与那覇潤「中国化する日本」(番外)「風の谷のナウシカ」

 
 本書の第七章に「風の谷のナウシカ」の話がでてくる。これが満州事変から原爆投下に至るまでの「あの戦争」の本質をもっともよく捉えた作品の一つであるというのである。それによれば、トルメキア(とその女王のクシャナ)が日本文明で、風の谷のナウシカ中国文明をみるというのである。もっとも同作が「あの戦争」を再現している点については多くの人が見落としたままになっているのではないかと書いてあるので、この見方は一般に流布しているものではないようである。しかし、クシャナが放つ最終兵器の巨神兵核兵器の比喩になっているのはご存知の方も多いであろうとも書いてある。どうもここが腑に落ちない。
 わたくしは映画とかアニメ、マンガといったものがまったく駄目なハイカル志向の困った人間なので、この方面の話題が苦手なのであるが、たまたま「風の谷のナウシカ」はみている。劇場で見たわけではなくて、随分前、子どもがまだ小さいころ、テレビで放映されたものをビデオにとったものをみたので、それもあろうことかビデオの尺が足りなかったのか、最後の4・5分が録画できていなかった。それで結末を知らないのである。だから以下に書くことは全然見当はずれであるかもしれないのだが・・。
 まず、わたくしは宮崎駿というひとが嫌いなのである。このひとエコロジー派だと思っている。エコロジー派というのは反=進歩、反=文明の陣営だと思っているので、啓蒙主義者を自認している人間としては、いやなのである。
 「頭のなかが江戸時代」の啓蒙主義者などというのは矛盾でしかないのだが、たとえば橋本治というひとはそういひとだと思っている。わたくしが「中国化する日本」を知ったのは橋本治橋本治という立ち止まり方」で紹介されていたからなのだが、そこで橋本氏は「中国化する日本」を読んで、「俺の頭は江戸時代だ、困ったな」とは思わなかった。「そんなことを言えば日本人の大半の頭の中は「江戸時代」で、そんなことにビビッっていたら物が考えられなくなる。「江戸時代頭の人間が物を考えてはいけない」という法はない」といっている。要するに、大事なのは「物を考える」ことであって、それが「江戸の考え」か「中国の考え」かではないというのである。
 わたくしの考えでは、エコロジーというのは「江戸」の流儀なのであって、だから宮崎駿は江戸の人なのである。同じく江戸の人であるわたくしがなぜ宮崎駿を嫌いなのか、自分で考えてもよくわからないのだが、「江戸」に自足してはいけないと思っているのであろうか? 「江戸」に間違いなく文明はあったのだが、大事なのは「文明」であることの方であって、「江戸」であることではないというようなことかもしれない。
 さて、記憶に間違いがなければ「ナウシカ」の最初は、「また一つ村が死んだ」というものであったように思う。死ぬはムラなのであって、なぜ死ぬかというと「腐海」というのが広がってきたためなのである(「腐界」だったかもしれない)。これはどう考えても、公害の比喩である。科学文明が発達して自然が汚染されることの抗議であるとしか思えない。何しろ「風の谷」である。連想されるのは「風力発電」である(村上龍の「希望の国エクソダス」での「希望の国」が「風力発電」をおこなっているのはいろいろと考えさせるものがある)。そしてトルメキアのクシャナ女王は「巨神兵」を擁するのだから科学文明の側の人である。これが核兵器の比喩であるのかどうかはなんともいえないが、科学文明の象徴であることは確かであろう。
 とすれば、どう考えても「風の谷」が日本であって、トルメキアはアメリカである。それは核兵器を持つ。一方、日本にあるのはたくさんの人間だけであって、「核兵器」対「人海作戦」である。だから「風の谷」の側は蟲の大群である。「風の谷のナウシカ」がいいたいのは、事実としての戦争ではアメリカが勝ってしまったけれども、本当は反=科学、反=汚染という人民の怒りが勝ってほしかったということなのではないだろうか?
 まあ、あるテキストをどう読むかということは、正解はないわけだから、どれが正しいということはありえないわけであるが、わたくしのほうが多数意見に近い標準的見方ではないかという気もする。
 わたくしは「中国化する日本」を面白い、面白い、美味しい、美味しい、と思って読んだのだが、この「ナウシカ」あたりまできて、どうも結構書いてあることは恣意的なのではないかといいう気がしはじめた。
 「中国」対「江戸」というのは非常に有力な対抗軸だとは思うが、同時に「科学」対「反=科学」、「文明」対「反=文明」という対抗軸もあるわけで、中国もイスラムも「大文明」はつくったが、その文明は「心」をまず第一におく文明で、「物質」は軽視した。それで後進国で「野蛮」でありながら、どういうわけか「物質」を軽視しなかった西洋に逆転をくらってしまった、というのがわたくしのごく基本的な世界史(グローバル・ヒストリー)理解で、これは西洋のエスノセントリズムかもしれないが,反=西欧思想も西欧からしかでてこないというのが大問題で(ポスト・モダン思想も西欧から出た)、この「中国化する日本」で与那覇氏がいう学界のグローバル・スタンダードというのも主として西欧からでているのではないかというのが、わたくしの感じる疑問である。
 つまり、与那覇氏が準拠している学問のありかたというのも、中国由来でもイスラム由来でもなく、西欧由来ではないかと思うので、その点で、まだまだ西欧優位というのは揺らいでない(揺らいでいるかもしれないが、それ以外に学問の準拠枠がない)のではないかと、わたくしのような「洋学派」はどうしても感じてしまう。
 ということでまた本論に戻る。

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live

橋本治という立ち止まり方 on the street where you live