D・カーネマン「ファスト&スロー」(5)第11章から13章

 
第11章 アンカー
 アンカーは「錘」で、まったく判断する材料をもたないことを判断せざるを得ない場合、無関係な数字などの提示が簡単に判断に影響してしまうことをさす。「ガンジーは亡くなったとき114歳以上だったか」という質問と「35歳以上だったか」という質問では、前者のほうが、はるかに高い年齢が亡くなった年齢の推定として返ってくる。住宅の値段は高く提示されるほうが立派な家に見える。このような事例は「われわれは自由にものを考えているか」という問題に大きな疑義を生じさせる。
 
第12章 利用可能性ヒューリスティック
 「60歳以上で離婚するひとはどのくらいいるか」と質問されたら、自分の周囲にそういうひとがいるか考える。すぐにそれが思い浮かぶのであれば、それは多いと判断する。とすると報道で大々的にとりあげられる事例はすぐに思い浮かぶので多い印象をあたえる。飛行機事故は大々的にとりあげられるので、われわれはその可能性を過大評価しがちである。身近な例の代表は自分であるから、チームで仕事をしている場合、自分の貢献度を他のメンバーより過大に評価しがちである。
 
第13章 利用可能性、感情、リスク
 専門家と一般市民の意見の対立をあつかう。
 災害対策は、実際に体験した最悪の事態を想定して設計される。過去の最悪より悪い事態が起きることは想定されない。また12章で論じられたように、われわれの判断は報道の多寡、有無に非常に大きく左右される。めったにおきない集団食中毒はおきると大々的に報道されるからそれはとても多い印象をあたえる。しかし雷に撃たれて死ぬひとは集団食中毒で死ぬひとの50倍以上いる。
 また、われわれの判断は感情によって大きく左右される。だからわれわれは自分が好意をもつ技術はすべてよいと思い勝ちであるし、嫌いな技術にはどこにもいいところはないと判断しがちである。
 そうであるなら素人の判断はきわめて危険であり、専門家の判断のほうが頼りになるという見解がでてくる。しかし、専門家はリスク判断では数だけを往々にして問題にする。たとえば人の死について「いい死に方」と「悪い死に方」などの区別はしない。死んだひとの数だけが問題になる。
 しかしたとえば事故死でも「たまたま遭遇した事故での死」と「自分が好きでやっていたスキーでの事故死」は同じでないと素人は判断する。素人の感性のほうが「豊か」なのではないだろうか? だから、「リスクは客観的に計測可能である」とする専門家の大前提に疑問を提示する研究者もいる。そもそもリスクという概念をわれわれが発明したのは、われわれの生活の中で遭遇する危険や不確実性に対処するためだったのではないだろうか? そういう研究者によれば「リスクを定義することは権力を行使することにほかならない」ことになる。
 一方、専門家を擁護するひとは、ポピュリズムが行き過ぎない防波堤として専門家は重要であるとする。
 われわれは小さなリスクへの対応能力を欠く。それは無視されるか過大視されるかのどちらかである。カーネマンは「パーティからの帰りが遅い娘を寝ずに待っている両親」という例をだす。両親は心配するような事態はほとんどないとわかっているにもかかわらず、最悪の事態をイメージしてしまう。計算確率の分子のみが見え、分母が見えなくなってしまう。
 これを最大限に利用しているのがテロリストである。テロ事件はかならず報道される。われわれはそれに感情を動かされ、それを過大視してしまう。
 カーネマンは専門家擁護と素人の擁護のどちらにも軍配はあげない。「民主主義は、どうやってもそうすっきりとは割り切れないものである」という。
 
 こういうあたりの議論は直ぐに東日本大震災とそれによる原発事故を想起させる。今回の地震は過去最高のものではなかったとしても、ここ数百年では最大のものであったのかもしれない。そうだとすると「想定外」の事態ということになってしまうのかもしれない。また原発事故において、専門家の発言がいかに信頼できないものであるかということについても、われわれは身にしみて体験した。そして、ある技術を嫌いなひとはそれのもたらす利点については一切考慮せず、好きなひとはそれに潜在するリスクはほとんど無視していることも、あらためて実感した。「全否定」と「全肯定」では議論の成立する余地はないわけで、民主主義というのが妥協であり、どこかに接点をみつけることであるとすると、こと技術にかんする問題については民主主義というのは機能不全にならざるをえないのではないと、わたくしなどは強く感じる。
 専門性が問題にされる場合、情報の非対称性ということがよくいわれるが、原子力などということについて素人が専門家なみの知識を持つことは不可能である。わたくしなど3月11日の地震の翌日、テレビで「原子炉は地震のため停止しています」というテロップをみてそれで大丈夫と思っていた。制御棒とかいうのが入れば停止するから、それでうまくいったものと思ったのである。停止した後も冷やし続けなくてはならないことなど全然知らなかった。
 
 医療の場にいるものにとって、ここでの話は、他人事ではない。医療者にとって患者さんはワンノブゼムである。そうでなければ治療できない。だから家族や身内の治療においてはしばしば間違うし、一般的に家族の治療はすべきでないとされている。
 一方、患者さんとその関係者にとっては、「見たものがすべて」「経験したことがすべて」であって、事故やミスはおきれば100%である。しかも日本では(少なくとも建前上は)「ひとの命は地球より重い」であって、計量可能なものではないとされている。一時、医療事故がきわめて重大な問題として、報道で非常に大きく取り上げられた時期があった。医療行為というものは100%のものでなければならず、一切のミスはあってはならないということがその報道の前提であるように思えた。しかし、to err is human で「間違うはひとの常」であって、実際には間違いはおきる。しかし医療者の側から「間違うはひとの常」などといえば、大きな反撥が来るのが必定である。本書での記載によれば、「こうしてメディアが競って刺激的な見出しを打つにつれて、危険はどんどん誇張されていく。高まる一方の恐怖感や嫌悪感を和らげようとする科学者や評論家はほとんど注目されず、されたとしても敵視されるだけだ。危険が過大評価されていると口にしようものなら、誰によらず、「悪質な危険隠し」とみなされかねない。こうして問題が国民的関心事になると、政治家の反応は市民感情の強さに左右されるようになるため、事態は政治的重要性を帯び始める」ということになる。
 医療者とくに医者がマスコミに抱く嫌悪感というのは相当なものがある。一部の医者はマスコミをマスゴミと呼ぶ。そこには「医療にはリスクがつきものなので、当然おきるべくしておきた自然の事態を、あたかもミスの如く呼びやがって」という感情的な反撥もあると思うし、そもそも「何も知らない素人が専門的なことに口をだしやがって」という専門家としての自負と驕りもあるだろうと思う。しかし、最近は医療事故や医療ミスについての報道は著しく減った。たまにあっても以前のような感情的なものではなく、「
客観的」で事実を淡々と伝えるほうなものになってきている。「刺激的な見出し」はほとんどなくなっている。それは医療者が抗議したからではなく、医療が崩壊してきているからである。
 医療崩壊は決してマスコミの報道だけが原因ではないが、現場で産婦人科の医師や外科の医師を志望するものが(少なくとも一時期)減ったのは確かで(最近は回復してきているという話もある)、それは分娩とか手術というのが医療行為のなかでも特にリスクの高い分野であるので、そういう分野を回避する傾向が医学生のなかで(一時?)強まったのは事実である。
 マスコミのほうは、それを見て報道のニュアンスを変えるようにしたとは決していわないけれども(自分たちの報道で医療者の側も大いに反省したであろうと、自分たちのキャンペーンが相当の成果をあげたと自負しているのかもしれない)、やはりちょっとやり過ぎたかなと反省もしているのであろうと、推測する。(あまり効果があったとは思えないけれども)、一部の医者は特定の新聞(医者からみて偏向した医療記事を多く掲載したとされる新聞)の不買運動などもしていた。
 本書との関連でいえば、問題なのはマスコミは素人の代表とはいえない(市民感情の代弁者を自負しているのかもしれないが)ことで、医療分野の担当者であれば、その分野について非常な勉強をしている。ただ医療を外から見ているひとであっても、医療の実践者ではないので、その論説は大所高所からの正論となる。専門的な知識に欠ける素人が感情から判断することは已むを得ないことで、医療者も当然それに対応しなくてはならないのだが、専門的な勉強をした担当者が、ここをもっとこうしていればそのような事故とかミスはおきなかったはずであるというような、まことに正しい論を展開されると非常に困る。言っていることは正しい。なぜ正しいかといえば、事故やミスがおきたという事実を知ったうえで議論を展開しているからで、実際に医療の現場でそのような机上の議論を実践することが可能であるのかということは問われないのである。そのようなことを問うのは「悪質な危険隠し」につながるのであって、そのような「悪質な危険隠し」を暴くことこそがマスコミの使命であるとする意識もまた医療問題担当のマスコミ人はもっているからである。最近でも、ある老人収容施設で火事がおきれば、スプリンクラーをつけていればという論が出る。確かにつけていればどうにかなったのかもしれない。しかし、施設のひとからすれば、そうできない様々な事情があったのかもしれなず、そんなことをいわれてもであるかもしれないが、実際に火事がおきたという事実の前にはなかなかそれをいえないことになってしまうのである。
 第16章で、われわれは全体から個を推論することには不熱心だが、まさにそれと釣り合うように、個から全体を推論することには熱心である、ということがいわれている。個々の事実というのは非常にわれわれにとって強烈なのである。