小谷野敦「日本恋愛思想史」

    中公新書 2012年11月
 
 本書を読むと、小谷野氏があまりにたくさんのことを知っているし、たくさんの本を読んでいることに驚く。プロの学者であるなら当然なのかもしれないが(もちろん全然、勉強していない学者も多いのもしれないが)、その万分の一の知識も読書量もないわたくしは、本来この本を論ずる資格はないのだろうと思う。しかし、アマチュアにも三分の理はあるかもしれないから、気になった点について、ひとつふたつ書いてみることにする。
 ひとつは、本書の終わりのほうに「読者諸氏へのお願い」というところにある「自分の経験を絶対視しないこと、イデオロギー的裁断をしないこと」を要請している部分である。本書は小谷野氏がかなり「自分の経験を絶対視」して書いているようにわたくしには思えてしまう。氏は恋愛を非常に大切なもの、人生における一大事としている。それだからこそ「比較恋愛思想史」を専攻し、本書を著したのだと思う。
 しかし、世の中には恋愛などは人生の些事、かなりどうでもいいことと思っているひとも多いはずで、わたくしもまた「恋愛は男子一生の大業にあらず」と思う人間のひとりである。とすれば、小谷野氏のいう女性蔑視で武士的士大夫的意識の持ち主であることは明々白々ということになり、女人崇拝の念のない、江戸意識をいまだにひきづる度し難い人間ということになる。とはいっても、江戸時代に形成されたさまざまな見方はまだ多くの日本人を支配しているはずで、平安的源氏物語的女人崇拝的意識の持ち主はまだまだ少数であろうと思う。
 氏は「近代恋愛の中核にあるのが、恋愛結婚至上主義なのである」とする。本書ではじめて知ったのだが、かつて「強迫結婚」と「自由結婚」ということばがあったのだそうで、前者は親が決めた相手と結婚すること、後者が自分で選んだ相手と結婚することをいったのだという。わたくしの世代の言葉でいえば、「見合い結婚」と「恋愛結婚」という二項対立に繋がる言葉であろう。わたくしの若いころには「見合い結婚」でない結婚はすべて「恋愛結婚」といわれた。結婚相手を自分でえらべば、そこに恋愛感情などあってもなくても「恋愛結婚」だった。
 ところが小谷野氏の論では、「恋愛結婚」というのが恋愛が成就しての結婚というほうに収斂してしまう。それで、男女の関係で相思相愛が成立するのは例外で、多くは成就しない片思いで終わるのだとすれば、「もてない男」「非モテ系」はどうしたらいいのだという方向に議論がいってしまう。
 われわれの周囲を見渡してみれば、結婚しない人間が増えてきているとはいっても、まだまだ結婚する人間は多い。それが美男美女のカップルばかりでないのは明らかである。氏は「西洋ではもてない男女はどうしているのか、といえば・・選り好みをしないでとりあえずカップルになるのである」という。日本も同じだろうと思う。だからこそ多くの伴侶は半径5mだか50m以内から選ばれる。だが、小谷野氏は、日本人はとりあえずカップルをつくることはしない、それはわれわれが「選り好みをする傾向があり、これは戦後、家にお手伝いさんを入れなくなったのと同じ根から出た潔癖主義のように思う」という。納得できない。小谷野氏は選り好みをするひとなのかもしれないが、だから日本人が選り好みをすることにはならないはずである。第一、戦後、家にお手伝いさんを入れなくなった理由は、農家から家事見習いのために低賃金で都会に奉公に来る娘さんなどはいなくなったので、入れようにも人がいないというだけのことではないだろうか?
 恋愛にはあまり関心のないわたくしがそれでも本書を読むのは、わたくしもまた若いころ恋愛論にいためつけられた記憶があるからである。わたくしも恋愛できない人間なのだった。「恋愛結婚でなければ不道徳だ、と与謝野晶子のように言ったのでは、恋愛できない男女がいたずらに苦しむことになる」と小谷野氏はいう。わたくしもそうだった。
 しかし、小谷野氏のいう「恋愛できない男女」は、相手を好きになっても相手から好きになってもらえないために恋愛が成就しない男女のことである。氏は美男美女を恋愛の勝利者とし、もてない男や女を恋愛弱者であるとする。しかし、氏の定義によれば恋愛の本来は片思いなのであるから、ここでいう「恋愛できない男女」というのは実は恋愛をしているわけである。ただ相思相愛の関係になれないというだけである。だが、本当に「恋愛できない男女」「片思いさえできない人間」というのがいると思う。目の前に美男がいても美女がいても、「ああ美男がいるな」「美女がいるな」と思うだけで、それ以上は何も感じないないのである。念のためにいっておけば、同性になら感じるというという方面の話ではない。とにかく恋愛の方面に鈍感で、そのような感情がなかなか生じてこないのである。
 そういう人間はとても多いのではないだろうか。恋愛小説などを読むから世の中には恋愛というものがあるのだろうなということを頭では理解している。しかし、そういうことは自分には縁のないものと思っていて、自分のなかではいっかなそういう感情が生じてこない。そこに与謝野晶子恋愛論がでてくるとどうなるか。自分は美への感受性に乏しい感動ということのできない、心の冷たい、情けない人間であると思えてくる。そして、その自分にあるのは欲情だけなどということになれば、不道徳どころではない、ひとでなしである。恋愛を「よきもの」「するべきもの」とするイデオロギーの最大の問題はそこにあると思う。それは恋愛できない人間(片思いする人間ではなく、片思いさえできない人間)を苦しめる。
 わたくしは恋愛を「よきもの」と見る思潮は西洋からの輸入だと思っている。わたくしのかんがえる「恋愛輸入品説」というのはそのことである。「恋愛はいいものであるとする見方は西洋から輸入された」とする説である。明治以前にも恋愛はあったにきまっている。しかし、それは人間におきるさまざまの現実のひとつであって、良きものでも悪しきものでなく、ただそれだけのことであった。それがある時から良きものとなった。北村透谷のようなことをいう人間はそれまでいなかった。透谷の説はキリスト教の誤解に由来しているのかもしれないが、日本に以前からあったものではない。キリスト教は日本ではまったく根づいていないけれども、恋愛をよきものとみる思潮などを通じて密輸入されているとわたくしは思っている。
 だが、小谷野氏の勧告にしたがうことにして、自分の経験にこだわるのはやめて、虎の威を借りることにする。山崎正和氏の戯曲「おう エロイーズ」である。本書でも言及されているアベラールとエローズの話に基づくものであるが、実際のアベラールとエロイーズは全然違った人間であったろうと思われる。これは山崎氏の造形によるアベラールとエロイーズである。
 舞台に朗読者があらわれていう。「ときに、1118年。この年はまた、人間の心の歴史にとって記念すべき年だったといえるかもしれない。なぜなら人類はこのアベラールとエロイーズによって、初めて純粋な男女の愛というものを知ったと考えられるからである。男と女の愛。女と男の愛。これを口実にしてひとは社会に叛き、親子を裏切り、ときに夫婦のきずなを断ってもなお良心の咎めを免れる。この不思議な言葉を人類が知ったのが、思えば1118年であった。」
 小谷野氏は「恋愛=西欧十二世紀の発明説」に反対する。かりにそれがここでいわれるように1118年ではないとしても、西欧のある時代に、古典時代のギリシャにもローマにもなく、イスラム圏にもなく、東洋にもない独自の恋愛観が生まれたことは確かであるようにわたくしには思われる。そして、それは日本にも、ある時代(おそらく明治)まではなかったもので、源氏物語的な女人崇拝とはまったく異なるもので、しかも現在のわれわれの恋愛観を相当程度まだ支配しているとすれば、それはどこかで輸入されるしかなかったはずである。
 恋愛という言葉の定義に結局はなってしまうわけで、男女が求め合う関係は太古からあったにきまっているが、それを良きもの、すばらしいもの、何よりも価値あるものとする見方は、西欧のある時代に生まれた独特のものであるようにわたくしには思える。
 「おう エロイーズ」でみる限り、17歳のエロイーズは誘うひとであり、積極的で攻勢にでる。39歳のアベラールは守勢一方、エロイーズから誘われて「悪魔め。」と呟く。女性嫌悪者であることは明白である。しかしエロイーズからは慕われているのだから、「もてる男」であり、恋愛の勝者ということになるのかもしれない。だが、熱のないひとであり、何事にも執着できない人間として描かれている。アベラールが「私は今までだれも憎んだことはないのです」というのに対して、論敵のギョームが答える。「よろしい、いいなおそう。君は生まれつき、だれも愛したことのない男だとね。むしろ不幸な男なのかもしれん。」 「私はこの世に、本当に面白いことなどあまりないのだ。」とアベラールはいう。「私にはまったくひとと争いたい気持ちが欠けていることに気づくのだ」、と。ギョームはいう。「あの男は、本当は恐ろしく臆病なのです。・・ちょっとした失敗からいつでも足もとが崩れるような気持ちがして、あの男はその瞬間を待っていることができないのです。だから、絶えず失敗の先廻りをして、自分のほうから落ちぶれて行こうとする。」
 情熱がない人間が恋などをするわけはなく、ひとと争いたい気持ちがなければ、女を巡って誰かと争うこともなく(競争相手があられたら、すぐにどうぞと譲ってしまう)、そもそも失敗が怖いなら、恋愛などしないほうがいいに決まっていて、恋愛しなければ失恋もまたない。しかし、そうも言っていられない。
 アベラールはエロイーズにいう。「たしかに君は欲しい。こんなに焼けるような思いをしたことがない。だが、私にはわからない。これはただの欲望じゃないのか。ひょっとすると同情じゃないのか。・・」 こんな優柔不断な男がなぜもてるのかさっぱりわからないが、エロイーズはこんなとんでもないことをいうのである。「私は夢を見ているんです。いつまでも、あなたの日陰者でいたい。そして今に年をとったらみんなに指さしていわれたい。あれがアベラールの囲い者だった女だ、お気に入りの娼婦だった女だよって。」 なぜなら「妻と名のつく女は、ものを考えるひとをだめにしてしまう」から。アベラールは困ったひとで、「寝室で見る君はただの女だ。あそこでは、私はどんな女でも欲しがることができる。だが、自分の肉と闘いながらこうしていると、私にはほかの女でない、君ひとりだけが欲しいのだとわかる。」などという。本当にインテリというのは困ったものである。だから、アベラールにさしむけられた殺し屋はいう。「ぐずぐずいってないで、さっさと女っ子(あまっこ)は抱いちまえばいいのよ。ああいうだらしのねえ野郎がいるから、どだい世の中におかしな理屈をこねる生意気な女が増えるんだ。くだらねえ。」
 殺し屋さんのいう通りなので、こういった「ぐずぐずした理屈」をこね、自分で自分がわからないないなどと変梃なことをいう人間は、ある時期の西欧に生じた。西欧の恋愛というのはこういう変梃こみのものなので、「恋愛西欧12世紀起源説」というのはそのことを指すのだと思う。ギリシャにもローマにもこんなねじくれた恋愛観はなかった。キリスト教が悪い。
 日本にはキリスト教はない。人間を魂と肉体に分け、肉体を罪深いものとする見方はない。だから平安文学が女人崇拝的で江戸の文学が女性蔑視的であったとしても、そのどちらにも魂と肉体を分ける見方はない。しかしアベラールを変梃にしているのは、魂・肉体二元論なので、それはキリスト教に由来する。そしてわれわれはついにキリスト教を受容しなかったにもかかわらず、キリスト教固有の恋愛観は日本においても浸透している。小谷野氏が「恋の原型はいわゆる「片思い」でとらえるべきである」というとき、その恋をしているのは「肉体」ではなく「魂」なのだと思う。それは平安貴族の女人崇拝ではなく、聖母マリア信仰に近いのではないだろうか?
 もう一点。本筋とは関係ない部分であるが、111ページに「日本では「やおい」と呼ばれる男性同性愛もののライトノベルや漫画が女に人気があるが、これは日本の女性が女性嫌悪的だからである。・・三島が特に女に人気があるのも、そのせい(三島が女性嫌悪的であるから)である。」とある。こういう部分の議論が非常に乱暴であると思う。まず三島が女性に人気があるのだろうか? 三島の書く物はいかにも文学文学しているから文学好きの女性が「三島も好き」であるということはあると思う。しかし乏しい経験の範囲でいうと「三島が一番好き」という女性はあまり見たことがない。倉橋由美子などは例外的な「三島好き」なのかもしれないが、倉橋氏を典型的女性であるとするひとはまずいないであろう。三島が女性嫌悪的であるのは確かであるとして、三島の作を好む女性がその理由によって好むという断定がなぜ可能なのだろうか? 三島の特長は女性嫌悪的以外にもいろいろあるのだから、その他の理由によって好まれていないのだという証明がない限り、このような断定はできないのではないだろうか?
 そして日本の女性は女性嫌悪的なのだろうか? 以下また虎の威を借りるが、今度はサーモン&サイモンズの『女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密』である。これは以前も論じたことがある。こういう題名であるが、「進化論の現在」というシリーズの一冊で進化論の啓蒙書である。それによれば、アメリカにも「やおい」に相当するような女が書き女が読む男性同性愛小説というのがあるのだそうである。もしそうであれば、アメリカの女性もまた女性嫌悪的ということになるのだろうか? 「女だけが・・」の主張によれば、「スラッシュ小説」と呼ばれる男性同性愛小説は「ハーレクインロマン」の変形なのであり、人間の進化の過程(農耕社会以前の長い長い狩猟採集社会の時代)で培われた心性が、女性にそのような小説を好むようにさせるのだそうである。それは男性がポルノを好むのと一対をなしている、と。
 サーモンたちの主張が正しいのかどうかはわからないが、男女の差を文化が既定するものではなく生物学が既定するものとする見方は、現代においてはかなり有力な見方となってきているのだから、そういう視点なしにいきなり、「やおい」の存在から、日本の女性は女性嫌悪的などと断ずるのはいささか乱暴ではないかと思った(女性の「女性性」嫌悪から生じると説明される、それ故、ほとんど女性に限局された疾患である神経性食思不振症の発症が、特に日本に多いということはないだろうと思う)。
 本書では「もてない男」の対語が「美男・いい男」である。しかし、どう考えても対語は「もてる男」である。そして「もてる男」は「美男」とは限らず、お金や社会的地位・学歴・体型・社交性の有無などさまざまな要因がそれにかかわるはずである。『もてない男』で小谷野氏は「俺は東大を出ているのになぜもてぬ」と怒っていたけれども、東大をでていたらもてるとは限らないけれど、東大をでていることはもてるための条件のひとつくらいにはなるのではないだろうか? 逆に「もてない男」がもてない理由は「美男でない」ということひとつではないだろう(「美男」でも「もてない男」もいると思うし、「美男」でなくても「もてる男」もまたさくさんいると思う)。本書では恋愛がうまくいくかいかないかは「美男・美女」であるかどうかですべてが決まってしまうような書きかたがされているが、どうもその点に納得できないものを感じた。
 いずれにしても自然科学とは違って、人文学では何が正しいのかという論争に結論がでることは期待しがたいことが多い(ポパーは自然科学でもそうだといっているが)。「恋愛輸入品説」や「西洋十二世紀の発明説」の場合も、それを議論している人たちのあいだで、何をもって恋愛とするかについての見解がそもそも異なっているとすると、議論はすれ違いになっても不思議ではない。したがって、ここで述べたことも、わたくしにはそう思えるということであって、それが正しいということではない。
 自分ひとりのことを考えても恋愛についての見方は30年前と今とではまったく異なってしまっている。これからまた変わるかもしれない。一人の人間のなかでさえ一定しないものを学問の対象して議論することは、とても難しいことであると思う。
 

おうエロイーズ! (1972年)

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女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密 (進化論の現在)

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