側のことを少し考えてみたので、今度は保守について。
 本書は「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊で、伝記あるいは評伝にかなり徹した本なので、川久保氏自身の意見をストレートにだしたものではないけれども、それでも川久保氏が保守思想家の一つの典型としての福田恆存像を描こうとしていることは確かと思われるので、本書を糸口に保守について考えることは、それほど方向が違ったことではないだろうと思う。それに福田恆存はわたくしが若いころ、一時ぞっこんであったひとであり(というか、はじめて本格的に触れた思想家であった)、その著作をある程度は読んでいて、わたくしの「保守」のイメージの相当は福田氏によって形成されているので、その点でも福田恆存から保守をみるというのは、わたくしとしてはやりやすい行き方である。
 さて、本書の副題は「人間は弱い」である。まずこれに違和感がある。福田氏は決してそんなことは言わなかっただろうと思う。「(人間は弱いかもしれないが)そんなことは言うな! 強いふりをしろ!」というのが福田氏であったと思う。「虎の威を借りよ!」である。自分が本当にはどうであるかなどということはどうでもいいことなので(それは自分にもわかあるはずのないことである)、自分がなりたいのがどういう存在であるのか、そのような存在を演じよ!ということである。
 本書カバー表紙内側に、「人間は弱い」の説明として、「福田思想の根本にある観念。人間は平凡で、弱い。その人間の生を支え、力を与えてくれるものの追求から、福田は人間・社会観を発展・深化させた。そして演戯、恋愛、自然、共同体の言語・文化・伝統、保守という主題が展開されていく」とある。川久保氏によれば、同時代の主流派知識人、つまり進歩的文化人は、理性や精神など、人間の〈強さ〉の側面ばかりに目を奪われていたという。また、近・現代人には生命力の衰退がみられる。それは近代実証科学が現実世界にあるものしか認めない立場であり、事実のみが人間の全てであるとする立場であるからなのだ、と。
 こういう議論をなんとなく胡散臭く感じるのだが、「現実世界にないもの」というのは何なのだろうか? 事実だけが現実世界を構成するわけではないはずである。なんだか通俗的デカルト二元論をきかされているようで、延長のないものは実証科学の対象とはならないが、われわれ人間にとって重要であるのは、物質とは異なる何かなのである、といったことを主張したいように思えてしまう。
 物質でないものは科学は対象にできないというのは、実証科学についての不勉強である。どうも文化系のひとの一部は科学の動向についてまったく無関心なようで、脳科学とか認知科学とかいったものは自分には関係ないものと決め込んでいるようである。精神といっても心といってもいいのだろうが、そういうものこそが人間にとっての最大の重大事なのであり、そこには科学は関われないといった見解は、身体と脳(こころや精神といったものが脳の機能であると仮定して)の深い関わりを示す実証科学の知見について無知であるのか、あるいはわざと見ないようにしているのか、いずれにしても知的怠慢であるように思える。。
 進歩的文化人も近・現代人なのである。そうすると、進歩的文化人は人間の強さに目を奪われていたが、生命力は衰弱していたということになるのだろうか? そうなのかもしれないが、人間の強さとか弱さとか、あるいは生命力が旺盛であるとか衰弱しているとか、そういう言葉をその裏に強い実感をともなうことなしに用いても、単なる言葉の遊びに終わってしまう。進歩的文化人の議論のほとんどはそのような空虚なものであるというのが、福田氏の進歩的文化人批判の根底にあったものではないかと思う。しかしそうであるなら、右の側、保守の側での議論もまたそのほとんどが言葉の遊びでなのではないかという嫌疑も当然でてくるはずである。右の文化人もまたその多くはいたって実りのない空虚な議論をもてあそんでいたのではないか? そして福田氏にもまたその兆しがなかったのか? 文化だとか伝統だとかという言葉は実感の裏打ちのある充実した言葉だったのか?
 福田氏には二面の敵があり、一方が、進歩的文化人なのであり、他方が近代実証主義であったのだろうか? それとも進歩的文化人=近代実証主義者であるのだろうか? 通常は理性や精神と物質=事実は対立するものとされているのではないだろうか? あるいは理性とは事実=物質を見るものであり、それは精神と対立するのだろうか? 理性や精神は人間の強さなのだろうか? 川久保氏は強さを〈強さ)と括弧つきにしているので、決してそうはしていないのであろうが、福田氏の進歩的文化人への批判は、理性や精神というのは決してそんなに信頼できるものではないぞという方向からのものであったと思う。川久保氏の論をみていると、反=理性、反=実証という方向に安易にいってしまいそうな危うさを感じてしまう(もちろん、そうなるのは、福田恆存自身にそういう傾向があったからであるとは思うが)。
 わたくしは保守思想というのは「世の中が変わるのは仕方がないが、その変化はなるべくゆっくりであるほうがいい」というものであって、「世の中は変わらないほうがいい」とか「世の中は昔に戻ったほうがいい」というのは保守ではなく反動だと思っている。つまり保守思想とは連続性の擁護なのであって、「世が根本的に改まる」ことなどありえないし、あってはならないという思想なのだと思っている。「革命」の否定であり、「断絶」の否定である。そして、福田氏が論陣を張っていた時代の進歩的文化人はほとんどが「断絶」志向であり「革命」志向なのだった。
 福田氏が進歩的文化人たちと喧嘩するきっかけとなった「平和論に対する疑問」は基地の問題などを論じているが、進歩的文化人にいわせると基地問題の根底には安保条約があり、安保条約の根底には冷戦体制があり、冷戦体制の根底には資本主義対共産主義という対立がある。とすると資本主義がある限り、基地問題は解決しないということになり、基地があることによって生じているさまざまな問題の解決などどうでもいいことになり、基地問題の解決のためには資本主義打倒!となる。しかしそれって変ではないだろうかという程度のことをいった論文であった。いまから思うといたって常識的なことを言っているだけなのだが(「先日の「平和論の進め方にたいする疑問」にした所で原稿料稼ぎに少し枚数を多くした感想文であり、それが所謂、知識階級の手に掛ると「福田提案」などとものものしくなるのだから、実際、かういふ連中は早く消えてなくなればいい、とこつちも思ふのである」吉田健一福田恆存」(「三文紳士」所収))、その当時にはとんでもない極論であると思われたのである。時代が異常なのだった。
 進歩的文化人たちは、自分たちは理性の側の人間であると思っていたのであろうが、今からみれば、ロマン主義の世界のひとであった。福田氏が主として批判したのは、進歩的文化人ロマン主義による自己陶酔であって、進歩主義者がおこなう「理性的」な議論についてではなかった。
 この前の松尾氏の左翼論にしても、この川久保氏による保守論にしても(川久保氏は1974年生まれ)、「革命」という言葉が独特の輝きを持っていた時代というのを身をもっては知らないのだなあということを強く感じる。先日の荒川洋治氏の吉本隆明の詩についての話も、吉本の初期の詩は「革命」という言葉が空語であるとは思われていなかった時代背景があって出てきたものであり、しかし時代は変わってしまってもう吉本のような詩をなりたたせる時代ではなくなってしまったという主旨であった。
 演戯(これは福田氏の造語であると思う)というのは、自分がそうではないと知っていながらも、自分よりも大きいものを演じることである。そうであるなら自己陶酔が生じる余地はない。しかし進歩的文化人というのは本当に自分を偉い人間だと思っていたので、容易に自己陶酔に陥った。
 わたくしが福田氏について感じるのは、時代が異常なときには抜群の冴えをみせるひとだが、時代がおちついてきたらそれが見られなくなってしまったというようなことである。あるいは二流の敵に対しては切っ先鋭く斬りかかることができるが、一流の敵を見つけることができなかったのではないか、というようなことである。また、若い時には鋭利な刀であったが、晩年の成熟がなかったというようなことである。戯曲「解ってたまるか!」は大変に愉快な作ではあるが、主人公の村木が薙ぎ倒すのは二流の人士である。だから戯曲の結末は荒涼とした〈人間のいない世界〉の希求になってしまう。
 わたくしが福田恆存に一番近いと感じるのはT・S・エリオットなのだが、エリオットはイギリス国教会に帰依したし、そもそも西欧のひとだからいいのだが、どこかで「カトリック無免許運転」を自称していた福田氏は、無免許運転なのだから入信しているわけではないし、そもそも西欧のひとではない。カトリックは日本の伝統とはいささかでも接点を持たない。「もし精神といふものが― もはや、こヽではそれを神と呼んでもさしつかへないとおもふが ―われわれ人間関係のそとかうへかに信じられてゐないとすれば、掛け値のないわれわれの姿は、すべてエドワードとラヴィーニア(註:エリオットの戯曲「カクテル・パーティ」の登場人物)なのだ。」 「エリオットにとつては、誠実とはまことに易々たることであつた。死ねばいゝのである。かれは死をおそれない。かれが恐れたのは死をもおそれぬ自己の心の昂ぶりであつた。」(福田恆存「エリオット」) 福田節全開の名調子であるが、それだったらさっさと無免許運転をやめて信仰に入ればいいのではないかと思ってしまう。
 福田氏の努力は、この「神」にあたるものを日本の中でさまざまなものからつくりあげることに注がれたのだと思うが、だからといって紀元節復活などというのは違うのではないかと思う。信仰とは飛躍であって理屈ではない。伝統は理屈ではないが、そこには一切の飛躍はない。それを神と等値のものに祭りあげることには非常な無理がある。
 明治国家の天皇制は明治国家をつくりあげた人たちが欧州に勉強にいって、王様や皇帝のいる国を見て、なんとかそれに当たるものを日本にもつくらなければとして無理してでっち上げたものである。日本の保守主義というのも、西欧のカトリックに学んで、その「神」に相当するものを何とか日本にもつくらなければとしてできてきた知識の産物という側面が非常に強いと思う。いまのわたくしにはそれは理屈であって、体全体で感じとれる実体のあるものであるとはとても思えない。
 なぜわたくしは若い時に福田恆存に心酔したのだろう。それは進歩的知識人における権力志向の問題といったことによってであったのだと思う。彼らが「左翼」であるのは、世の中をどうこうしたいからでは全然なく、自分が「いい人」でありたいからだけではないか、しかもそれにもかかわらず、自分ではそのことにはまったく気がついていないのだ、と。普通のひとの権力欲はいかにもわかりやすい形で発現される。しかし知識人は屈折しているので、自分が「いい人」になることによって「悪しき人」の上に立つという複雑なやりかたをとる。左翼のなかではラディカルであるほど大きな顔をできるのは、ラディカルであるというのは今の世の中の問題の根がいかに深いかをわかっているということで、ちょこっとどこかを改善することで満足するような修正主義者とは人間の出来が違うということになる。戦前戦中の日本主義者がしばしば戦後「左翼」のひととなったのも、それを考えれば容易に理解可能となる。要するにその時々で一番偉そうな顔、大きな顔をできる立ち位置はどこにあるかということなのである。しかし本人は戦前の過ちを深く悔い、もう二度を過ちを繰り返さないために、今度こそは正しい道を進んでいると本気で思っているのかもしれない。
 そういった問題がその当時、他人事ではないと思えたのは、大学紛争(闘争)あるいは全共闘運動が燃え上がっている時代のなかで、その渦中にいることになってしまったからである。インターン制度をどうするかという問題からはじまったはずの運動が、いつのまにか「自己否定」とか「自己批判」とかいった「誠実くらべ」の競争になってしまっていて、まわりにあるのは「政治運動」ではなく、「文学活動」なのではないかという強い違和感を感じていた。それを本当に鮮やかに説明してくれると思われる論に出会ったのである。福田氏はそういったことをD・H・ロレンスを神輿にして論じていたのだが、いまから思うとニーチェだったのだなあと思う。
 ひとは他人のうえに立つためならばどんなことでもする、自分の権力欲を充たすためならばどのようなことでもする、というのが福田氏の人間観の根本にあるのだと思う。だから「人間は弱い」ではなく「人間は怖い」なのではないだろうか? まず、自分のなかにある人間の恐ろしさを自覚すること、それが出発点となる。しかし、そこにとどまっているのであれば、人間は絶望的で救いのない存在であることになってしまう。そこからの脱出のために福田氏が提示するのが〈全体)ということである。本書でさかんにいわれる二元論というのはそのことなのだと思う。しかし、この(全体)というのは、結局、西洋渡りの「神」の変奏なのではないかというのが、後年わたくしが考えるようになったことで、それで福田氏の説を少しは冷静に見ることができるようになった。福田氏が指摘した人間の恐ろしさというのは本当であるが、それを乗り越えるために提出された〈全体)というのは作り物であると思うようになった。
 本書に福田氏のキリスト教批判が紹介されている。キリスト教トマス・アクィナスによって合理的なものとなってしまって、神秘的な神の魅力が失われてしまったといったことである。しかし、こういう点でおかしいからこの宗教はいけないなどと人間がいうことは人間が神の上にあるということで、宗教の立場からいうとおかしいのではないかと思う。頭で考えて信じるかどうかというのはそもそも宗教にいたる道ではないと思う。そこにいくのは非合理な飛躍であって、合理的な選択などではないはずである。
 わたくしは福田氏の人間観を受け入れたが、それを乗りこえるために福田氏が提言していたやりかたは否定するようになった。わたくしには「人間は怖い」というより「人間は愚か」で「度し難い存在」であるというほうがしっくりくるが、それを乗り越える方法はどこにもないと思うようになった。それでも人間が住む世界をいささかでも住みやすくする方法はあるのかも知れないと思う。だが、便利になったり快適になったりすることはあるかもしれないが、われわれは相変わらず愚かなままである。そう考える点で、自分は啓蒙主義の立場にたつようになったと自分では思っている。
 だから、入信したり受洗したり、あるいは「歎異抄」が座右の書というようなことにならないでこのまま生きていけたらというのがわたくしのささやかな願いである。
 わたくしには、日本の保守主義というのは信仰の一形態であると思える。西洋において保守主義がそれなりに成立するのは歴史の背景にキリスト教の伝統があるからである(たとえばチェスタトン)。日本の保守思想というのもまた西洋からの輸入品で、それをキリスト教からきりはなしたものとして、それだけを別のものとして輸入しようという試みだったのだと思う。
 自然科学もキリスト教の伝統のなかからでてきたものであるが、それが発展するなかで親殺しを試みて、そんな親などなくても自分は自立して生きていけるような顔をしている。人文学にくらべれば自然科学は「モノ」に偏っているから、まだしもそういう主張が成り立つ余地はあるのだが、人文学においてはその方向はつらい。福田氏もそのことは強く自覚していたであろう。定義をこばむ〈全体〉というのがそれをあらわしている。そんなものは信仰を背景にしなければ存在しえないから、無免許でも運転をしなくはならない。
 人間は利己的でつねに権力欲によって駆動されている愚かで度しがたい存在であるが、そのような人間を救済するものとしての〈全体〉、ということを言ったのだから、福田氏は人間が根源的に変わることへの希求をどうしても捨てられなかったひとなのだと思う。そういう点で〈革命〉への志向を潜在的に抱えていた。
 自分の外でおきるのではない内なる革命? 世の中は連続的でなければならないが、一方で人間は根源的に変わらなければならない・・というのはそのどこかに無理があるのではないだろうか? それが二元論の限界なのではないだろうか?
 

福田恆存―人間は弱い (ミネルヴァ日本評伝選)

福田恆存―人間は弱い (ミネルヴァ日本評伝選)