与那覇潤「中国化する日本」(4)

 
 第3章「ぼくたちの好きな江戸」(続)
 第3章でまだ論じていない部分があった。
 (1)郡県制と封建制
 科挙で選ばれた地方行政官が中央から赴任してきて、定期的に転任する体制を「郡県制」といい、領地が固定していて原則移動がない体制を「封建制」という。前者では領民から絞れるだけしぼって、あとは野となれ山となれが可能。しかし、後者でそれをやったら自分の領地自体が疲弊してしまう。だからそこでは争いも出来レースとなる。ある学者は江戸時代の百姓一揆を「春闘」のようと評しているのだそうである(日本でも中世までは過激な武装闘争があった。そして過激な方がグローバルなので、中国の民衆反乱やヨーロッパの農民戦争はきわめて過激であった)。この微温的な農民一揆の伝統は今にまで続いていて、だから日本的労使関係は穏やかなのである。
 
 (2)主君押込
 藩を潰す心配がある藩主は家臣が結託して廃してしまうというやりかたで、幕府にも黙認されていたのだという。藩を潰す心配がある藩主というのは必ずしもバカ殿というわけではなく、学問好きの藩主というのもいけなかったのだそうである。この頃の学問といえば儒教しかない。宋学を学んでしまうと、世襲を廃し、科挙で有能なものを取り上げていくのが名君なのだから、そんなことをされたら、代々世襲で継いできた自分の身分があやうくなると思う家臣が結託して押し込めてしまうのだそうである。磯田道史氏の「殿様の通信簿」によれば、浅野内匠頭は無類の女好きで(「女色を好むこと切なり」)、引きこもりの傾向もあったのだそうである(「昼夜、閨房にあって、(女と)たわむれ」)。政治はすべて家臣まかせ。しかし学問好きより女好きのほうがまだ増しだったのかもしれない。こんな主君のために討ち入りするのだからたまったものではないが。
 この主君押込の話も最初山本七平氏の本で知ったのだと思うが、その時に思ったのは、江戸時代においても身分制というのは形骸化していたのだなあというようなことであった。藩のトップは名目上は藩主であっても、実際に藩を運営しているのが家臣であれば、偉いのは家臣のほうであって、だから実際の決定権は家臣のほうにあるのだというようなことである。鎌倉時代以降の「一所懸命」で、その土地の所有者は形式的には荘園領主であっても、実際に権利を持つのはそこで汗を流して耕している農民=武士であるという構図である。この意識は現代のわれわれにまで連続しているはずで、借地権などというのもその表れだと思うし、そもそも「法」は「理屈」「論」なのであって、大事なのは現場が丸くおさまることであるという考えにそれが表れている。「論よりは義理と人情の話し合い」「白黒をきめぬ所に味がある」「なまなかの法律論は抜きにして」「権利義務などと四角にもの言わず」(「調停いろはかるた」川島武宜「日本人の法意識」)である。これを「和を尊ぶわが国民性」などといっては身も蓋もないが、「論よりは義理と人情の話し合い」というのは血で血を洗う戦国時代には存在しえなかったはずである。
 山本氏は北条泰時の「関東御成敗式目」を日本とつくったものとしてきわめて重視する。氏はメリットクラシーという言葉を使うのだが「功績が地位に転化する」制度というようなことである。身分的に固定されている制度であれば、それを乗り越えうる者は僧侶と軍人だけであり、日本では武士という軍人が功績によって地位を上昇することができることがある程度保障されていた点において、身分制度が固定したものではなくなっていたというのである(典型が豊臣秀吉)。「日本的実力主義」という言い方を山本氏はする。日本が「法よりも示談」「法規よりも談合」の世界であるのは、身分という形式よりもその人が何をしたかを尊ぶ「武士の実力主義」の伝統があるからだという。
 山本七平氏がまたいうのは、日本では機能集団が共同体化してしまうということであるが、氏はそれを否定するのではなく、そのことを知らずに日本で集団を動かそうとすると必ず失敗するというようなことを言っていた。日本の会社組織はいかに洋風の職名がついていても、内実は丁稚・手代・番頭なのだと思え、と。
 一方、小室直樹氏は官庁や学校、企業などの機能集団が生活共同体であるだけではなく、運命共同体になってしまうことのなかに日本の危機をみていた。国益よりも省益というのは官僚が持つ特質なのではなく、日本社会の特質なのである。だから日本がどうなるかよりも陸軍あるいは海軍がどうなるかが優先されるというようなことが当たり前に起こった。
 日本の会社は江戸時代の藩ということはよくいわれるが、稟議制などというのも部下が実際は会社をまわしているということで、判をついた人間は責任をとるというだけである。これも山本七平氏の本で知ったことだと思うが、日本の会社では、納得できない上司の命令は部下はただ無視して実行しないだけなのだそうである。それを何で俺の命令が聞けないなどと怒る上司は押し込められてしまうのだ、と。部下が動かないときに、そうかおれの考えはまずいのかと思うのがいい上司なのだとか。
 
 3)ブロン効果
 中国の近世も日本の近世もともに完成した政策パッケージであるので、どちらが優れているということはないと与那覇氏はいう(わたくしには、本書全体では、中国パッケージのほうが優れているといっているように読めてしまうのだが・・)。両者それぞれに、うまくいく局面とそうでない局面があり、広範囲の通商には中国パッケージが適し、狭い範囲での農業などには日本パッケージがむく、と。ジェネラリストの抜擢には中国型が、ある職業に固有な技能に特化したスペシャリストの養成には日本型がいいと氏はいう。
 問題は、パッケージの特性が社会の状態とあわなくなったときであり、また両者の混合を計ろうとする場合で、いいとこ取りをしようとした結果として悪いこと取りになってしまう場合を氏はブロン効果と呼ぶ(メロンとブドウを掛け合わせたら、ブドウのように小さなメロン(ブロン)が少ししかとれなくなる、といったケース)。現在の日本の苦境も、18世紀の頃から徳川政権でブロンが熟してきた、その結果なのではないかという。それで次章。
 
 第4章「こんな近世は嫌だ―自壊する徳川日本(18世紀〜19世紀)」
 徳川250年の最初の100年は人口爆発、次の100年はそれがピタリと停滞する。人口が増え続けていると農耕社会からのテイクオフができない。日本で人口増加を抑えたのはイエの後継者を一人にするというやり方であった。江戸中期以降では農家では原則、家を継ぐもの(普通は長男)以外は嫁をとれない。次男以下はどうするか? 都市へでて働く。しかし都会にでたものの死亡率はきわめて高い。とても過酷な労働環境だったのである。姥捨て伝説とは反対に家を継いだひとは大事にされるので、イエを長男に継がせた爺さんや婆さんが、次男や三男を都会に捨てたのである。
 江戸も後期になると、武士であることが特権であるというより拘束・束縛であると感じられる局面が増えてきた。宋朝の中国が身分制をすでに廃していた時代に、なおかつ身分制を維持するためには、下のものにもそこそこメリットが感じられる何かがそこになければならない。江戸におけるその対策が「地位の一貫性が低い身分制」であった。身分の上のものは名を取る。下のものは実をとる制度である。専門用語では、「権と禄の不整合」というらしい。武士は経済的には商人に劣る。同じ武家社会の中でも、実際に行政をおこなうのは下級藩士である。年貢は50%などといわれているが、それは石高に対してであり、1700年頃に測量されたデータのままであるから、時代が進み農業生産力が向上してきても武士の収入は増えない(実際の年貢は20%くらいまで低下していたといわれる)。経済発展で物価はあがり、大名家の生活はどんどん苦しくなる(武士は食わねど高楊枝)。これを肯定的にみれば渡辺京二氏の「逝きし世の面影」となる。しかし、なんだか、どの階級も欲求不満という状態が昂じてきた、それが明治維新を生んだ。
 人口学者の速見融氏に「勤勉革命」論というのがある。近代ヨーロッパが「産業革命」なら、日本は「勤勉革命」。とにかくよく働くことで近代日本の経済発展は達成されたというものである。「今いる場所と現在の職業を前提にとにかくそこで頑張り抜く」という行き方である。これを肯定的にみれば、日本人は真面目で勤勉である。だから優秀という方向になるが、否定的にみれば共産中国の大躍進政策と何が違うの?ということになる。ツルハシとモッコで飛行場つくりをさせられた苦しさと悲惨ということを山本七平氏もいっていた。米軍はブルドーザーであったのに。
 与那覇氏は現在の北朝鮮の「将軍様がわれわれの苦境を救ってくださるはず」という行き方は、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」とかわるところがないのだとし、そんな江戸時代を通過して日本がそれでも議会制民主主義といえなくもない体制になれたのが奇蹟なのかも知れないという。(これは後進地域であったヨーロッパがなぜ世界を制覇できたのかというのと同根の大問題なのであると思う。そしてこの大問題にどうも本書は答えていないのでないかという気がする。)
 さて行き詰まった江戸政権の打開策として提示されたのが、松平定信寛政の改革朱子学を公認の官学とした。しかし武士に宋学を学ばせるのは危険思想の伝搬そのものである。徳さえ身についていれば身分などは関係ないという思想がひろまる。なにしろ農家の次男・三男という不平分子はたくさんいるのである。高杉晋作奇兵隊の主力は農家の次男以下であった(「おもしろき、こともなき世を、おもしろく」)。「希望は戦争」(赤木智弘氏)である。「春闘」的な統制のとれた百姓一揆も過激化してきた。
 ということで次が明治開国であるが、それはまた別にみる。
 
 日本の知識人というのは武士の末裔であると思うのだが、だから普通はあまり金がないし、キャリア官僚だって現役時代の収入は大したことはないはずである(だから天下りで回収しなければならなくなる)。これも山本七平氏の本で知ったのだと思うのだが、銀座の繁盛している老舗の跡取りが、跡をつがずに大会社のサラリーマンになるなどということは他の国ではまず考えられないことなのだそうである。収入は何分の一、あるいは何十分の一かもしれない。しかし社会的地位は銀座の老舗の主よりも天下の三菱の社員のほうが高いのだそうである。「権と禄の不整合」であり、日本人は「禄」よりも「権」をとる傾向があるらしい。原口統三の「二十歳のエチュード」に、「武士は食はねど高楊子。全く僕はこの諺が好きだつた。」というのがあって、自分も本当にそうだなあと思った記憶があるから、こちらも混乱の時代になったらまっさきに餓死する人間なのだろうと思う。「士・農・工・商。 沈黙を尊重する僕は、旧世紀のこの国に住んでゐた武士の一人の亡霊なのかも知れぬ。 表現は、商売であり、取り引きである。」 原口統三はまたそのようにもいう。商売というのが嫌いなのだろうなと思う。原口統三が敬愛した清岡卓行氏はプロ野球機構のまったく地味な仕事をしていたはずである。それは武士の傘張りのようなものかも知れない。武士は派手な仕事はしてはいけないのである。江戸の伝統は根強い。
 

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

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殿様の通信簿

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日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

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