与那覇潤「中国化する日本」(番外・その2)安富歩「原発危機と「東大話法」」
前の記事で「風の谷のナウシカ」について考えていて、安富氏の本を思い出した。別に論じるつもりでいたのだが、「原発に反対するひとのある部分はオカルト的なるものを信じている」という部分について、ここで考えてみてみることにした。
安富氏のこの本では、ウラン燃料がそう遠くない将来に枯渇する可能性が高いという説を教えられてびっくりした。エコ運動というのは近い将来、化石燃料には依存できなくなることは確実なので、その食い延ばしのための運動なのだとわたくしは思っていて、そうであるなら《化石燃料に比べればはるかにエネルギー変換効率がいい原子力に頼るしかないではありませんか》というのが原子力発電推進派の大義名分なのだと思っていたので、もしもウラン燃料が化石燃料と変わらないくらいの近い未来に枯渇するのであれば、その前提が崩れてしまうわけである。石油があとどのくらい持つのかについては、少し前に何冊か本を読んだことがあるが、ウランについては全然勉強していない。これから勉強していきたい。
さて、「原発反対論者とオカルト」の話題である。「原子力発電所の事故以来、多くの人が原発に反対するようになりました。それは健全な判断だと私は思います。ところが、そういった人々のツイッターやブログを見ていると、不思議なことに、オカルト的なるものを信じる人が多いことに気づきました」とある。その事例として挙げられているのは「今回の地震はアメリカの地震兵器による攻撃だ」とか「核兵器によって地震を起こしたことを隠蔽するために、原発事故が意図的に起こされた」といったものである。これらは「陰謀論」であっても必ずしも「オカルト」ではないと思う。陰謀論を信じる人がなぜ反=原発となるのかはわたくしにはうまく説明できない(安富氏は、オカルトに走るひとは熱力学第二法則が理解できていないためにそうなるのだというのだが、これはまったく説得性のない論とわたくしには思える)。
それでも無理に考えてみるとすると、「陰謀論」に走るひとは、ゾロアスター教的というのだろうか?、善悪二元論に親和を持つひとたちなのではないだろうか? 善か悪か? 敵か味方か? という見方は世界を単純化する。そして何かが起きたときに、「それはね、誰々が何したからなのだ」といえばわかったような気がしてくる。世界経済はロスチャイルド家に支配されていると信ずれば、何がおきてもそれがロスチャイルド家に利益になるからなのだといえば、それ以上考えなくてもよくなる。ではそれがなぜロスチャイルド家の利益になるのかといえば、ロスチャイルド家の「悪」の構造はあまりに深く、到底われわれの理解できるところではないのである。だから、もしもロスチェイルド家が、われれれには理解できないような理由で、福島に原発事故をおこすことが自己の利益になると考えたとしたら、人工的に地震をおこし、それによる津波で原発に事故をおこさせることなど造作もないことなのである。世界には絶対的な悪があり、その悪は途方もない力を持ち、世界を自由にあやつれるので、われわれにとってとれる唯一の対抗手段は、事故がおきるととんでもない被害をおこすようなものを持たないことである。故に原発には絶対に反対!となる、などと書いていると、われながら馬鹿らしくなってくる。それでわたくしなどよりずっと頭のいいひとの意見をきいてみることにする。
内田樹氏は「私家版・ユダヤ文化論」で、陰謀史観とは「ペニー・ガム法」による歴史解釈のことである、という。ペニー硬貨を入れるとガムがでてくるやりかたで世界を解釈する行き方である。「単一の出力に対しては単一の入力が対応している」という信憑である。私たちはあらゆる局面でその事象を専一的に管理している「オーサー」(陰謀の張本人を表す英語。原義は著者)の存在を信じたがる傾向を持つ。それはほとんど生得的なものであって、「造物主」や「創造神」を求めずにはいられない心性(ほとんどわれわれの善性と同じ?)と同質なものである。ある破滅的な事件が起きたときに、どこかに「悪の張本人」がいてすべてをコントロールしているのだと信じる人たちと、それを神が人間に下した懲罰ではないかと受け止める人たちは本質的には同類である。彼らは、事象がランダムに生起するのではなく、そこにはつねにある種の超越的な(常人には見ることのできない)理法が伏流していると信じたがっているからである。「超越的に邪悪なものが世界を支配しようとしている」という信憑は、全知全能の超越者を渇望する人間の「善性」のうちに素材としてすでに含まれているのである、と。
なるほど。ほとんど異論はない。安富氏の論よりはるかに説得的である(わたくしには安富氏の持ち出す熱力学第二法則が、陰謀史観信奉者が信じる「超越的な理法」とおなじようなものと感じられてしまう。つまり、安富氏のどこかに、陰謀史観やオカルトに通じるものを感じてしまう)。ただ困ったことに内田氏とは違って、わたくしは「全知全能の超越者を渇望する」するのは、人間の最大の問題点・弱点、世界の悲惨の根源であると思っていて、そのような渇望を克服していくことが文明化ということであると思っている。孔子さんが「我怪力乱神を語らず」といったとすれば、当時の中国は文明世界であったのである、というような行き方である。これはもろに吉田健一の流儀なのではあるが・・。
とにかく「陰謀史観」というのはわたくしには全然ぴんとこない。それで、話をオカルトの方へもっていきたい。わたくしも反=原発のひとの一部にオカルトと親和性あるひとがある程度いるだろうこと感じている。
これは今度の原発事故がおきる以前からの「原理論的・反=原発派」とでもいうべき人たちで、要するに、反=科学技術であって、原子力発電は科学技術の頂点に立つものであるので、科学技術が「悪」であるならば、原発は「最大の悪」であることは論理的に帰結する。原子力発電について冷静に判断した結果、反対することにしたというのではなく、原子力発電についての細かいことはよく知らないが、それが悪いものであることは考えるまでもない自明のことである、というような発想をする人たちである。そうだとすれば、純粋な科学技術の議論としてその安全性を論じるなどというのは論外で、「科学」というのはそもそも信用できないのだから、科学の方法で科学の頂点にある原子力発電を制御するなどという議論にはまったく耳を貸す必要はなく、とにかく反対しなければいけないことになる。
反=科学についても様々な立場があるだろうが、人間がモノの奴隷となることへの嫌悪という方向からの人たちが少なからずいるように思う。人間という崇高なものが、単なるモノに従属する存在となることは許せないというような立場である。
今はもうすっかり下火になってしまったが、わたくしが若いころに一時的に流行した「ニュー・エイジ・サイエンス」というのが、そのような方向だったのではないかと思う。そのスローガンの一つが反=デカルトであった。人間を機械として見る立場への反発である。
かなりニュー・エイジに近いところにいたひとにアーサー・ケストラーがいて、そのひとの本を読んでいて、なんとなくオカルトへの親和というようなものを感じた。この人は獲得形質の遺伝ということにこだわるのである。全体は部分の総和を超えるというようなこともいう。つまり物理学は部分を説明できるだけであって全体は説明できないというようなことをいいたいらしい。
同じくニュー・エイジの近辺にいたひとにG・ベイトソンもいて(ニュー・エイジの周囲にいたひとなかで唯一まともひとではないかと思う)、「ビリアード球の世界」と「カニと美の世界」というようなことをいう。前者が物理学の世界、後者が生命の世界。
そしてニュー・エイジとは全然関係ないが、ポパーも生命の生まれる以前の世界には「問題」はなく、生命が生まれることによってはじめて「問題」が生じるというようなことをいう。
ベイトソンがまともであるのは、生命のある世界と生命のない世界の間に線を引いたことで、ニュー・エイジがオカルトの方向に行きがちになるのは、人間と人間以外の間に線を引きたい気持ちが鎧の下からちらちらと見えるからである。
人間と人間以外の間に線を引くのはキリスト教である(魂を持つものと持たないもの)。だからニュー・エイジ運動というのは、物理化学的見方・デカルト的見方・機械論的見方が優勢になってくることで失われようとしている人間の尊厳を回復させることを目標としたもので、その一番根底にあるのはキリスト教的な人間観ではないかと思う。
安富氏の本ではラブロックの「ガイア理論」がかなり肯定的に紹介されているが(エントロピーを理解していないと批判もされている)、わたくしがガイア理論を知ったのはニュー・エイジの人たちの本からであった。直接ラブロックの本をみていないのに、他からの紹介だけで判断するのはまずいとは思うが、わたくしがそこで感じたのはいかにもオカルト的な方向であった。キリスト教信仰では、神は地球を人間のためによい世界として創造したことになっているが、ガイア理論というのは、その神の秩序を地球をふくむもう少し広い範囲に広げただけのものなのではないかと思う。われわれ人間にとってよきものである秩序が存在するはずであるという信念が先にあってガイアは後からでてくるわけで、なんらかの論理的考察からガイアというものが導かれたのではないように思った。ガイア理論では、地球やその他の星々もあたかも生命を持つものであるような描かれかたをされていたような記憶がある。
「原発事故が科学技術全体・権力機構全体への不信感へと広がってしまうことが、今回の原発事故のもたらした最悪の結果だと思う」と安富氏はいうのだが、話は逆で、科学技術全体・権力機構全体への不信感を持っていた人々が反=原発の旗の下に集まっていたが、今回の事件はその信念を決定的に強化したということなのではないだろうか。
安富氏は、オカルトに走るひとの最大の問題は熱力学第二法則そのものを無視していることであるなどといいだす。しかし、オカルトに走るひとは人間が物理法則に拘束されていること自体を許せないわけだから、熱力学第二法則を持ち出して自分たちを説得しようなどとしても、「デカルト派」「物理派」に分類されてしまうはずであり、そんなことをいうひとの見解などは、まともにきいてもらえないはずである。
本書で賞揚されている小出裕章氏などは純粋に学問的考察として原発の危険性を訴えてきたひとなのだろうから、オカルト的反=原発の人たちからは、所詮、物理の側のひとであるとして、本当の仲間であるとはみなされないはずである。
橋本治氏は「「絶対反対」と言う人を説得することは出来ない」という。つまり反=物理学的、原理論的・反=原発派を説得することは不可能なわけで、かりに原子力発電所が今の百倍、千倍、一万倍安全になったとしても、「だめなものは駄目」なのだから議論が成立しない。「話せば分かる」「問答無用」ということである。そうであるなら、原発立地の公聴会などというのは、やる側もはじめから説得など考えてもいないし、反対派ははじめから聞く耳をもたない。ただただ形式としてやるだけになる。
ということで、一部の反=原発派のひとびとのオカルト志向というのは、熱力学第二法則を知っていないとか理解していないとかの問題ではなく、もっと根の深い問題なのだと思う。これだけの事故があった以上、ますます科学技術への不信は強まっていくはずで、それは日本の物理学教育を強化すればなんとかなるといったこととはまったく次元の異なる、きわめて深刻な問題であるはずである。
この原理論的・反=原発派は、与那覇氏の分類での典型的「江戸時代」派で「反=グローバリズム」派であろう。今、俗に言われている反=グローバリズムは、わたくしが思うには、やはり反=西欧であって、そこでの「西欧」の中には色濃く「科学技術」「物理学的思考」というものが入っているはずである。そうであるなら多くのひとが江戸頭である日本は、これから急速に「反=科学」のほうにいかないとは限らないことになる。
以上は、《「風の谷のナウシカ」=エコロジー派》論からの連想で書き始めたのだが、全然、関係のない話になってしまったかもしれない。
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